2017年9月19日 (火)

一所けん命ぶれながら……

「あのひとはぶれない」
 というのは褒めことば。
「あのひとは、どうもぶれるからなあ」
 というのは批判。
 〈ぶれない〉のはよくて、〈ぶれる〉のはよくないと、相場が決まっている。そしてそして、〈ぶれる・ぶれない〉ということばを耳にする機会は増える一方だ。20年くらい前までは、〈ぶれる〉ということばは写真を撮る瞬間、カメラが動いて画像がぶれる、というときくらいしか使わなかった。
「あー、ぶれちゃったね」
「ぶれたぶれた。もう1枚撮っときゃよかったー」
 という具合に。
 辞書をひいてみたら、〈ぶれる〉は、(正常な位置から)ずれる、揺れ動くという意味であった。もちろん、写真撮影のときに生じる〈ぶれる〉も載っている。
 近年、写真の〈ぶれ〉なんかはかえっておもしろいと評価される。雑誌の写真撮影の現場にいるとき、わざと〈ぶれ〉を生じさせる場面にたびたび遭遇する。躍動感を表現できる、不思議なニュアンスが醸しだせる、というのが理由だそうだ。つい先日、手提げ籠を持ったところを写される機会があったのだが、あのときも写真家から「籠をぶんぶん振りまわしてください」と指示されて、ぶんぶんやった。へえ、と思いながらぶんぶん振りまわしたのだ。
 そうだ、現代において〈ぶれる〉のが困るのは、ひとの態度、思想、方針。
 肩書きに「長」の字のつくようなひとなんかは、過去の考えとちょっとでも異なることを云うと、すぐ「ぶれてる!」と批判される。しかしさあ、このように複雑な現代社会を生きているわたしたちは、鉄の棒のように曲がらず考えや方針を貫くことができるだろうか。もっと云えば、そんなに頑なに貫いていいものだろうか。
 なんてね、まともなことを書いてみたけれど、わたしはただのへそ曲がりなのかもしれない。つい不人気の〈ぶれる〉の肩を持ちたくなる。庇(かば)いたくなる。

 ぶれたっていいじゃないかー!


 あ、誰かに睨まれた。

 かまうもんか。

 ぶれたほうがいいときだって、あるじゃないかー!


 誰かこちらに来る……。

 逃げます。

 態度を変えるとき、考えが変化したとき、方針を変更するとき、わたしは「こう云ってたんですけど、変えます。その理由は斯斯然然(かくかくしかじか)。途中たっぷりぶれながら考えました」と話すようにしている。〈ぶれる〉の肩を持つからには、説明責任は果たさないとね……というわけである。それでめんどうな羽目に陥ったこともなくはないけれども、一所けん命ぶれてよかった。と、考えることにしている。


 ところで。

 ついこのあいだ、こんなことがあった。
 仕事でベトナムに行っていた夫が、めずらしくわたしに洋服を買って帰ってきた。街を歩いていてぱっと目につき、「あ、アナタのだ、と思った」という長袖の衿なしブラウスは、なるほどわたし好みだ。値札を見たら〇(ゼロ)が6個もついていて、びっくりした。
10万ドンが500円だから」
「……ああ、そうなの」
 着てみると、サイズもぴったりだったのだが、袖丈がやけに長い。これを折り返して着てもわるくはないが、としばし考えた末に、8cm切ってまつり縫いをした。自分のごつごつした手首をわたしは密かに気に入っていて(からだのなかの気に入りは、そこだけだし)、隠さないでできるだけ出そうと決めている。
 さて本題はブラウスの値段350万ドンについてでも、手首についてでもなく、切ってできた8cmの端切れ2枚である。これを握りしめて、しばし考えたのだ。
 (……これ、どこにしまおう)。
 決めかねたので、密かにくるっと巻いて机のいちばん上のひきだしに入れた。ペン皿とひきだしの本体のあいだにできた隙間に押しこまれた端切れは、わたしと目を合わすたび、不安げに身をくねらせる。
 その様子を見るたびこちらも身をくねらせ、もっとふさわしい場所を探してやれないものか……と考えるのだった。
 そんなことが3日もつづいたろうか。
 紅茶を飲んでいるときに、あ!と叫んでしまった。ひとりだったから誰にも迷惑はかけなかったけれども、手にした紅茶茶碗のなかみを卓の上にこぼしてしまった。それくらい衝撃的な気づきが、突如として降ってきたのである。
 8cmの端切れ2枚は、洋服を買ったときに付いてくる修理用の(?)の布や替えのボタンと同じ部類のものじゃあないの? 夫が買ってきた→ 自分で袖を切って端切れが生じさせた、という道筋がわたしをいっときわからなくさせたのだ。そうだ、あれは修理用の予備の布。
 わたしはふふんと鼻を鳴らして端切れをとり出し、それを仲間たちが待つ「buttonpatch」のひきだしにしまった。

