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2014年7月29日 (火)

夏の記憶①(2014年)

7月△日
 村上春樹が20年の構想を経て翻訳した『グレート・ギャッツビー』(スコット・フィッツジェラルド)の読書は、わたしのこころを明るくした。
 ことに作品のなかにたびたび登場するold sportという呼びかけのことばを、村上春樹が20年以上にわたって考えに考え、これはもう「オールド・スポート」と訳す以外に道はないという結論に達したという事実が、わたしのなかにかかった靄(もや)を晴らしたと云える。
 英語と日本人という問題を考えるたび、いつも気が重くなる。コミュニュケーション重視ということで、とにかく話せるように、聞けるように、ということにばかり偏ってゆくのが……そして結果を急ぐ練習法が、気を重くさせるらしかった。
 小学校における英語教育の行方も、ほんとうは心配でたまらない(行き過ぎることを心配しているのである)のだが、「オールド・スポート」は「オールド・スポート」でしかなく、「オールド・スポート」以外のものではあり得ないと、20年かけてやっと決めることができたという村上春樹の向き合い方にこそ、鍵はあると思える。わたしたちと英語との関係性の重点だと思える。
 2000年、「ローラ物語」のシリーズ(岩波少年文庫)の新版が出たとき、ああ、うれしい!と思ったこともひとつの重点だった。「ローラの物語」以前のおはなしを「インガルス一家の物語」のシリーズ(ローラ・インガルス・ワイルダー作 恩地三保子訳/福音館書店)で読んできた。登場するローラの両親の呼び名は「とうさん、かあさん」。それが岩波少年文庫のシリーズになると、とつぜん「父ちゃん、母ちゃん」になる。呼び名が変わること事態にもついてゆきにくかったし、「とうさん、かあさん」がふさわしいのじゃないかしら、と思ったものだった。新訳(谷口由美子)ではそれが「とうさん、かあさん」になっていた! ああ、うれしい! 
 原語はPa,Ma。物語を書いたとき、ローラは編集者に「その呼び方はくだけ過ぎている」と指摘されたそうだが、頑として変えなかったという。なつかしい呼び方を変えたくなかった気持ちは、よくわかる。さて、それをどう訳すか。幾人もの訳者が、いろいろな訳し方をしてきて、とうとう「とうさん、かあさん」におさまったことに、翻訳世界の奥深さを思わずにはいられない。

7月△△日

 昼の12時を過ぎたとき、とつぜん、ぶーんと小さな音をたて首を振っていた扇風機が止まった。
 あら、と思っていると、階上の仕事部屋から夫が下りてきた。
「ブレーカーが落ちたかな」
 分電盤を見ているらしく、
「ブレーカーは落ちてないな。停電か。うちだけか?」
 という声が聞こえる。
 夫はめずらしくちょっとあわてた様子で、庭に出てあたりをうかがっている。あわてて家の外に飛びだすひとなんか、見えない、と云った。
 東京電力に電話をすると、市内のある区域が停電している、というアナウンスが流れていると云う。
 気温はそうとうに上がっていた。36度くらいだろうか。日曜日で、各戸の電力需要が一気に上がったことに原因があるのだろうか。わからない。
 わかるのは、いきなりの停電が久しぶりであったことだ。昔は、こんなことは少なくなかった。あ、また。という感じで、たいしてあわてることもなく、ろうそくをとり出して火を灯したり、闇のなかでじっとしていたりした。
 停電してもたいして困らない生活がなつかしい。
 さて、いまのわたしの生活はというと……。
 エアコンは使わないけれど、夫もわたしもパソコン頼みで仕事をしているから、つねに電力をもとめている。
 もう少し年取ったら、パソコンをよしてしまい昔のように原稿用紙に万年筆で書くようにしようか。「データでないと困ります」という出版社の仕事は「それでは残念ですが」と静かに云ってお断りしようか。
 原稿用紙に万年筆となったら、いまより深みの増したものが書けるようになるかもしれない。

