« 2014年4月 | トップページ | 2014年6月 »

2014年5月の投稿

2014年5月27日 (火)

長丁場

 椅子の上で、あははと笑った。
「あはは……」
 あとがつづかなかった。
 笑ったのはいいが、つぎの瞬間、腰の左側にびびっと痛みが走ったのである。これまで、そのあたりに痛みをおぼえたことはなく、「これはがたがきたかなあ」と思った。
 痛かったけれども、(椅子から)立ち上がる、歩く、ちょっと走る、スキップする。こういうことはできる。ほっとした。様子をうかがいながら動き暮らしていると、靴下を履いたり脱いだりする格好をすると、びびっと痛みが走ることがわかった。
「いたたたたた」
 それからやっぱり、あははが、痛い。
「あはは……いたたたたた」
 朝、布団から起き上がるときも。
「いたたたたた」
 横たわった姿勢に慣れた腰が、起き上がりたくないと悲鳴を上げている。半月あまりもこんなことをつづけた。
 腰の左側に痛みが走る動作をみつけては「いたたたたた」とやり、口癖になった「いたたたたた」とともに日を暮らした。

 とうとう、かかりつけの整体院に駆けこむ。

 昨年後半の書き下ろしの仕事、ことしはじめの長女の独立(引っ越しの準備を手伝った)、3月の父の他界という山を、つぎつぎ登るなか、整体院に無沙汰をつづけていた。
 自分では半年ぶりくらいだと思っていたが、Sせんせいに「11か月ぶり」と云われて驚く。自分の11か月がどんな日日であったか、にわかには思いだせない。ただ、無我夢中で歩いてきたような気がする、早足で。
 一方Sせんせいには、わたしのかたまった身体から、11か月の暮らしぶりがわかるらしかった。どこもかしこも、かたまっていた。かたくなった身体をひきずって歩き、かたくなった頭でものを考えていたということか。
 おそらくは胸のここもかたくなっていたのにちがいない。かたくな、というやつだ。思い返せば「いたたたたた」と云いながら何もしないで半月も過ごしていたのなんかは、かたくなだった証拠ではないのか。
 背中から腰にかけての痛みが左側に偏るのは、右側での動作をかばうことによるものだと知った。右利き左利きにかかわらず、たまった疲労はひとのからだの左側にあらわれやすいのだという。
 整体に通い詰めて心身をほぐし、調整した。
 相変わらず「いたたたたた」とつぶやきつぶやき過ごすも、気力がもどってくるのが感じられた。そうだ、無我夢中で歩いてきた日日、失われていったのが気力だった。薄れゆく気力をかき集めるようにして、振り絞るようにしてやってきたのだったが、そんなのはだめだ。

「気力」は大事だけど……、

「気力」がしぼまぬようにすることは、もっと大事だー!

「いたたたたた」の日日がおしえる。

 人生は長丁場(長時間のかかるひとつの仕事)だと。
 これまでわたしは、たとえば書き下ろしを1本仕上げる、娘の引っ越しを手伝う、父の遺したものを片づける、というようにあらゆることをひとつずつのかたまりとして受けとめてきた。ひとつ片がつくと、「よし、つぎにゆこう」とあたらしいかたまりに向かうという具合に、やってきた。
 しかし、人生とはどうやら、そんなぶつ切りの集まりではないらしかった。
 父の死後生まれて初めてひとり暮らしになった母を見守ること。夫の両親を思うこと。夫と娘たちとのこと。この屋根の下の用事。わたしに任された仕事と暮らし向きの事ごと。
 それらは期限付きのかたまり仕事ではないばかりか、混じり合ってもいる。混じり合って流れてゆく。
 この世の務めが終わるその日までの長丁場を、わたしは生きているのだなあ。


Photo
ブルーポップコーン。
アメリカ先住民ホピ族に伝わる品種。
こういう存在は、ものすごくわたしを勇気づける。
そして、思うんです。
「ようし、キミみたいにー!」

Photo_2
「はじけるぞーっ!」

| | コメント (61)