 モノを決めた場所に納める。

 こういうのは〈ぶれない〉よさじゃないだろうか。

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ベトナムに「シルク村」という場所があり、
そこで女性たちが蚕を育て、
絹織物をしているのですって。
そうした絹織物でつくったものをそろえる店で夫は、
これをみつけてくれました。
いまは白いパンツと合わせていますが、
デニムでもいけます。

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2017年9月12日 (火)

ダレカサンとワタシ

「のどぐろの缶詰をお土産に買ったの」
 島根県へ出かけていた長女がやってきて、云う。
「でも、ないの」
 何でも、汽車の網棚に提げ袋をひとつ置いてきてしまったそうだ。それはそれは……。わたしへの土産だけでなく、提げ袋にはきっといろいろのモノが入っていただろうと想像する。のどぐろを食べ損なった無念を胸にしまって、さりげなく声をかけてみる。
「駅に電話してみたら? きっとみつかる」
 出雲駅に電話してみると親身に対応してもらい、3時間後には荷物がみつかったという電話がかかったそうである。そうして送られてきた荷は2日後わたしが受けとった。
 ふたりであけてみると、のどぐろの缶詰のほかにも、出雲大社の縁結びのお守り数体、天狗のお面、菓子の箱なんかがぞろぞろ出てきた。それは、ひとつひとつ新聞紙でていねいに包まれており、段ボール箱のなかからは〈人情〉が立ちのぼるようだ。「◯◯鉄道にのご利用ありがとうございました。大切なお忘れ物をお届けいたします。どうかまた、こちらへお出かけください」と書かれた色紙が添えられている。
「お礼のはがきを出さなけりゃ」
 箱のなかみを確かめながら、長女も〈人情〉に打たれている模様。
 ありがとう、ありがとうございました。

 わたしは最近、ヒトの本性について考えさせられている。

 本性の善し悪しというのがあるとして、それが日日の細部に発動する。で、そのちっちゃな事ごとがあらゆる全体を築きあげてゆく。そんなふうに思えて、自分に向かって「本性を鍛えましょう。鍛えて思いやりのあるヒトになりましょう」と云い聞かせる。まあまあ善い具合、ということもあるが、油断すると悪しき本性がしゅるっと現れ出ることもあるから。

 わたしはどこの誰だかわからないダレカサンを大事にするヒトが好きなんである。

 たとえば、買いものをしたスーパーマーケットのレジ係のダレカサン。
 たとえば、食事をしたりお茶を飲んだお店で仕事をするダレカサン。
 (お店のダレカサンたちみんな)。
 たとえば、同じ電車やバスに乗り合わせたダレカサンたち。
 たとえば、道の上ですれちがったダレカサン。
 たとえば、道を尋ねたり尋ねられたりしたダレカサン。
 たとえば……。

 そんなダレカサンに対してていねいに接するようなヒトが、わたしは好きなんです。そうです、ダレカサンに横柄な態度で接するヒトにはがっかりさせられる。どんなに立派な仕事をするヒトであっても、どんなに頼りがいのあるヒトであっても、どんなに行動力があるヒトであっても、ダレカサンを大事にしようとしないヒトは尊敬しないし、結局親しくならない。

 長女が旅先の電車内の網棚に置き忘れた土産のセットが戻ってきたときも、わたしはヒトの本性を思った。鉄道会社としたら、乗客の忘れ物の問い合わせに応える義務、探す義務、届ける義務があるのかもしれない。たぶん、あるのだろう。そうだとしても、〈人情〉が香り立つような荷造りや、メッセージの同梱は、義務ではなくて、役目を担ったダレカサンの本性の為せる業だ。

 もう一度云わせてもらおう。

 出雲駅の◯◯鉄道のダレカサン、ありがとう、ありがとうございました。

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のどぐろの缶詰でございます。
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いや、缶詰ってことを大事にして、
こんな盛りつけもあり!かもしれませんね。

気に入りのお土産?