Photo
玄関ホールの隅っこに、
カーテンで仕切ったスペースがあります。

家のなかで、ここがいちばん涼しい場所です。
ときどき、この隙間に入りこんで、
ひと息ついたり、麦茶をごくりとやるんです。


Photo_2
カーテンのなかはこんなふうで、

手前の籠のひきだしは、
ハンカチーフ、タオルハンカチ、
手ぬぐい、ポケットティッシュなどが
入っています。
出がけにとるのに便利です。
奥には、じゃがいも、にんじん、
乾物類のひきだしがあります。
家のなかの、気に入りの場所のひとつです。

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「日記」カテゴリの記事

コメント

ふんちゃん

ローラが住んでいたところは、まあ、今で言えば大田舎ですよね。
それを日本にあてはめると、おしんとか、今NHKでやってる村岡花子さんの故郷のような感じ?と思うと、とうちゃん、かあちゃん、と訳した方のチョイスもむべなるかな。
でも、その頃、都会の人は、なんて呼んでたんでしょうね。くだけたら、Pa,Maだったのかしら。ローラのとうさん、かあさんはどこ育ちでしたっけ。文化がどこから来てるのか、とか、深いですね。

玄関脇のひんやりスペース、ねこちゃん必ずそこに行きそうですね。

投稿: rantana | 2014年7月29日 (火) 11時46分

ふんちゃん。

はなしが本題からそれているかもしれませんし、釈迦に説法かもしれませんが。
母国語ではなすのではなくて、かたことでも、全くはなせなくても、気持ちを伝えよう、気持ちを汲もうというものさえあれば、意思はつうじるのではないかなとおもいます。
おなじ母国語を使う同士でも、どうしても伝わらない相手というものはありますから。
お互いに、何語?と不思議になることがありますよね。

結局、気持ちの姿勢なのかなとおもっています。

投稿: 佐々木広治 | 2014年7月29日 (火) 13時17分

ふみ虫さま

熱中しすぎて
熱中症は大丈夫でしょうか?!

夏休みには 読書 です。
(私には夏休みはありませんが)

私が読んだ本を長男、次男が
読み、その感想を話し、聞くのが
大好きです。
彼らの感覚がわかって
母の楽しみでもあります。

投稿: 寧楽 | 2014年7月29日 (火) 13時24分

ふんちゃんみなさまこんにちは。
なんだか大人の絵のない
夏の絵日記みたいですね。
夏って思い出がより一層濃くなる
季節に感じます。

かくいう私も今の彼と再開し
お付き合いし出した季節だからでしょうか。笑


私もちょこんとしたスペース大好きです
私もそこでくつろいで
また明日の活力をつけます

投稿: たまこ | 2014年7月29日 (火) 19時17分

ふみこ様

小さい時は二人とも「パパ」「ママ」だったのに
小学校へ行くようになってからは
娘は「おとうさん」「おかあさん」。
息子は「おとん」「おかん」でした。
息子の方の呼び方を英訳すると
Pa、Maになるのかなあ、
どうなるんでしょうね。
ローラに「おとん、おかん」は
言うて欲しくない・・・

投稿: ゆるりんりん | 2014年7月29日 (火) 20時14分

ふみ子様 皆様 おはようございます。

英語と日本語… 文法を知るとか単語数を増やすとかそういうことだけでなく、
日本人って、「こんな風に言っていいのかな?」とかストレートに表現することが得意ではない国民性…のようなものが難しくしているかにも、私は思います。
日本人の持つ奥ゆかしさとか、とっても大切だし好きなのですけれど…。

でも、どんな言語も、本気で相手を思いやり、想いを届けようと思ったら
出来るようになるのかな…とも。

私は英語がわかるようになりたいと願いながら、何年も習得出来ないダメな人ですが(^-^;
どんな国の言葉でも、言霊があるのだということ、オールドスポートからも感じました。いつも気づきをありがとうございます。

投稿: ぽんぽん | 2014年7月30日 (水) 08時41分

rantana さん

そうなんだけど……ね、
ローラの家族(開拓農民の一家)は、
独特の文化の香るひとたちでしょう?
ローラの両親は邦訳のなかでは、
「とうさん、かあさん」と
呼ぶのがいいのじゃないか、と思うんです。
少なくとも「とうさん、かあさん」と読んできたものが、
ローラが少女から大人になってゆく時期に
「父ちゃん、母ちゃん」に変わる
(出版社と訳者が変わるにしても)ことに、
ずっと違和感を持っていました。