2014年5月20日 (火)

そのひとの隣に

 谺雄二(こだま・ゆうじ)さん*1 が亡くなった。
 その2日前には神美知宏(こう・みちひろ)さん*2 が亡くなった。
 ハンセン病の元患者*3 の人権回復運動を先導してきたおふたりは、その道を行く人びとを、いや、人権をもとめるあらゆる存在を導く星だった。

 5
11日に谺さんが亡くなったことを知った瞬間、わたしは、それに対してどういう感想を持ったらいいものか、と考えた。考えても考えても、感想など湧かなかった。「お疲れさまでした。どうか安らかに眠ってください」と思いかけたけれど、それは全然ふさわしくない。谺さんがみずから発案したハンセン病市民学会「いのちの証を見極める」*4 ほか、まだまだ見届けたい事ごとを抱えていたからでもある。
 頼りない気持ちをもてあまして、夫に向かって、「谺さんが亡くなった。どうしよう」と小さく叫んだ。「……どうしよう」という思いは、いま考えても、まったく正直なものであった。
 夫は、若い映像製作者が撮った、国立ハンセン病療養所栗生楽泉園の元患者たちを追う映画のはなしをはじめた。
「谺さんが映画のなかで、発病した少年時代の孤独を語る場面が忘れられない。生まれ故郷の東京下町の荒川の土手で、凧揚げに興じる子どもたちを眺めながら、語るんだ。その後、谺さん自身が、凧揚げをする。とうとう凧が空高く揚がるんだ。それがラストシーンだったなあ」
 映画は「熊笹の遺言」*5 。夫がこの映画を観て、憶えていてくれたおかげで、わたしは荒川の河川敷で凧を揚げる谺さんを、眺める位置に佇(たたず)むことができた。そうだ、こうやって、胸に納めかねる悲しみも、ついにはまとまらぬ感想もそのままに、ひとは佇むことはできる。「そのひと」の隣りに居ようとすることはできる。
 夫のはなしを胸のなかで揺するうち、わたし自身もするべきことをみつけた。書架に近づき、『いのちの初夜』*6 をとり出し、開く。机に向かって、それを開き、声に出して読む。ゆっくりと、噛みしめながら。

「あなたと初めてお会いした今日、こんなことを言って大変失礼ですけれど」
と優しみを含めた声で前置きすると、
「尾田さん、僕には、あなたの気持が良く解る気がします。昼間お話しましたが、僕がここへ来たのは五年前です。五年以前のその時の僕の気持を、いや、それ以上の苦悩を、あなたは今味わっていられるのです。ほんとにあなたの気持、良く、解ります。でも、尾田さんきっと生きられますよ。きっと生きる道はありますよ。どこまで行っても人生にはきっと抜け道があると思うのです。もっともっと自己に対して、自らの生命に対して謙虚になりましょう」
 意外なことを言い出したので尾田はびっくりして佐柄木の顔を見上げた。半分潰(つぶ)れかかって、それがまたかたまったような佐柄木の顔は、話に力を入れるとひっつったように痙攣(けいれん)して、仄(ほの)暗い電光を受けていっそう凸凹がひどく見えた。佐柄木はしばらく何ごとか深く考え耽(ふけ)っていたが、
「とにかく、癩病(らいびょう)に成りきることが何より大切だと思います」と言った。不適な面魂(つらだましい)が、その短い言葉に覗かれた。


