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2014年9月16日 (火)

わたしはタフではありません

 長年連れ添った夫(わたしの父)を見送った母の、生涯初めてのひとり暮らしも、半年を過ぎた。

 母は、父がいたときとほとんど同じように暮らしている。夫の死後、まわりが呆気にとられる勢いで、夫の持ち物を整理、処分した妻の例も聞き知っていたから、さて母はどうするだろうと思ったが、何も変えない暮らし方を選択したのだった。いや、選択というより、自然とそのままにしているという、なりゆきだった。
 父はよく気のつくひとで、気がつくと黙ってはいられず、まわりの者たちに小言を云った。
「誰だ、これを置き放しにしたのは」
「作業場をつくってから(整頓の意味)、作業しなさい」
「開けたら閉める!」
「徳利を覗いてはいけないよ」
   という具合で、いい加減なわたしなど、子ども時代からどのくらい小言を云われたか知れない。父に会えないのはさびしいが、もう小言を云われずに済むのだという安堵の気持ちが、わずかにだが、ある。
   そんな父と一緒にいる時間の長かった母の生活にも、気楽さが生まれているのではあるまいか。「さびしいけれど、ちょっと気楽」と思ってくれているのだとしたら、救われるのだが。と、考えたが、母のなかでは父の小言の有り様(よう)も変化していないようだ。動作をしながら、「こんなやり方をしたら、おとうちゃまに叱られるわね」とか「ほら、これは片づけて。『いつまでここに置いておくつもりじゃー』と、おとうちゃまが……」とか云う。まるで、父の小言が母の口を借りて告げられるようで、あずましくない。

 ところでわたしは週に一度、母を訪ねることにしている。
 夏は、二度、泊ることもできた。
   ところが、9月に入ってめっきり涼しくなったころ、何となく母の家に足が向かなくなっている自分に気がついた。予定は詰まっていたが、母を訪ねる時間がつくれないほどではなく、疲れていたわけでもなかった。その週は結局、(弟のお嫁の)しげちゃんに1回多く訪ねてもらって、わたしは行かなかったばかりか電話もファクスもしなかった。

「何だかなあ、わたしはタフじゃないなあ」
   と思わずつぶやいたら、それを聞いていた二女が云った。
「そうよ、お母さんはタフじゃない」
「え!」
  自分で宣言しておきながら、こんなふうに「タフじゃない」と決めつけられると、こたえる。それが伝わったのだろうか、二女は大急ぎで「四六時中タフなひとなんかいない。タフに見せかけているひとはいるけども」とつづける。
「じゃ、タフでなくてもかまわない……?」
「自分をタフだなんて、思わないほうがいいんじゃないかな」
   このことばがどう作用したものか、わたしの上にでんと乗っかって、動こうとしなかったぬるりとしたものが、どいた。アメフラシ(海にいる軟体動物)だったような気がする。
 ———そうだよ、アナタも海に帰ったほうがいい。
 好んでアメフラシの下敷きになっていたつもりはないのだけれど、どかそうとしたり、「海へお帰り」と説得したりしなかったところを見ると、無意識にその状態を受け入れていたのだ。牛のように大きなアメフラシだったから、もう2日も乗っかられていたら、危なかった。大アメフラシも、二女が発した「自分をタフだなんて、思わないほうがいいんじゃないかな」という台詞を自分の耳に聞いて(アメフラシに耳のようなものがあるとして)、わたしと同じようにはっとして、こんなおばさんの上に乗っかっている場合じゃない、と思ったのかもしれない。
 身軽になったわたしは、その週のおわり、母に電話して、「なかなか行けなくて、ごめんなさい。きょう昼ごろ行くね。昼ごはんを一緒に食べましょう」と云う。
「忙しいのに、いいの? うれしい。待ってまーす」

 10日ぶりの母は、薄化粧をしてわたしを待っていた。
 ゆっくりごはんを食べ、昔語りをし、手をつないで散歩する。母のピュアな魂に包まれるような気がしてくる。

 ———ああ、最近のわたしはこのピュアな魂に触れる自信を失っていたのだわ。それで、アメフラシの下にみずからもぐりこんで、隠れた。

Image
マクワウリを母と食べました。
昔のメロンという風情で、
とてもなつかしく、
母もわたしもこれが好きです。

Image_2
控えめな甘さ、素朴な佇まい。
古い友だちみたい。

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「日記」カテゴリの記事

コメント

ふみこさん みなさん

こんにちは。
今日は、さわやかな秋風が気持ち良いです。

さてと。
わたしは自分の両親と暮らすようになって、
そろそろ10年になります。
10年近く一緒に暮らしてみて感じることは、
親子の距離の取り方をいつも頭に置きながら、
お互いがお互いの負担にならないように、気持ちよく暮らせるように、
常に努力をする必要があるのだわ・・・ということです。