夫は、
自分の両親を「おとうちゃん、おかあちゃん」と
呼びます。
なんだかいいなあ、と思っています。
ずーっとそう呼んできた、という誇りのような
ものを感じて。

投稿: ふみ虫 | 2014年7月30日 (水) 14時39分

佐々木広治 さん

広治さん、賛成です。

結局向き合うお互いのことなんだと
思います。
(日本のことしか考えない人物が
英語ぺらぺらでも、意味ないと思ったり)。

投稿: ふみ虫 | 2014年7月30日 (水) 14時43分

寧楽 さん

わたしの3人の娘のうち、
下の2人は、まだ、
読書と出合っていないような気がします。
読むには読んでいるけれど、
つきあいが深まる余地あり、と見ています。
わたしはそう思っても云いませんが、
2人とも自覚しているようです。

いつ出合ってもいいと思うので、
たのしみに待っています。

投稿: ふみ虫 | 2014年7月30日 (水) 14時47分

たまこ さん

夏は、大事な季節なのですね。
……思いで深い。

ことしも佳い夏になりますように。

投稿: ふみ虫 | 2014年7月30日 (水) 14時48分

ゆるりんりん さん

ママパパって、
ちょっとあこがれます。

一度も呼んだことがないし、
呼ばれたこともない……。
呼んでとたのんでも、
「キャラがちがう」とか云われそうです。

投稿: ふみ虫 | 2014年7月30日 (水) 14時51分

ぽんぽん さん

英語にそっとあこがれている、
その状態をつづけてゆくというのが、
わたしの目標です。

日本語を大事にして、
その力をつけたいというのと同じくらい
大きな目標。


投稿: ふみ虫 | 2014年7月30日 (水) 14時54分

ふみこさま おはようございます。

朝から蝉がにぎやかです。

英語が苦手で、たまに洋楽のアルバムを聴いていても、訳詞があると助かる!と思ってしまいます。でも、その訳された物も言葉が紡がれた背景が解らないと、言葉だけでは???となってしまって…。
アガサ・クリスティの『青列車の謎』青列車がブルートレインのことだと気づいたのは、あらすじも犯人も忘れてしまった頃でした。読んでいたころ通学に使っていた電車が青色だったのでそういう類かと思っていました。「ブルートレインの謎」としてくれていたら、もっと話も残っていただろうに…。
ビートルズの『ノルウェーの森』、ノルウェー製の木材とか家具のことだと知って、これはタイトルを付けた方、すごい!と思いました。
そうして、時々歌詞とかで、heという言葉が出てきて、彼って誰?と思っていたらキリストのこと(神なのかしら?)だったり、宗教的な意味合いの歌詞だと理解すると、これは私の中にはない心持ちだけれど、とスルッと収まったりして、言葉を訳してくださる方って凄いと思ってしまいます。あとはその訳された物が自分の中でかみ砕けるかなのですが、そこもむつかしいです。
話はそれますが、椎名誠の『岳物語』、 岳くんが両親のことを「おとう」「おかあ」と呼ぶんです。なぜそう呼ぶのかと聞かれたら、おとうもおかあも偉くないから「さん」はつけないという理由で(手元に本が見当たらないのであやふやなところがあります)読んでいてウフフとなりました。私はそれを思い出して、結婚後、親愛を込めて、実家の父母のことは「とうさん」「かあさん」です。

投稿: あすちるべ | 2014年8月 1日 (金) 09時33分

あすちるべ さん

あすちるべさんのおたよりを、
夏の読書(上等の読書)の気分で
読みました。
ありがとうございます。

heのこと、「ノルウェー製の家具」のこと、
興奮しながら読みました。
ただし涼やかな興奮です。
そして。
翻訳の背景を思ってみることが、
わたしたちの世界観をひろげることになるのだと、
あらためて思わされています。

投稿: ふみ虫 | 2014年8月 1日 (金) 11時19分

 原作のイメージを大切にしながら翻訳したり、
声優さんが吹き替えたりするのは、
受ける側の個性もあって、とてもデリケートな作業だなぁと
思います。
「オールド・スポート」でしかありえない・・・
そういう「きっぱり」は、私は大好きです。