 みずからも癩者であった作家北条民雄*
7 が描いた短編集『いのちの初夜』の表題作だ。病気の宣告を受けて半年ののち、病院に入ることになった尾田と、同じ病院の先輩佐柄木の出会いが描かれている。尾田の入所最初の一日ということになる。
 わたしにとって、わたしの書架にとって、もっとも大切な本であり、『いのちの初夜』はもしかしたら、これを伝える役割を担う者としてわたしの職業がはじまり、ついに終わるのかもしれないと思うほどの存在である。事実、わたしの職業の第一歩は、出版社に勤めた編集者時代の、『忍びてゆかな』*8 の資料集めだった。若くしてハンセン病を得た歌人津田治子の生涯を描いた長編小説の連載がはじまったのだ。作家大原富枝氏の求めに応じて、国会図書館で歌集を写しとり(手書き)、東京・東村山の多磨全生園(たまぜんしょうえん)の図書室に通い、書籍、資料を探し、借り受けることに20歳のわたしはほとんど没頭した。そのことがどれほどの重さ、気高さ、浄らかさでわたしを支配したか、当時は知り得なかったが、いまはわかるつもりだ。その没頭のなかでめぐり逢ったのが『いのちの初夜』であった。
 そう無沙汰をしたわけではない本のなかに、佐柄木が静かに語る場面が、またしてもわたしを驚ろかす。内臓をぐっと手で握られるような気持ちだ。
 同じ病に冒された男を見て、「もう人間じゃあないんですよ」と、佐柄木は云う。「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです」と、云うのである。

 谺さん、神さん、わたしはこの文学(決して癩文学とは呼びますまい)を伝えつづけますよ。そのことだけは約束します。

(長過ぎる引用も、この際、許していただきたい)。

 1 谺雄二(こだま・ゆうじ)
 ハンセン病原告団会長。
 国のハンセン病隔離政策による人権侵害を問う国家賠償訴訟で、原告団の中心として活動。差別や偏見の解消を訴えつづけた生涯を、2014年5月11日に閉じる。享年82歳。511日は、奇しくも熊本地裁が国によるハンセン病患者の強制隔離政策を違憲とする判決を下した日だった(2001年)。
2 神美知宏(こう・みちひろ)
 全国ハンセン病療養所入所者協議会会長。
  201459日、急逝。享年80歳。
3 ハンセン病の元患者
 ハンセン病の感染力が極めて弱いことが判明し、さらには特効薬によって完治する病気となった。しかし、特効薬の登場が間に合わず、治癒はしても後遺症、合併症に苦しむ元患者は少なくない。隔離政策は1996年(平成8年)までつづいた。
4 ハンセン病市民学会
 谺さんが7歳で入所した多磨全生園から、1951年転園した楽泉園のある群馬県草津町でハンセン病市民学会が、ことし7年ぶりに開催された。
5 「熊笹の遺言」
 監督:今田哲史(当時日本映画学校の学生)
 2002年/日本/60分/カラー
 配給:CINEMA
 製作・著作:日本映画学校
6 『いのちの初夜』
 北条民雄(角川文庫)
7  北条民雄
 1914年(大正3年)生まれ。
 20歳/癩の発病。翌年東京・東村山の多磨全生園に入所。川端康成に原稿閲読を乞い、以来師事す。院内「山桜」出版部で働く。
 22歳/「最初の一夜」を書く。
 23歳/「最初の一夜」を「いのちの初夜」に改題。「文学界」にて発表、「文学界賞」を受ける。
 1937年(昭和12年)125日永眠(24歳)
 1938年(昭和13年)『北条民雄全集』上下2巻刊行(創元社)。
8 『忍びてゆかな ――小説津田治子』
 大原富枝(講談社)
Photo

熊谷(夫の実家)の畑で、さやえんどうがなっています。
たくさんたくさんなっています。
平べったいさやを採ろうとすると、
ははが、「もっと中の豆が太った方がおいしい」と云います。
ははにとってのさやえんどうは「さやぶどう」
(実際、熊谷の家では「さやぶどう」と呼びます)なのです。
わたしも、いまでは豆の太ったのを愛するようになりました。

畑に育ついのちです。

| | コメント (37)

2014年5月13日 (火)