缶詰と、ご当地記念切手です。はい。

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2017年9月 5日 (火)

大事のだいじ

 秋が急ぎ足で近づいてきた。
 うろこ雲。涼風。虫の音。カーディガン。新秋刀魚。栗。
 目にも耳にも、嗅覚と味覚にも、いつの間にか秋が坐っていた。

 と、ここまで書いて、あれ? と首をひねる。

 2か月ばかり前にも同じようなことを書いたのを思いだしたのだ。

               *
 いきなりの来訪だった。

 来ることだけはわかっていたが、居間に坐っているのに気がついて、あ、きょうだったのか、と思ってあわてた。
 夏のはなしである。
 ことしの夏の訪れは、わたしにしてみればとつぜんのことで、受け入れの準備も何もあったものではなかった。
       「巨大きゅうりのスープ」/ふみ虫 泣き虫 本の虫 より
               *

 夏の訪れもとつぜんなら、秋もとつぜんだ。不意打ちみたいなのが最近の季節の訪れ方なのか。夏のはじめの長期天気予報で、9月は残暑がきびしくなると聞いていたから、それなりに覚悟していたが、どうなることやら。

 夏を追い立てるようにやってきた秋が、夏に押し返される日もくるのか……。予報があったって、ほんとうには一寸先のことも知らされぬのがヒトの宿命なのだから、これでいい。とつぜん涼しくなったと云ってはあわて、また暑さが戻ったと云ってはあわてる。そんなのがヒトの有り様(よう)。
 驚いたのは、麦茶にも、アイス珈琲、アイスティーにも、手が伸びなくなり、温かいものが飲みたくなる変化だ。わたしに俳句がつくれたなら、このあたりを詠めるのに。

 馬の背を分けるアイスとホットかな


 こりゃだめだな。馬の背を分ける、は、夕立はじめ天気に関してだけ使うことばだろうか。

 それから、アイス(ドリンク)が夏の季語だとして、ホット(ドリンク)は冬だもの。大混乱だ。

 忽然と遠のいてゆきアイスティー


 もうやめます。

 さて、秋が駆け足でやってきて、わたしは落ちつかない気持ちになった。どこかへ行きたい! そんな感じがからだを駆けめぐる。
 しかし、どこかってどこだろう。
 高尾山! 
 あそこなら、夏と秋のうつろいがたしかめられるかもしれない。
 たしかめられなくとも、自分のなかに、区切りはつけられるだろう。そうなのだ。区切りをつけずにはいられない、そんな夏だった。慌ただしく、そんななか大小とり混ぜていくつもの決断を迫られる2か月だった。

 高尾山の頂上にひとり立ち、丹沢の山山に向かって(富士山は見えなかった)、
ヤッホーっと。いや、ヤッホーとやるかわりに、小声でこんなことを小さく叫んでいた。
「フミコー、この夏意味のないことばかりさせられていたように思ってるかもしれないけど、ちがうから。全部大事なことだったのだから。大事のうちのだいじ、おお大事だからー」
 どうしてこんなことを叫んだのか。
 誰かに叫ばされたようでもあるのだけれども、おかげでわたしの気持ちはからっと晴れた。
「そうだよねー」
 と、また叫ぶ。小さく。
 大事のだいじを生き抜いた、そんなふうに思えてきた。

 炭火でじっくり焼き上げ、ごま味噌だれをからめた高尾山名物「三福団子」を頬張りながらしばし目を閉じ、歩いて下山。

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のどぐろの缶詰です。
これも、この夏の思い出のひとつ。
そのはなしは、また、来週。

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2017年8月28日 (月)

