2017年11月21日 (火)

つまんない……

 熊谷のはは(義母)がことし5月、病を得た。みずからおかしいと気づいて病院へ出向いたのがはじまりだった。
「お母ちゃん、おかしいと思ったって、どういうところが?」
「障害物のないところで、立てつづけに転んだの。それと何となく左方向に傾いてゆくようだった」
 とははは応えた。
 医師の診断は「脳梗塞」であった。そしてたちどころに入院となる。
 入院ちゅうも一所けん命歩行と左手のリハビリテーションに励み、それはほんとうによく励んで、3か月後退院したあと、もとの暮らしにもどることを目標にした生活は順調に見えていた。
 しかし、そんなさなか不整脈がみつかって心臓カテーテルをし、その後ふたたび脳梗塞が起きて、ははの左半身に不自由が襲いかかった。ちちとははのふたり暮らしを助けるため、夫が熊谷で生活をはじめたのは8月のことだ。パソコンと映画の編集のための機器類を運びこみ、仕事をしながらの支援だが、それでも食事の仕度、洗濯といった家事、病院への送り迎え、ちちとふたりでの農作業など、よく支えている。
「やっと両親と向き合っている感じだ」
 とつぶやくのを聞きながら、いまのわたしは家と武蔵野市を空けられないが、夫を気持ちよく送りだすこと、ちちははに何かしらの面白みを届けることに徹する決心をする。自分が直接ちちははの支援に出かけられないことに対する後ろめたさのようなものはなかったし、それはいまもない。夫と相談して決めたこの方法が、夫とわたしの支援だと思えたからだ。

 ところが、だ。
 夫が1週間のうち2日ほど帰宅し、それも東京での打合せや地方での仕事のための帰宅、という生活のなかで、わたし自身のバランスがだんだん崩れてきた。
 どのあたりのバランスがどんなふうに崩れてきたのかわからずにいたころが、いちばん面倒だった。腹の底に澱(よど)んでいるものをおもてに出さぬようにしていたために、夫とのコミュニケーションがとれなくなってしまった。
 いや、吐き出そうとはして、実際さまざまことばを投げつけたりしていたのだが、それはほんとに吐き出さなければならないものとは別のものだった。夫が他人のように見えてきて、わたしは焦った。自分の本心がみつけられず、焦った。

「……つまんないなあ」

 ある日、何気なくつぶやいたこのことばに、どんなに救われたことか。
 そうなのよ。わたし、つまんないの。
 ちちははの一大事に「つまんない」と愚痴るなど、どうかしている。鬼嫁と呼ばれても仕方ないのではあるまいか。ま、鬼嫁問題はちょいと横に置くとして、わたしはとつぜん気が楽になった。
 そうして久しぶりに顔を合わせた夫に向かって、口に出して云ったのだ。
「つまんない」
 すると、夫も云うのだった。
「つまんないなあ」
 これで、よし。
「つまんない」とやっとのことで口にしたわたしたちは、「ちょっとつまんないけど、いましばらくがんばろう」と誓い合っているも同然のわたしたちであった。一足飛びに結論を出そうとしたりせずに、初めての道を手探りですすんでゆこうとするとき、足元を小さく照らす灯(ともしび)が、「つまんない」というひとことであるとは。
 ことばとは、ひとのこころとは、愉快なものだなあ。

2017w

家の人口がひとり減っただけで、
おみおつけが余るようになりました。
そこで、味噌玉をこしらえました。
ちちははにも届けるつもりで、
たくさんつくりました。

味噌
1213g(1人分)
けずり節(よくもんで粉にする)
だし粉(煮干しでや昆布など)
乾燥ねぎ
カットわかめ
高野豆腐

2017w_2

まるめてから、
麩や、乾燥させた大根葉をのせたり……
保存は、冷蔵庫でも冷凍庫でも。
2017w_3

お弁当にもってゆくときは、
こんなふうに。

| | コメント (14)

2017年11月14日 (火)

たこ焼きパーティー

「熱いお茶を飲んだら、まずちょっと眠りたい」
 午後6時の台所の流しの前で、ひそっとわたしは思っている。
 いつもなら、疲れたからだを台所を置いたなら、すぐとやる気が出てきてあれやこれやをこしらえはじめるというのに、少しもそうならない。この日は台所に向かうところからして、大儀だった。

「熱いお茶を飲んだら、まずちょっと眠りたい」

 というのは、たしかに正直なわたしの思いだった。
 それでも、不思議なもので台所に立っているうち、いろいろの気配に誘われて、ちょっと何か食べてもいいような気持ちにうつろった。
「(自分でない)誰かさんのつくったものを食べたい」
 まあ、どちらも思ってみるだけで、何だかんだとこしらえはじめる。気の入(はい)らない女を助ける手立てはないよ、とでもいうわけなのか、材料も道具も、どことなくよそよそしい。こんなことなら白菜、小松菜、豆腐でも買ってきて、さっぱりと寄せ鍋をつくればよかった。
 そうすれば、こちらも少しは楽に気がはずんで、台所の誰かが……そうだ籠のなかの柚子ひとりでもわたしを助けようとしてくれただろうに。