 カーテンを見るとめくってみたくなるので、
・・・しかもこんなに居心地の良さそうなスペース。
 「ガリバー旅行記」を持って、三角座りして・・・
そして、きっと、うたた寝してしまいそうなスペースですね。

 友人の子供(ハーフの幼児)は、「とーと」「かーか」と呼びます。
 青い目のチビさんが、たどたどしく呼ぶ「とーと、かーか」が
そのまま変わらなければいいなぁ。

投稿: どりす | 2014年8月 1日 (金) 13時00分

どりす さん

「とーと、かーか」
いいなあいいなあ。

そんな青い目のチビさん方の呼び方で、
ふと思いだしました。
三女が赤ん坊だったころ、
さいしょに口にしたことばは「ギィ」。
なんと、わたしを呼ぶことばでした。
「ギィ」のままでもよかったな、と考えて、
ちょっと笑いました。

投稿: ふみ虫 | 2014年8月 1日 (金) 17時20分

ふみこさん おはようございます

「ローラ物語」。私はNHKの「大草原の小さな家」で初めて
ローラの家族を知ったので どうしても やっぱり
「とうさん」「かあさん」です。
ローラやメアリーが着ていた 服の柄や
ローラの表情もテレビの場面で 思い出します。
本から先に読んでいたら また ずいぶん違った
イメージで 受け止めたのかもしれません。
自分が想像した ローラだったかもしれませんね。
そう思うと 訳と言うのは ずいぶん大きな意味を持つのですね。

ふみこさん 夏バテしていませんか?
北海道の暑さは たぶん(たぶんですが) 昨日がピーク
だったのではないかと思います
これから 少しずつ 少しずつ ゆく夏を惜しむ
北海道です。

投稿: えぞももんが | 2014年8月 3日 (日) 06時00分

ふみこさま。おはようございます。のりです。

台風も過ぎ、そよそよと風が流れて鳥のさえずりも聞こえる朝です。

『父さん 母さん』といつの間にやら呼んでいた私と弟。
『母さん』と呼べる人を亡くして5年。どうしても呼びたくなって
2階の床に寝そべりフェイスタオルを抱えながら呼んでみる。
『母さん、母さん、母さん、、、、』つい泣き出す。
ずっと呼べるものだと思っていた。でも、まさか期限付きだったとは気づかなかった。

子育てで四苦八苦真っ只中の私ですが、これも期限付きなんだろうなぁ~
と思いつつ、できるだけ長く『お母さん』と呼ばれていたいなぁ、呼ばせて
あげたいなぁと思う のり です。

投稿: のり | 2014年8月 3日 (日) 07時58分

のり さん

期限付き。
ほんとうにそうですね。

タオルに顔を埋めて泣くのりさん。
素敵だあ……。

母さんが、そっと頭を撫でています。

投稿: ふみ虫 | 2014年8月 3日 (日) 08時51分

ふんちゃん
同じ作品の違う翻訳を読み比べたり、じぶんならどう訳すかと考えてみたり…
そんな読書へのアプローチのしかたは、これまでしたことがなく
もちろん英語にも、自信など皆無で、密かな憧れを胸中に抱きながらも、遠くから眺めているだけのようなわたしです。

「オールド スポート」や「とうさん かあさん」のお話しを読み、ふんちゃんからそっと宿題を頂いたような気持ちになりました。
視野を広げると、たのしみもひろがるよ、って。
(そうそう、『グレート ギャツビー』図書館には残念ながら無く、いよいよ本屋を覗いてみようと思ってます。)

わたし、まだまだ「読書に出合っていない」なあ、これから、出合えたらいいなあ、と思いました。

今日はわたしの住む市の花火大会の日。が、昨夜から雨が降りだして、開催はあやしい…。スイカやとうもろこしを持参して、実家の屋根に上ってみんなで楽しむ計画も延期かな。
こどもたちはがっかりしそうですが、しとしと雨のおかげでこのところの酷暑が和らぎ、ほーっと息を吹き返しているような畑を眺めて、わたしもなんだか細胞が元気になってくるように感じています。

