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2014年10月の投稿

2014年10月28日 (火)

両面

「サヨナラ」と云ったあとクニチャンが、
「お母さんには、わたしの気持ちがわからないの。ダンスを習いたいと思ってる気持ちをぜんぜんわかろうとしないんです」
 と云った。
「え、」
「あ、別にいいんです。サヨナラ。チョコレートありがとうございましたぁぁ」
 そう云うと、クニチャンは走って、改札口を通り抜けてしまった。
(……え、クニチャン?)
 クニチャン中学2年生。脚がすらりと長い、可愛らしい顔をした女の子。自分のことばを獲得しつつあるひと。さる会合でその日初めて会い、夕方、駅までならんで歩いてきた。クニチャンは駅からひとつ下り電車に乗り、わたしは駅を通過し北に向かって歩いて帰る。
 ホームで電車を待つクニチャンは、何を考えているだろう。と、駅の長い階段を降りながら、わたしは考える。
 駅までの途中、商店街のお菓子屋で板チョコを2枚買い、1枚をクニチャンに渡した。お近づきのしるしに。もしかしたらクニチャンは、板チョコのお返しに、自分の胸にしまったもののうちのひとつを見せてくれたのかもしれない。そして、そんなことしなければよかった、初めて会ったおばちゃんに余計なことを話してしまったと後悔しているだろうか。
 クニチャン、そうだとしたら、それはちがうよ。わたしは、ずいぶんうれしかった。その日受けとった運命的なことばに、いろんなことをおしえられて。

 クニチャンのお母さんには、ダンスを好きで、ダンスを習いたいクニチャンの気持ちがわからない。けれども反面、クニチャンにはクニチャンのダンスへの気持ちをまだ知っていないお母さんの気持ちがわからない。

 そのことに気がついて、わたしはどきどきしている。

 ものごとの両面。

 わかってもらう、わかろうとする。
 認められる、認める。
 寄りかかる、寄りかかられる。
 話す、聞く。
 許す、許してもらう。

 クニチャンはそれから、お母さんとよく話し合った。

 ダンスのレッスンにも通えるようになった。学校生活と部活動(陸上部)、高校受験との両立を考えて、レッスンは週一回。ダンス部のある高校を受験するという目標もできたそうだ。

 わかってもらう、わかるように話す。

 ハンバーグの片面を焼く、ひっくり返してもう片面を焼く。

Photo  
先週、二女の誕生日でした。
いまのところ、贈りたいものも思いつかず、
その日、部屋のベッドサイドに、
花(ブルースター)を生けておきました。
この日、この花と出合って、この花を贈れて、
それだけでじゅうぶんだという気がしました。

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2014年10月21日 (火)

おたんじょう、おめでとう

 気がつけば年年、「記念日」への思い入れが薄くなっている。
 かつては、誰かの誕生日、いろいろの記念日、クリスマスが近づくと、「よしっ」とばかりに贈りものを準備したり、メッセージカードをつくったりしたものだが、近年、「よしっ」というほどのものが漲(みなぎ)らない。
 思いがなくなったわけじゃないのよ。
 何と云うかなあ……、「お誕生日おめでとう!」と叫びながら駆けだし、相手に贈りものやカードを押しつけんばかりにするというような有り様(よう)を変えたくなった。
 いまはこんなふうだ。
 道ばたに腰をおろして相手が通りかかるのを待つともなく待ち、その姿が見えたとき、ゆっくり手を上げて云う。
「おめでとう、お誕生日」
 いつのころだったか、誕生日やクリスマス、何とか記念日の贈りものや食事会に目くじら立てるのはよそうと思った。記念日当日に間に合わそうと、むきになって贈りものをさがして街をさまよったり、歯を食いしばって料理したりすることから卒業してもいいかな、と。娘たちが皆育ち、末の子が17歳になったのも、わたしにそんな気持ちを起こさせたものかもしれない。
 そうしてみてわかった。道ばたに腰をおろして相手が通りかかるのを待つともなく待つような調子でいても、いい具合に記念日が迎えられる。