 そんな弱気は一日だけと思ったが、そうではなかった。

 翌日も、翌々日も、台所は晴れなかった。
 考えてみると、外への出番が多かった上、さまざまな用事に駆け込まれる日がつづいていた。夕方台所に入りさえすれば、張っていた神経がひとりでにゆるみ、心身が回復していったのがそうならないのは、年齢のせいかもしれなかった。
 理由はどうでも、そうなってしまった自分を自分で抱きとめてやらなければならない。自分が、こころとからだにつくってしまった負担は「借り」であり、それはいかに自分自身へのものであっても返さなければならない。
 ことさら忙しかったという自覚はないのだが、もしかしたらあちらでこちらで神経を擦り減らしていたのかもしれない。こういうとき、「熱いお茶を飲んだら、まずちょっと眠りたい」と思ったり、「誰かさんのつくったものを食べたい」とつぶやいたりするこころの信号を見逃さず、ちょっぴり怠けさせてやろう。

 さてどうするか。

「明日は怠けます」とおそるおそる告げる。
 二女があっさりとこう云った。
「じゃ、わたしがたこ焼きパーティーを開きます」仕事帰りに買いものをし、二女がたこ焼きパーティーを開いてくれた。パーティーと云っても、わたしと二女のふたりだったが、たこ焼きをくるっとやるのを手伝ったり、明石焼き風にして食べたりするのはたのしかった。
 びっくりするほど食べた上、笑いながら食べたせいか、じわじわ元気が湧いてきた。怠けたくもあったが、おもしろいこともしたかったんだ、わたしは。
 そんなわけなので、その日は深夜まで読書をし(『あきない世傳 金と銀』一、二巻 田郁/角川春樹事務所)、翌日寝坊した。

 今回は、こうして自分自身への借りが返せました。

2017_2

たこ焼きパーティーの翌日は、
長女がおでんを運んでくれました。
それから、昆布の佃煮も。
だしをとったあとの昆布ためておいた(冷凍)のを
煮たそうです。
そうして、これは効きました。
からだがしゃんとしました。

| | コメント (40)

2017年11月 7日 (火)

武蔵野市

 113日、わたしの住む東京都武蔵野市が市制施行70周年を迎えた。
 1889年(明治22年)にいくつかの村の集まりからできた武蔵野村、その後の武蔵野町を経て、1947年(昭和22年/終戦の2年後である)、市として誕生した。東京都では、八王子市、立川市につづいて3番目に市となった。

 わたしが住みはじめたのは、
1992年。
 自分ではおぼえておらず、「いつ武蔵野市民になったんだろうか」とつぶやいたところ、向かい合って仕事をしている長女が応える。
1992年、わたしが小学校2年のとき」
 それを信じることにして勘定したら……、25年! なんと四半世紀も住んだのだ。
 知らぬ間に25年住んでおり、もっと知らぬ間に武蔵野市が70歳になっていたというわけだ。
 25年前、わたしは武蔵野市の市民文化会館に仕事で出かけた。当時、「ちょっとのあいだ活字の仕事を休みます」ととつぜんの宣言をし、展覧会やイベントのプロデュースを生業(なりわい)としていたわたしのさいごの仕事であった。結局3年間活字の仕事を休むことになったのだが、「休むのをやめよう」と思ったのもまた、とつぜんだった。
 さいごの仕事だったが集客が捗捗(はかばか)しくなく、成功とは云えなかったが、帰り道、気持ちが軽くなっていた。武蔵野市民文化会館をあとにして、「かたらいの道」という名前のついた小道をJR三鷹駅に向かっててくてく歩きながら、わたしはこう決めたのだ。
「この町に住もう」

 それから
25年。
 わたしと長女と二女の3人暮らしが、武蔵野市ではじまった。
 小学校と学童クラブ、保育園に育まれた娘たち同様、わたしもこの町に抱きとめてもらった。武蔵野市に住もうとは、思いつきのように決めたのだったけれども、あれはじつに佳き決断だった。
「かたらいの道」をてくてく歩いていたあの日、20年後、自分が武蔵野市の教育のために働くことになるとは思わなかったが、何もかもが、その道の先にあったのだ。この道をどこまで行けるかわからないが、まだしばらくは歩きつづけられるだろう……。

 さて、
70年前 63000人の都市としてスタートした武蔵野市は、現在人口145016人(2017101日現在)、人口密度は13,181.2/㎢(全国790市中2位)。面積10,98㎢。市内を中央本線が直線で貫き、吉祥寺駅、三鷹駅、武蔵境駅を有することも特徴のひとつ。市立小学校12校、中学校6校がある。