確かに親子ではあるのだけれど、一軒の所帯を張った者どうし、
気を遣うべきところは気を遣い、甘えられるところは甘え、
感謝の気持ちをしっかりと伝えることが大切なのよねぇと思います。

そしてそんな私と両親との関係を、息子達は何気に見ている。
私が両親と良い関係でいることができれば、
将来的に一緒に暮らしても、離れて暮らしたとしても、
彼らと良い関係でいることができるような気がしています。

この先、両親がもっと年老いていくにつれ、いろいろな状況になってゆくでしょう。
その日を迎えるための心の栄養を、私は今、両親との日々のなかで、
一生懸命に蓄えているのだと思っています。

私は一人っ子だから、自分だけで何とかしようと思いがちだけれど、
そんなことは絶対に無理なこと。
やっぱり少しずつ、連れ合いとの関係も良くしておく方が良いのだなぁ。
まだまだ時間は掛かりそうだけれど、そのあたりも少しずつ・・・。

ふみこさんとお母さまの様子を拝見し、自分と両親との関係を
あらためて考える事ができました。ついでに連れ合いとの関係も。

サンキューです!

投稿: みぃ。 | 2014年9月16日 (火) 12時03分

ふみこ様

わたしもタフではありません。
でも、タフでなくて良かったです。
ささえてくださる方との出会いが増えました。
それでも
「アメフラシよ、海に帰っておくれ」
と言いたくなるのはわかります。


投稿: ゆるりんりん | 2014年9月16日 (火) 17時01分

ふんちゃん、みなさま。

もうすっかり秋ですね。
米の刈り入れもはじまっています。


今回のものを読んでいて、自分のなかではしっくりこなくて考えていました。
あくまでも自分のなかのはなしです。

ふんちゃんがタフではないことは、わかります。岡目八目なんですよね。
またそれは、ふんちゃんが自身をタフだとおもっていた、おもいたい気持ちがあった(まだある)ということなのでしょうし、多分。
しっくりこないなぁとおもっていたのは、タフということばでした。
なんとなくです。
考えるともなしに考えていて、アマゾネスだとおもいました。

わたしはアマゾネスではありません。
これだ、とおもいました。
あくまでも自分のなかでの、感想です。

自分のみている自分と、他からみられている自分のちがい、うれしいことよりうれしくないほうが多いような気もしますが、おもしろいですね。

投稿: 佐々木広治 | 2014年9月16日 (火) 17時45分

ふみこ先生

「がんばれる自分」だと暗示をかけて、バリバリっと動いたり
小さなことにも気付けたりするときがあるのに、
何かの拍子で、そういった自分から遠ざかりたい、
と思ってしまうときがあります。

何というか、それまでピンと張っていた
アンテナをすべてしまいこんで
柔らかい膜に覆われてとじこもってしまう感じ、とでも言いますか。

でも、その状況に満足して、
「がんばれない自分、バンザイ」と納得ができたら、
その膜から抜け出して、また、アンテナを徐々に伸ばしてみたり。

ふみこ先生にとっては、そのきっかけが、
お嬢さまの"思いのある"言葉だったんですね。

長女だから、ということでは決してないと思うけれど、
無意識のうちに、がんばることに少々とらわれている私は、
そういったことの繰り返しです。

ふみこ先生のアメフラシのような重みや
私の柔らかい膜(イメージとしては求肥(ぎゅうひ)のような感じ)の妨げは、
たぶん、ときどき必要なもの、なんだと思います。

その下に隠れたり、とじこもったりすることで、
ひと息、呼吸を整えられるように思うのです。

呼吸を整えたふみこ先生は、きっと、
秋のたくさんの楽しみを、お母さまと満喫できますね。

P. S.
マクワウリの素朴な甘さと歯ごたえが大好きです。
お返事し損ねましたが、路線バスも大大大好きです(笑)

投稿: KZのツマ | 2014年9月16日 (火) 18時32分

みぃ。さん

親子という宿命的な関係は、
人生の大きな宿題なんだなと思います。
変化し、その変化を受けとめることひとつだって、
そう易しくはない。

でも、肩の力を抜いて、
母とも、ちちははともつきあってゆこうと、
いま、思っています。
高齢者ということばで括らず、
どこまでも「個」としての母、ちち、ははと
向き合ってゆきたいのです。
そう考えると、
わたしたちにはわたしたちの道があると
思えます。