B子さん、おたんじょう、おめでとう」
B子さんは仮名。BBirthdayの頭文字だ)。
 カードに「おたんじょう日おめでとう」と書こうとしたのだけれど、「日」の字を書くのは遠慮した。このカードを渡す日はB子さんの誕生日当日ではないからだ。3月生まれのB子さんに、ことしはこれまで2回たんじょう祝いをした。B子さんに贈りたいものをみつける当たり年だったのかもしれない。
 そして本日、ことし3回めのたんじょうカードを、書いている。
B子さん、おたんじょう、おめでとう。ふさわしい贈りものをみつけました。大よろこびしてくださいな。塩と砂糖はまちがえないこと」
 こう書いてしまってから、後悔がはじまった。誕生日当日を逃している上に大よろこびしろなどと注文をつけるとは。でもまあ、いいか。うつくしいカードにペンで書きこんでしまったのだし。
 カードに書いた文言はともかく、B子さんが欲しがっていた塩と砂糖を入れるふたつの壷は、なかなかうつくしい。

 ところで、わたしはいま、ある「おたんじょう、おめでとう」について、思いめぐらしている。友人のところに生まれた男の赤ちゃんの祝い方だ。道ばたに腰をおろし、どう祝おうかと考えているが、これという祝い方にいまだめぐり逢えない。そうこうしているうちに赤ちゃんは、「光海(こう)」という名をもらった。こんなに深遠なるうつくしい名をもつひとに、何を捧げてよいものか。さて、困った。

Photo

ふたつ小さな壷、
B子さんへのことし3回めのたんじょうびの贈りものです。
じつは同じモノがうちの台所の戸棚のなかに住んでいます。
うちにやってきたとき、B子さんがこの壷を、
「ほしいなあ。塩を入れたい、砂糖を入れたい」と
つぶやいて眺めていたのでした。
大分県の小鹿田焼きの小壷です。
左側の小振りなほうを塩壷(高さ約10cm)に、
右を砂糖壷(11cm)として使っています。
料理好きの若いB子さんのところに壷のきょうだいが住んで、
働いていると思うと、うれしい。
「わたしも、おもしろがって料理しようっと」
と思わせてもらえます。

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2014年10月14日 (火)

台風一過

 誰でも「台風一過」を「台風一家」だと思いこむ時期があるのではないだろうか。そうして、「一家」と思っていたものの正体が「一過」だと知ったあとでも、嵐を見送ったのちの脳裏に「台風一家」の4字が浮かんでいたりするのではないか。そうして何とはなしに想像する。また空の一家にごたごたが起こったな、という具合に。
「そのくらいにしておきなさいな」
 自分の家にはごたごたなど起こったこともない(うそばっかり)、という涼しい顔して、上空を睨む。
「だから、もう、およしなさいってばっ」

 さて「一過」。

 これはさっと過ぎてゆくという意味。
 このたびやってきた台風19号も、あれほど大騒ぎして、大騒ぎのあまり浮つきそうになるのを戒め戒め待ったというのに、朝起きたら、もういなかった。さっと過ぎてしまったらしかった。空に雲は浮かんでいたが、誰に急かされているのか、あれよという間に走り去り、あとには、見上げるこちらが気後れするほど、澄みわたった青空がひろがっていた。
 休校はないにしても、強風のため登校時間が遅くなるだろうと期待していた(中間試験の初日であった)高校2年の三女にいたっては、青空の真下でぽかんとしていた。
「行っちゃったのか、台風」
 ぽかんとしたあと、急にあわてて地理の帖面をめくったりしている。いまさらあわてたって、間に合わない。そう思い直したのか、いつもよりゆっくり朝ごはんを食べ、「よし、行くか」と云って、出かけた。
「(答案用紙に)名前を書くのを忘れないように」
(こんな頓珍漢なことしか、かけることばを持たないなんて。……うれし)

 台風
19号が、わたしの頭の上を通過したのは、日付が変わった本日夜半過ぎのことだった。雨風(あめかぜ)の音を聞きながら、気がつくと、過去幾度も経験した「苦きこと」、「うまくゆかなさ」を思っていた。
 いや、どんなに手きびしい目に遭っても、いつの間にかそこを通り過ぎてきたことを、思い返していたのだった。
「苦きこと」、「うまくゆかなさ」に遭遇し、停滞し、悩みにからめとられたとしても、通過するときは、なぜか一瞬だった。
 ほかの誰かに気持ちを向けた瞬間、いちばん辛いところを過ぎていた。
 自分のことだけでいっぱいになっている殻が、ぱんっと破ける。しかも、ほかの誰かに気持ちを……というのも、電車やバスのなかでひとに座席を譲るとか、誰かさんのちょっとした用事を肩代わりするとか、こころをこめて目の前のアナタに挨拶するとか、そんな程度のことなのだ。
 誰かを思って何かする。これが苦境(大袈裟だけれども)を脱するための「はじめの一歩」。そうと知っていながら、なかなか一歩踏みだせないもどかしさを感じることがあっても、ともかく。
 荒れ狂う風雨に耳傾けつつ、台風一過の青空に驚かされつつ、あらためて思いだした。
 どんな場合も、自分のことに凝り固まっていてはだめなんだわ。