くまいちとカーネーション

「これ、おばあちゃまに」
 と三女がさし出したのは、くまいちだった。
 くまいちは、三女のベッドの住人だったクマのぬいぐるみだ。ときどき枕の役目も引き受けてしまう平べったいからだ、のんびりとしたやさしい表情のクマである。
 そうそう、昨年隣家から預かっていたネコのちょろ太も、くまいちが気に入りで、くまいちのお腹を前脚で交互に押すようにする姿を、日に一度は目撃したのだったなあ。それはネコが、母ネコのおっぱいを飲むときの仕草だ。くまいちは、三女やわたしたちには少年クマであったが、ちょろ(ちょろ太の愛称)にとっては母さんだった。
「これ、おばあちゃまに。おばあちゃま、ひとり暮らしになったからさ、あげるの」
 とさし出されて連れてきてはみているものの、はて、とわたしは考えている。そも、この日は母の日で、カーネーションをもとめたりしながらも、まだくまいちを母に手渡す意味が思い当たっていないのだった。
 思い当たらないと云えば、母の日とはいったい何だろうか。商業主義にのせられているような思いがして、わたしは斜にかまえているのである。それでもこうして乗せられている。赤やピンク色の花には目もくれず、花びらの縁に濃い彩りのあるオレンジ色系統のものを選んだりするのが、せめてもの抵抗だ。
 母にカーネーションの花束を渡すとき、「母の日おめでとう」と云ってしまった。「ありがとう」と云うべきところを。
 母とふたり向かい合って、昼ごはんを食べる。わたしはたちまち食べ終わり、母はゆっくりゆっくり食べている。自分の忙(せわ)しなさが指摘されているようで、歯がゆい。わたしも、だんだんに速度をゆるめはじめよう。そうでないと……。
 そうでないと……、人生にたびたびあらわれる壁やら障害物やらに激突してしまう。
 夕方、帰ろうとすると、来たとき渡したくまいちを、母がソファに坐らせている。
「ベッドに置いてと、栞(三女)は云っていたのよ。さみしくないように一緒に眠ってねって」
 母は、あら、という顔で云った。
「夜は一緒に眠って、昼はここへ連れてくるわ」
「あ、ああ、そう」
 わたしを見送ろうとする母の腕のなかに、くまいちはいて、こちらをじっと見ている。
「くまいち、仲よくしようね」
 と、母が云う。

 帰り道、ぬいぐるみに向かって「仲よくしよう」と話しかけている母を思っている。さみしくないようにわたしのくまいちをあげる、と云った三女のことも思ってみる。どちらの行為も思いがけなくて、わたしは思わず……、

通りすがりの花屋の客になる。
 母に贈ったのと同じ、オレンジ系統のカーネーションとグリーン(ププレリューム)をもとめる。自分に。母の日を何だろうか、と疑う気持ちに変わりはないが、みずからにカーネーションを贈るのはわるくない。こんなに頼りなくもあたたかい心持ちで。

Photo
初詣に行くたび、
だるまが、それも白いだるまがほしかったのです。
けれども白いだるまさんは「合格祈願」担当の

ものが多く、あらゆる「合格」と縁なきわたしは
手が出ません。
ことしのお正月、映画のロケで訪ねた成田山新勝寺で
「これ」をみつけ、夫がもとめてきてくれました。

希いはただひとつ。
みんなが「明るい気持ち」で生きていけますように。

| | コメント (35)

2014年5月 6日 (火)