投稿: ふみ虫 | 2014年9月16日 (火) 18時36分


ふんちゃん皆様こんにちは。

ああ、私はタフじゃない
なんて救われる言葉でしょう。


私はタフでもなければ器用でもないのです。
こんなこと言うと誰でもそんなに
器用じゃないって感じですが笑

だから誰かに何かをしてあげる時
とても自信がないのです。
私がしてごめんね、もっといいひとが
してほしかったよね、というふうに。

母の手伝いを最近遠ざかってしまう私は
そんな負い目を少しあるのです。


ふんちゃんのお母さんみたいに
わー嬉しい、と喜んでくれていたら
いいなとおもって
遠ざかっていたことに少しずつ
近づきたいな

投稿: たまこ | 2014年9月16日 (火) 19時25分

ゆるりんりん さん

ほんとうにそうですね。

タフでなくて、よかった……。
ひとに支えられ、励まされ、
応援され、そして許されて。
わたしは、ここにいるんだわ。

投稿: ふみ虫 | 2014年9月16日 (火) 21時37分

佐々木広治 さん

自分が見ている「自分」と、
ひとの見ている「自分」の
隔たり、これはじつにおもしろいです。
そのあいだが開くこともあれば、
縮まることもあるけれど、
どちらの見方にもとらわれ過ぎず、
淡淡と「自分」を生きればいいのだと
感じています。

たとえばわたしにも、ささやかに、
自分の書いたものを読んでいただく機会があり、
はなしを聞いていただく機会があり、
そのなかで、さまざまなイメージができてゆく。
それも「自分」の一部分だと思うんです。

きょうは、とても涼しい。
秋が深まってゆきます。

投稿: ふみ虫 | 2014年9月17日 (水) 09時36分

KZのツマ さん

わたしも、
がんばることにこだわりを(無意識に)持っている
ひとりです。

がんばるな、と云われても困る。
どういうことが「がんばらない」に
つながるのかが、いまひとつわからないのです。
力の抜き方も、体得していないような。

でもね、わたしは「忘れる」こと、
「考え過ぎない」ことができるので、
それに助けられつつ、つんのめらずに
暮らせています。

それから、がんばり過ぎたときは、
いきなり「寝ます」。


投稿: ふみ虫 | 2014年9月17日 (水) 09時46分

たまこ さん

タフであることや、
器用であることより、
もうひとつ「いいもん」があるというわけですね。

それが何で有るか、いま、はっきりとは
書けませんが、ね。


投稿: ふみ虫 | 2014年9月17日 (水) 09時49分

こんにちは

なつめ、いちじく、まくわうり・・・素朴で控えめな甘さや香りは、昔々の家族の顔や声が思い出されます
私のアメフラシ、少し耳が遠いのかな 「もう海に戻ってくれてもいいよ~」が聞こえない? それとも海が無いから迷ってる?

投稿: 野生寄り | 2014年9月17日 (水) 10時45分

野生寄り さん

もう少し、アメフラシの下敷きになって、
そのまま、そのまま……。

わたしも「たちまち」張り切らず、
ゆるゆるやっています。

いちじくも大好き。
なつめとも、仲よしになりたい、です。

投稿: ふみ虫 | 2014年9月17日 (水) 11時27分

ふみこさま、みなさまこんにちは

しばらくお便りが出せずにいました。
それというのも、公私にわたって
目まぐるしい環境の変化を迎えることとなり、
それに向かって考えたり動いたりで(なんせ一つのことにとらわれ易いたちで……)落ち着いて感じたり表現したりすることができませんでした。
でも、こんな生活になるとてきめん心が安定せず、ギスギスじてしまう自分を再発見です。
そんな時、この広場でふみこさまやみなさまのお便りを読みました。

夫は、すこぶるタフな体と考え方の持ち主です。
私は……すぐにどんよりしてしまい、ねむれなくなったり、肩が凝ったり
でも、元来楽天的にできているせいか
究極になると、いいのか悪いのか「まっいいか‼」で
おさめてしまいます。

