夏の記憶①(2014年)
7月△日
村上春樹が20年の構想を経て翻訳した『グレート・ギャッツビー』(スコット・フィッツジェラルド)の読書は、わたしのこころを明るくした。
ことに作品のなかにたびたび登場するold
sportという呼びかけのことばを、村上春樹が20年以上にわたって考えに考え、これはもう「オールド・スポート」と訳す以外に道はないという結論に達したという事実が、わたしのなかにかかった靄(もや)を晴らしたと云える。
英語と日本人という問題を考えるたび、いつも気が重くなる。コミュニュケーション重視ということで、とにかく話せるように、聞けるように、ということにばかり偏ってゆくのが……そして結果を急ぐ練習法が、気を重くさせるらしかった。
小学校における英語教育の行方も、ほんとうは心配でたまらない(行き過ぎることを心配しているのである)のだが、「オールド・スポート」は「オールド・スポート」でしかなく、「オールド・スポート」以外のものではあり得ないと、20年かけてやっと決めることができたという村上春樹の向き合い方にこそ、鍵はあると思える。わたしたちと英語との関係性の重点だと思える。
2000年、「ローラ物語」のシリーズ(岩波少年文庫)の新版が出たとき、ああ、うれしい!と思ったこともひとつの重点だった。「ローラの物語」以前のおはなしを「インガルス一家の物語」のシリーズ(ローラ・インガルス・ワイルダー作 恩地三保子訳/福音館書店)で読んできた。登場するローラの両親の呼び名は「とうさん、かあさん」。それが岩波少年文庫のシリーズになると、とつぜん「父ちゃん、母ちゃん」になる。呼び名が変わること事態にもついてゆきにくかったし、「とうさん、かあさん」がふさわしいのじゃないかしら、と思ったものだった。新訳(谷口由美子)ではそれが「とうさん、かあさん」になっていた! ああ、うれしい!
原語はPa,Ma。物語を書いたとき、ローラは編集者に「その呼び方はくだけ過ぎている」と指摘されたそうだが、頑として変えなかったという。なつかしい呼び方を変えたくなかった気持ちは、よくわかる。さて、それをどう訳すか。幾人もの訳者が、いろいろな訳し方をしてきて、とうとう「とうさん、かあさん」におさまったことに、翻訳世界の奥深さを思わずにはいられない。
7月△△日
昼の12時を過ぎたとき、とつぜん、ぶーんと小さな音をたて首を振っていた扇風機が止まった。
あら、と思っていると、階上の仕事部屋から夫が下りてきた。
「ブレーカーが落ちたかな」
分電盤を見ているらしく、
「ブレーカーは落ちてないな。停電か。うちだけか?」
という声が聞こえる。
夫はめずらしくちょっとあわてた様子で、庭に出てあたりをうかがっている。あわてて家の外に飛びだすひとなんか、見えない、と云った。
東京電力に電話をすると、市内のある区域が停電している、というアナウンスが流れていると云う。
気温はそうとうに上がっていた。36度くらいだろうか。日曜日で、各戸の電力需要が一気に上がったことに原因があるのだろうか。わからない。
わかるのは、いきなりの停電が久しぶりであったことだ。昔は、こんなことは少なくなかった。あ、また。という感じで、たいしてあわてることもなく、ろうそくをとり出して火を灯したり、闇のなかでじっとしていたりした。
停電してもたいして困らない生活がなつかしい。
さて、いまのわたしの生活はというと……。
エアコンは使わないけれど、夫もわたしもパソコン頼みで仕事をしているから、つねに電力をもとめている。
もう少し年取ったら、パソコンをよしてしまい昔のように原稿用紙に万年筆で書くようにしようか。「データでないと困ります」という出版社の仕事は「それでは残念ですが」と静かに云ってお断りしようか。
原稿用紙に万年筆となったら、いまより深みの増したものが書けるようになるかもしれない。
玄関ホールの隅っこに、
カーテンで仕切ったスペースがあります。
家のなかで、ここがいちばん涼しい場所です。
ときどき、この隙間に入りこんで、
ひと息ついたり、麦茶をごくりとやるんです。
カーテンのなかはこんなふうで、
手前の籠のひきだしは、
ハンカチーフ、タオルハンカチ、
手ぬぐい、ポケットティッシュなどが
入っています。
出がけにとるのに便利です。
奥には、じゃがいも、にんじん、
乾物類のひきだしがあります。
家のなかの、気に入りの場所のひとつです。
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