エアコンは使わない、というふんちゃん、お気に入りのスペースでの麦茶ごくり、身体に沁みそうですね。
猛暑の折、どうか、ご無理はなさいませんように、お身体に気を付けてお過ごし下さいね。
うちの冷蔵庫にも、麦茶と烏龍茶とレモン水がずらっと待機しています(*^^*)。

投稿: なこ | 2014年8月 3日 (日) 10時09分

えぞももんが さん

こんにちは。
お返事があとさきになって、ごめんなさい。

NHKの「大草原の小さな家」、大好きでした。
(いまも、放映すればいいのに。ね)
「とうさん、かあさん」のたくましさ、やさしさ、
知恵、暮らしのなかの文化的な香り……。
それがイメージ通り描かれていて、
子どもごころにうれしかった。
うれしいというか、安心していました。

わたしが「父ちゃん、母ちゃん」に抵抗感を持ったのは、
ドラマによって定着していた呼び方が変わったことに
対するものでもあったと思います。

こちら、
夏バテ「二歩」手前くらいの状態で生きています。
札幌は、もう、夏を……惜しむ季節に……ね。
こちらはまだまだ、「これから!」という感じで、
ときどき行き暮れた気持ちになります。


投稿: ふみ虫 | 2014年8月 3日 (日) 10時29分

なこ さん

翻訳の世界の広がりのおかげで、
英語のできないわたしにも、
世界のあちらこちらに旅ができます。

本がこの世にあって、よかった。
その点だけは、蓑虫(みのむし/かつて
蓑虫として生きていた生があるという仮説の上に)時代より
しあわせです。

投稿: ふみ虫 | 2014年8月 3日 (日) 10時38分

気が付けばもう8月、月日が過ぎていく速さにおののいている今日この頃です。夏バテ「二歩」手前と書かれておられましたが、ふみこさま、何卒ご自愛ください。
さて、停電に合われたとのこと、不謹慎なのですが「なつかしい……」と思わず思ってしまいました。
子供のころ、雷がなった はい電燈消えます。なんとなく大人たちがあたふたし、ローソクつきます。普段とは違う空間の中、「真っ暗やなあ。何にも見えんなあ。」などと言い合いながら、子供心に楽しんでさえいた。そして、そんな時特に、家族の連帯感が増すような気がして、電燈がついた途端、「済んだ……」と少々がっかりしたものです。大人たちも、いつものことができにくいという不自由感はあったものの、停電するという状態を当たり前の部分として受け止めていたような気がします。
今や電気がなくてはどうにもならいことが多すぎて……停電になったらオール電化の我が家はお茶さえも沸かせないのです。もちろんお風呂も。原子力発電所の再稼働に揺れるなか、機能的に便利になった生活を「みんなあのころに戻すよ‼」では、解決にならないかもしれません。でも、誰かの命の上に便利さがあるとしたら……やっぱり真剣に行く末を考える必要があるのだと思います。
あっそうです、私は夫のことを「とうさん」と呼んだり「父ちゃん」と呼んだり「○○さん」と呼んだり時に「おっちゃん」と呼んだり、気分しだい、好き勝手に呼んでおります。意図的に変えているのではなく、あくまでも気分次第なのです。なぜか、夫も不思議に思うことはないらしく、どんな呼びかけにも応じるので(ある意味、呼ばれたことに対する条件反射?)あまり呼び方そのものを意識していないのだろうと思うのですが……呼びかけの言葉には思いがつまっていますね。そう感じます。つたない例で、申し訳ありません。
 

投稿: みーこ | 2014年8月 4日 (月) 15時16分

みーこ さん

わたしたちが「便利」に生きてるだけじゃ、
わたしたちが「快適」に暮らしているだけじゃ、
だめなんだと思うんです。
「便利」と「快適」が過ぎれば、
未来の分の大事なものが、どんどん
目減りしますからね。

だから、いまの「便利」と「快適」を
少しずつ少しずつ考え直さないと、と。
ここまで考えては……。

呼び名のはなし。
どう呼ばれようと、
呼んでいるのが愛しい「あなた」だから。


投稿: ふみ虫 | 2014年8月 4日 (月) 15時40分

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