 武蔵野市へ。

 70歳のお誕生日おめでとう。
 これからもよろしくお願いします。

2017w_2

武蔵野市立 武蔵野ふるさと歴史館
市制施行70周年記念企画展
TARGET No.375
 〜攻撃目標となった町、武蔵野〜」
太平洋戦争のさなか19441124日、
アメリカ軍の爆撃機B29は東京に向け初飛行。
目標は武蔵野市。
第一目標である中島飛行機武蔵製作所を24機が
爆撃しました。
アメリカ軍による入念な事前準備(偵察機の飛行)の
撮影記録や作戦任務報告書、飛行航跡図、
損害明細書ほかが展示されています。
武蔵野におけるアメリカ軍の計9回にわたる爆撃によって
中島飛行機武蔵製作所の行員、周辺住民(子どもも)ほか、
多くの人びとが被害に遭っています。
しかし、爆弾を投下した米兵も、戦争で命を落としていることが
このたび収集の資料から明らかになりました。
戦争の恐ろしさ、哀しみ、むなしさを突きつけられる
思いがします。
期間中、もう一度訪れるつもりです。
お近くの皆さん、是非お出かけください。

2017
1014日(土)−1228日(木)
開館時間午前9時30分〜午後5時
休館日 金曜・祝日
武蔵野市境5155 〈入場無料〉

201770w_2

武蔵野市市制70周年記念
武蔵野のおみやげ「むさしのプレミアム」認定のサブレです。
001/武蔵野市の地図
002/ひと・まち・情報 創造館 武蔵野プレイス
003/武蔵野市井の頭自然文化園の象のはな子さん
  (2016526日没/69歳)

| | コメント (26)

2017年10月31日 (火)

いちご!

 書棚のなかに、家族の一員だったいちごの写真が飾ってある。
 通りかかるたび、立ち止まって「いちご!」と声をかけたり、何となく話しかけたり。そんなことが5年近くつづいている。

 いちご。

 17年間ともに暮らした黒猫(雌)である。
 2013年1月にこの世から旅立ってから、5年が過ぎようとしている。いちごという名をつけたのは、ちっちゃな黒い猫を拾ってきた二女であり、小学2年生だった当時の彼女のなかには「苺」の甘酸っぱいイメージがひろがっていたはずだ。が、「いいね、いちご」と応えたわたしは、別の受けとめ方をしていた。猫がうちにやってきた5月1日の「ご・いち」を組み合わせて「いちご」。
 猫と暮らすのも初めてだったし、そも、猫を知らないまま生きてきたわたしだった。いちごから見たら、さぞとんちんかんなことばかりする同居人だったろう。
 いちごとの暮らし、じつにいろんなことがあった。
 思い出を綴れば何日もかかるだろうし、そうでなくてもわたしは過去をふり返ったり、あともどりをするのが苦手だ。
 この世の存在でなくなった相手とも、望みさえすれば〈現在〉があり、〈未来〉がある。
 いまでも語りかけたいいちごであり、きっと、来年も再来年もわたしは「いちご!」とやっている(草葉の陰にならんで坐っているかもしれないにしても)。ともに過ごした日日はなつかしいけれど、わたしにはやっぱり〈いま〉と〈これから〉が大事だ。

 ある日。

 いちごの写真の前で「ねえねえ、聞いて」とやったのち、書棚のガラス扉をしめる。アアアアア。と、扉が鳴いた。いちごの声で鳴いたのだ。
 もう一度聞こうとして扉を開け閉めしてみるが、鳴かない。
 かすれたようなアアアアアは、いちごがお腹をすかせたときにたてる鳴き声だ。甘えたようなその呼び声を久しぶりに聞いて、こんどはわたしがあああああ、と鳴く番だった。
 何と云ったらいいか……そうだ、励まされる思いがした。
「アタシハ イツモ ミマモッテル」

 その日から、わたしはいちごの写真に向かって、「きょうもできたら、何かのかたちでメッセージを送ってください。おねがいします」と頭を下げるようになった。いまなお、これほどいちごの存在を頼りにしていたことに、自分でも驚いた。

 その後、どうだったか。

 通りすがりに黒猫を見かける。

 猫が何かを云いた気に近づいてくる。
 カラス(黒い)が目の前に舞い下りてくる。
 黒猫の絵や写真や置きものに目がとまる。

 そんなことで?

 と云われたって、わたしは「ええ、そんなことで励まされているのです」と胸を張る。
 猫たちが、黒い誰かさんたちが、ミマモッテルと、クジケルナと、ソレデイインダヨと、わたしに呼びかける。

2017w_2

これは、二女のところに2年前、
サンタクロースによって届けられた
黒猫(いちご)のクッションです。
大きさは全長45cmくらい。
うらやましくて、
ときどきだっこさせてもらいに行きます。
いちご!

| | コメント (24)