昔から、頑張ることは美徳とされており
歯を食いしばり、立ち向かう姿が美しいとされてきた。
もちろん、何かを克服するとき成し遂げるときチャレンジするとき
頑張りは必要です。
でも、頑張り方ってあると思う
夫を見ていて思うのです。
力を抜くところ、入れるところ、くよくよせずに割り切るところ、ここまで!とおさめるところ。
本当によくわかってるなあーです。
だからタフなんです。きっと
だから体も元気がたもてるのです。

私の心に正直に生きることは、私にも周りの人たちにとっても
良い関係が築けるのではないでしょうか。
アメフラシの下敷きになって、ふんわりしたら
次のしたいことすべきことが見えてくるんじゃないかしら

夫も素敵なアメフラシを持っていることでしょう……

投稿: みーこ | 2014年9月17日 (水) 13時06分

みーこ さん

ほお、
タフなだんなさま。
夫人に太鼓判を押されるところが、
すごい!と思います。

力を抜く感じを学びたいです、わたしは。
つい、力が入ります。

投稿: ふみ虫 | 2014年9月17日 (水) 21時45分

なんだか天から水をそそいで頂いた思いです。
アメフラシ、ピンチ脱出。
私は、声と態度が大きいので、たいして頑強じゃない体のことを
周囲も自身もついつい忘れがちで、
気付いたらド~ンとひっくり返っています。
この度も、「まだまだ頑張れる」とアクセル踏みっぱなしでした。
タフじゃないことを認めるのが悔しかったのかもしれません。
でも、昨日ふみこさまの「元気がでるふだんのごはん」を持ち込み
点滴を打ち(脱水症状でした^^;)、今日、こちらに訪れ、
復活しつつあります。
自分を認める、誰かに任せる・・・のも、大切ですね。
それにしても、お母様の愛らしい方ですね。
私も明日は母と美味しい旬のものを食べよう~

投稿: どりす | 2014年9月18日 (木) 16時09分

ふんちゃん、みなさま、こんにちは。

ピュアな魂か。
ピュアな魂ね。
言葉通りピュアで素敵、なのか、それとも、ピュアで迷惑、なのか。
なあんてね。
わたしがわたしの母のところに行く時間も、毎日だんだん遅くなってるなあ、と思っていたところだったので、どきり。
わたしは、母のピュアじゃないところに反応してたのかと思ってたけど。
でもそれも、言ってみればピュアなればこそか、などと。
いやあ、もちろんわたしはタフじゃない。
タフじゃないから、ときどきお休み、ありなんですね。
ふんちゃんのご両親との関係を見ると、こどものころ、おじいさまとおばあさまとの価値観の方が近かったという、ご両親へのわずかな違和感と、今のむつまじさにちょっと戸惑うのですが、
ひとの気持ちなんてそう一筋縄じゃいかないからこそ、味わい深いのかも、とも。
控えめな甘さ、素朴な佇まい。古い友だちって、家族みたいかも。

投稿: rantana | 2014年9月18日 (木) 18時09分

どりす さん

わかりますー。

アクセル踏んだら、踏みこんだ足を
そのままにしがちです。
足、離していいんですけど……。
止まってもいいんですけど……。
いや、ときどき一時停止も必要なんですけど……。

どうかお大事にね。
ほんとうに、この夏、お疲れさまでございました。


投稿: ふみ虫 | 2014年9月18日 (木) 18時17分

rantana さん

「ピュアで素敵」と
「ピュアで恐ろしい」の
組み合わせだと思えます。
rantanaさん、するどい!

両親との「あいだ」のむずかしさを
抱えてきて……、いま、ぼんやりと穏やかな存在と
なった母と、あたらしい局面を迎えています。
その不思議さにとまどいつつも、
ありがたく思うきょうこのごろ。

そういう局面を与えられたことは、
人生の奥深さをわたしにおしえています。
こんな時期がめぐってくるなんて、
思いもよらないことでした。

投稿: ふみ虫 | 2014年9月18日 (木) 18時23分

ふみ虫さま

私もタフではありません。

油断して、熱がでてしまいました。
ひたすら眠り、治しました!