さすり

 大きなからだが揺れながらくる。
「どうしたの。忘れ物?」
「ま、そう。忘れ物」

 弟のはなしを、わたしはあまり書かずにきた。

 わりとおもしろい人物なのに、なぜか。
 たしかに……、大人になってからあまり顔を合わせなかった時期はある。お互いの人生に忙しかったからだ。弟もわたしも、同じころそれぞれにこんがらかっており、それをほどこうともがいたり、瘤(こぶ)のようになった結び目と格闘していた。ときどき会うことがあっても、「あ、生きてるな」と確認するにとどまっていた。向こうもそうだったのだと思う。
 書かなかったもうひとつの理由は、そうだ、年齢差。弟とわたしは年子(としご)である。年子と云っても、その差11か月と21日。生まれ月が11月だから学年は異なったけれども、これがたとえば3月であったなら同級生になっていたところだ。弟はからだが大きく、わたしのほうが背が高かったのは2歳までだった。それからはずっと弟の身長が高く、そのこともあってまわりから「お兄さまはお元気ですか?」などと云われるのが常であった。
 お兄さまと云われるたび、「あれは弟です」と返した。
 そうくり返すことで、わたしはもしかしたらみずからに向かって、「わたしは姉」と云い聞かせていたような気がする。弟がまさっていたのは身長だけではなかったからだ。
 弟は子どものころから落ちついており、器用で勉強ができた。一方わたしは、落ちつきがなく、不器用で勉強はてんでできなかった。あっさりコンプレックスを抱いてしまってもおかしくないところだが、そこは姉の強みだ。弟を押さえつけて「姉」として君臨(くんりん)した。わずか11か月と21日ではあったけれども、早く生まれてよかった。
 そして、このはなしにはちょっとした落ちがある。弟が大学卒業後、保険会社に就職したときのことだ。
「ふんちゃん(弟はわたしをふんちゃんと呼ぶ。いまも昔も)のおかげだよ」と、云われた。
 入社するなり新人たちは、いきなり、研修生として保険会社のやり手のおばさまたち(セールス・レディー)に鍛えられる。もみくちゃにされる、と云っても過言ではなかったらしい。同じようにもみくちゃにされた同期入社の仲間たちが、おばさまパワーに辟易(へきえき)しているなか、弟は比較的楽に研修期間を通過したそうだ。
「さんざんふんちゃんに押さえつけられ、いぢめられ、鍛えられてきたからさ。ありがとうね、ふんちゃん」
「……」
 ことし3月父が逝ったあと、葬儀のこと墓のこと、ひとがひとりこの世からいなくなったことで必要になる一切の手続きを弟が担当してくれている。わたしは、弟から「ふんちゃんの印鑑証明を3通とっておいて」と云われればそれを用意し、「戸籍謄本もいるんだよ。これも3通頼みます」と依頼されれば「ほいきた」と市役所に走るだけでよかった。いまわたしは、こんなふうに思っている。「姉」は返上してもいいかな、と。しかしいまさら「兄さん」とも呼べないから、考えた末こっそり「リーダー」と呼ぶことにした。

 実家の門前までリーダーとわたしを見送りに出てくれた母は、きょろきょろしている。何となれば、リーダーは西方向の最寄り駅に徒(かち)にて向かい、わたしは東方向に自転車で向かうのだから。そこでわたしは、まずリーダーを母とふたりで見送ることにした。

 リーダーは186センチの長身を揺らしながら、のっしのっしと行く。歩幅も大きいから、その姿はどんどん遠くなって……と思ったら、とつぜんからだの向きを変えてのっしのっしともどってきた。
「どうしたの。忘れ物?」
「ま、そう。忘れ物」
 弟は母の前で少しだけかがむと、「忘れた。さすっていいよ」と云った。
 母は笑って、弟の肩から二の腕(上腕二頭筋)にかかる部分をさすった。
 ———そうそう、これこれ。
 この「さすり」は、母のおまじないだった。「いっていらっしゃい」も「がんばってね」も「どうしたの?」も、そのほかことばにしにくい事ごとも、何でもこめて、さするのだ。
 弟とわたしばかりではない。重い荷物を届けてきた宅配員や、道上で出会った郵便局のお姉さんの上腕二頭筋をさするのを見たこともある。
 子どものころからさすられてきたわたしたち姉弟は、いつしか、自分の癖として「さすり」を身につけてしまった。さすることも、さすってもらうことも大事なのだ。
「わたしもさすって、おかあちゃま」
 さすってもらったあとは、母の細くなった上腕二頭筋を、ふたりでさする。

S
熊谷の夫の実家の畑です。

ちちが80歳になったとき、夫が共同作業の
できる
作物をとブルーベリーを植えました。
ことしまる3年を迎えました(1年苗を植えたので、苗そのものは4年生)

S_2
花をつけています。

6年が過ぎるまでは花がついても摘みとって、
力を苗の育ちに集中させます。

が、ちちが愛おしんで、少しだけ残して見せてくれたのです。

S_3

 

| | コメント (54)