踏み無為

 初めてブログを書いたのは2007年のことで、出版社から本にするための原稿をためるため頼みます、と云われたのがはじまりだった。紙でない媒体での連載はしたことがなく、したことがないばかりか想像すらしなかった。
 が、原稿がたまる、というのはよさそうに思えて、ともかく第1回めの原稿を書いて、担当編集者のパソコンに送った。「ブログ」というだけで肩に力が入り、呼吸をしてないようなものができたが、それをそのまま送った。後にも先にもあんなにまずいのを書いたことはない。
 ブログを数年つづけて、それをまとめた本を6冊刊行したのち、出版社から離れて、自分であたらしい(ブログの)広場をつくることにした。好きなことを気ままに書いてゆきたいと考えたからだった。切り替わるときにも休まなかったため、結局ブログは途切れなくつづいたのだ。
 よくつづいた。
 こんなことを書くと辞めるのか? と訊かれそうだが、辞めませんよ。

 ブログをはじめた当初は、「コメント」というのが何だかわからなかった。

 何だ、コメントって? とも思わなかった。そんな欄があることにも気がつかなかったのだ。あるとき、ブログの画面に「コメント」というのをみつけて、そこをポチッとやったら、手紙のようなものが出てきた。
 あのときはおどろいた。
 わたしが書いたブログに、感想のような、関連する報告のような、短い文章が寄せられているのだもの。雑誌や新聞に書いたものに対してお便りをいただくことはあったけれども、こちらが書いたと思ったらたちまち返事のようなものが読者から届くなんて……。想像を絶する事態だった。
 ちょっと怖いな、と思った。
 でも、はじめてしまったのだから仕方がない、しばらくはつづけないと。
 そのうち、思いついた。そうだ、怖い「コメント」が届いたらすぐにブログを休み、それがつづいたらブログを辞めよう!
 そのころにはまだ「コメント」に関しては、それを恐る恐る読むだけで、返信なんか思いもよらなかった。
 お便りをいただいたら返事を書く、という習慣を忘れていたわけではないけれど、ブログの「コメント」がじつはお便りの一種であり、それに返事を書いてもかまわないということに気がついたのは、しばらくのちのことであった。

 ふと返信をしたのだったと思うが、一度書いてからは、それもつづけることとなった。同時に「コメント」ではなく、「おたより」と呼ぶこととした。

「おたより」。
 ごく短い文章であっても、それを書いたひとがどんな感じのひとであるか、思い癖や、頑度(かたくな・ど)、感情の揺れなんかも伝わる。ハンドルネームというので書いてこられるから本名はわからないけれども……伝わるんだなあ、これが。文章のおもしろさだ。

 いまでも決めているのが、怖いおたよりが届いたら、すぐ休むというあれだ。そういうのはそういうのはぜんぜん届かない。これじゃ、休むことも辞めることもできないじゃないか。

 お返事がたまって一所けん命書いているとき、ついあわてて差し出し欄に「ふみ虫」と打つ手がすべることがある。
「踏み無為」
 なんじゃこりゃ。これが画面にあらわれると何だか、自分の成れの果てのように思えてきて、可笑しい。

 さてごく最近のこと。

 ヒトの平均寿命がさらにのびるというはなしを聞いた。それに伴い「100年ライフ」なるステージが示された。このステージで必要になる事柄(目録と云ってもよいかもしれない)がいくつかあって、そのひとつに〈変身〉があった。
 つまり、100年生きるとなると同じ調子でなど生き抜けるはずもなく、ひとには人生のなかで幾度かの〈変身〉を遂げるための決心やら覚悟やら実践が求められるってこと。
 わたしは唸った。これまでもちょこっとずつ〈変身〉してきたような気もするが、そんなちょこっとなんかは超えて変身してゆく気概を持たないと。そう感じて、思わず唸っていたのである。
 たとえば「ふみ虫」という呼び名にもしがみついていないで、突如として「踏み無為」というようなわけのわからない方面に傾いてゆくくらいの決心もしておこうと、思ったのであった。

2017_7
この夏、あろうことか、
ぬか床がいけなくなってしまいました。
ああ、これも〈変身〉のメッセージかしら。
そういう受けとめ方をしようと決めています。
すぐとぬか床を復活させずに、
これから先のぬか床と自分の関係について
考えようと思いました。
写真は、いまのところ、うちのさいごのぬか漬けです。
ピーマン、パプリカを好んで漬けた今夏でした。

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