Photo

友だちから、いいもん、もらいました。
「父の故郷、長崎県(五島)のかんころもちです」
と、書いてあります。
15cmほどの筒状のものを、厚さ1cmほどに切って、
フライパンで焼きます。
まあ、そのおいしいことと云ったら。
さつまいもを混ぜこんだお餅(甘みも少し加えてある)なんです。
わたしは、ちょんと、醤油をつけていただきました。
こんなふうに、いいもんをちょっぴり分けていただくというのが、
わたしは好きです。
たくさんではなしに。
希少価値です。
かんころもち(甘古呂餅)、ごちそうさまでした。

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2014年10月 7日 (火)

河童と小松菜

 くたびれた。
 こんな予定くらいこなすのなんかは「屁の河童」と自分を励まし励まし家を出たけれど、1日外で過ごし、過ごしてみたら「屁」でも「河童」でもなかった。やはりわたしには、力量が不足している。

 家に戻ると、でも、安心した。

 さ、ごはんをつくろう。
 冷蔵庫の野菜室を引きだすと、小松菜が横たわっていた。よし、これでよみがえれる。……わたしはうれしかった。小松菜をざっと洗い、ボウルに張った水のなかで根元をよくよく洗う。水を切ってざるに上げ、小松菜を3株ほど持って……。
 手で半分に千切る。ねじ切るのだ。
 台所での所作にはいろいろあるが、包丁を使わず、まな板も使わず、小松菜を空(くう)でねじ切るのは、なかでも好きな部類。小松菜に合うと、どうしてもねじ切ってしまう。このちょっぴり野蛮な所作に、胸に余った時時(ときどき)の感情をのせる。
 ねじ切った。小松菜はざくっとかすかな音を立てて半分になり、半分がまた半分になった。根元も、指先でつねるようにして落とした。きゃべつやレタスを千切ったり、ほうれんそうの葉先を千切るときとはちがい、腕まで使う思いきった動作となる。ざくっ、ざくっと、小松菜は扱いやすい寸法になり、わたしはこれをまた、ちょっと野蛮つづきに炒め煮しようとしている。
 油揚げを油抜きせず六等分にする。熱した鍋にこれをならべる。油揚げから油が出てじゅうじゅうと音をたてて焼ける。そこへ、今し方ねじ切った小松菜をのせて混ぜる。だし汁を注ぐ。味つけは砂糖、酒、しょうゆ、塩少し。小松菜がしんなりして、全体に調味料の皆さんがまわったら、もう出来上がり。
 これが完成するころには、わたしはよみがえっている。外での勤めにくたびれ、縮こまった神経がゆるみ、この日のこと全部が「屁の河童」になって、自分のなかに納めなおされる。
 ところで「屁の河童」って何だろうか。とるに足らないことを意味するのはわかるけれど、屁も河童もとるに足らなくなんかない。大事も大事。調べてみたら、「木っ端(こっぱ)の火」と呼んだのがはじまりで、江戸時代の後期、ことばをさかさまに唱えるのが流行って、「火の木っ端(ひのこっぱ)」になった。それが訛って「屁の河童(へのかっぱ)」。
「屁」も「河童」も「小松菜」も、わたしには大事。大事なものはみんな、とるに足らないものから成り立っているのだと、知った日、きょう。


パソコンのキーボードが、とつぜん、

病に倒れ、重篤に陥りました。
 )」「O」「;」「/」という斜めの文字列が
打てなくなってしまったのです。
仕方がないので、これらを用いるときは、
「コピーし」、「貼りつけて」しのぎました。
O」は母音の「O」でもあるので、使用頻度も高く、
ちょっと苦心しました。
原稿書きにパソコン、キーボードの世話になって25年。
その道筋をふり返り、考えさせられた数日間でした。
そしてやってきたあたらしいキーボード。

Photo
これはわたしの、ひとつの小窓です。

ことばを生じさせ、受けとめる小窓です。

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