お母さまのところへ行く
ことがするべきことに
なりすぎてたんじゃないかなと

少し、緩めてまた
はじめてくださいね。

そのときはもっときっと
優しくなれると思います。

投稿: 寧楽 | 2014年9月18日 (木) 18時38分

寧楽 さん

まあ、大変!
「熱」(発熱)というのは、
やはり意味浅からぬ信号です。ね。
ひたすら眠り……と云っても、
寧楽さんの「ひたすら」がどれほどのものであったか
ちょっと心配ですが、お大切に。

「するべきこと」と、
いつの間にかきつく自分を縛るようになってゆくのも、
わたしの「うっかり」。
気をつけたいところです。
「するべきこと」は、自分(のこころ)を
自由でなくします。

ほんとうに、お大切にお願いしますね。

投稿: ふみ虫 | 2014年9月18日 (木) 23時53分

ふんちゃん

アメフラシ、という表現。しっくりきました、わかります…。
わたしもそういう状態、思い当たります。

わたし、タフじゃないし、ペース配分もヘタです。
だからふんちゃんのお話がね、とても響いて、ひととの関わりについて考えさせられています。
父母、兄夫婦との関わり。夫の両親、姉妹とのこと。
職場での人間関係。

最近、ことに色々あって、自分が「ひと」のまなびの、真っ只中にいる気がしています。
なにが大切なことか見失わないようにしたいと願いつつ、ときに「まあいいか。」って妥協?もしてみる、その加減が難しくて。
一番に置くことって、そのときどきで変化する気がしますし…。宿題がいっぱいだなぁ。

さて、めっきり秋の気配が強まり、朝晩は寒いくらいのこの頃。体調を崩された方々のお便りに、皆様どうかお身体に気を付けて、健やかでいらしてくださいますように、と祈っております。
ふんちゃんも、どうぞご自愛くださいね。
お母様との、優しいひととき(手をつないで散歩されたお話、なんだかじーんとしています。)、よい時間を過ごされたんですね。

投稿: なこ | 2014年9月19日 (金) 21時50分

なこ さん

おはようございます。

「ひと」のまなびの、真っ只中。
そう意識していることが、
まなびを支えるんだなと、感心しました。

ほい、
「『ひと』のまなびの、真っ只中」
わたしも、胸に置き直しました。
学友よ、ともに勇敢に、おだやかに
学んでゆきましょう!

投稿: ふみ虫 | 2014年9月20日 (土) 07時31分

ふみこさん おはようございます

私は とっても ほっとしました。
仕事の前に、父のホームへ行って
その足で (ふみこさんのお母様と同じように
人生初めてひとり暮らしをしている)母のところへ
様子を見に行く・・。
それを続けていたら ぽっかり空いた時間を
自分のために使うことに ほんの少し 罪悪感を
もつようになってしまいました。
だから いつも 駆け足(笑)

わたしも タフではない。
その言葉に ほっとして、今度 ぽっかり時間が空いたら
「行かなければ」と思わない。そうすることにします。

ふみこさん 今日は札幌で 宝塚の宙組の公演があります。
母と2人で観る 「ベルサイユのばら」
庄野潤三さん 宝塚 お好きでしたね。

投稿: えぞももんが | 2014年9月21日 (日) 06時30分

えぞももんが さん

ぽっかり空いた時間を
自分のために……。
その罪悪感、とてもよくわかります。
なぜ罪悪感を持つかは……、
つい持つのだし、
もっと云えば持ちたいのだし。
(「持て」などとは母はもちろん、
ほかの誰からも頼まれてもいないのです)。

宝塚、いってらっしゃい。
宙組のみんなが、おふたりを、
励ましてくれますよー。

わたしも宝塚を観よう。
庄野潤三の真似をして、
幕間に売店のサンドウィッチと珈琲を飲もう。


投稿: ふみ虫 | 2014年9月21日 (日) 08時17分

ふみこさま

親や子どもとの距離の取り方や、自分の気持との折り合いの
つけ方ってなかなか難しいですね。

私もこの頃は、自分自身が長持ちして動けるようにというのを
優先するようになりました。
ちょっと休んだり、自分のために時間を使うのも、きっと
長持ちする秘訣なんでしょうね。

今日は吉祥寺のまめ蔵カレーを食べて、元気になって帰ってきました。

投稿: 焼き海苔の の | 2014年9月21日 (日) 21時00分

焼き海苔の の さん

こんにちは。

タフじゃないけど、
わたしは「のんき」で「いい加減」。
そのことに、そうとう救われているんだと
思わされています。

自分にも、ひとにも甘いかもしれません。
それは仕方ないとして、
大真面目に「甘ちゃん」になろう!と
最近考えています。

「まめ蔵」のスタッフに、
おことば伝えます。
励みになることでしょう。

投稿: ふみ虫 | 2014年9月22日 (月) 09時41分

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