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2014年12月の投稿

2014年12月30日 (火)

ありがとう

2014年
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
わたしは毎日、本気だった。
そうさせてくれた2014年の毎日に「ありがとう」を云いたいのです。

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ことしの「ありがとう」のひとつに、
1225日にでき上がった『小窓』があります。
朝日カルチャーセンター(新宿)の「エッセイを書いてみよう」の
講座から生まれた初めての文集です。

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2014年12月23日 (火)

ことしの読書

 考えてみると、ことしは読書の当たり年だった。
 読んだ冊数は、驚くほどではない。それでも、70冊は読んだかと思う。
 恵まれたと云うのは本との出合い方のはなしで、運命的なものが少なくなかった。ことしほど友人から本を紹介されたり、贈られた年はなかった。
 そしてそれらはいちいち、こちらの人生に食い込んできたのである。書物の神様があったとして、わたしはその存在の計らいで、友人を通して常とはことなる読書体験を持たされたということだったのかもしれない。
 持たされた。ほんとうにそんな感じだった。
「えー、わたしがこの本を読むの?」あるいはまた「わたしにこれが最後まで読めるだろうか?」と疑いの声を上げたくなるような本との出合いもあったのだ。
 70冊(この数字はあまり正確でないにしても)のなかには、再読、再再読、「再」の字を4つも5つも重ねなければならない読書もあったが、何にせよ、そんな馴染みの本さえも、これまでとはちがった面をわたしに突きつけた。これまでてんで気に留めなかった登場人物や、読み過ごしていた2行3行が、もの云いたげに迫(せ)りだしてくる。みずからの迂闊さを証明して見せられる一方で、知らない自分と顔を合わせる機会になった。
「こんなことに気持ちを向けるひとだったのか、アナタは」
「いま、アナタは、変化しているのですかね」
 そんなことをおどろおどろしく、わが胸に問うた。
 端的に云ってみるなら、自分が固執から離れる季節がめぐってきたということだったか。頑(かたく)なに握りしめていた思い方考え方から一旦引き離そうとしたのが、ことしの読書であったようだ。執着して融通がきかなくなっていた塊(かたまり)を揉んで、ほどいて、11本の糸にして並べる。結果として引き離されたもののもとに戻ることになった場合も、出合い直しをしていたものと思われる。引き離されているあいだに、検証とも呼べそうな行為がおこなわれたからだ。
 塊がなくなったおかげで、少しばかり読む力が上がった。
 いりくんだ事柄も、これまで頭におさまりにくかった記述も、こだわりなくすらすら読める。ああ、なるほど。読む力や理解力を妨げていたものの正体は、自分のこの塊であったかと気づいて感心したりしている。ただし、すらすらと云っても、わが「至らなさ」はもとのまま。ことなるのは、「至らなさ」を「至らなさ」として認め、ひたすら歩こうとする決心ができた点であり、その境地が自由であると気づいたことだ。学ぶ道半ばなのだと、思うとうれしくもある。

 たぶん、これがことしさいごの本となるだろう。

 ヒサコさんからメールが届いて、それにこう記されてあった。
「突然のことですが、本をお送りしました。私からの、ささやかなプレゼントです。直ぐにお読みにならなくてもいいです。どうぞ受け取って下さい」
 そして、それは1221日に届いた。
『現代の超克——本当の「読む」を取り戻す』(中島岳志 若松英輔/ミシマ社)
 気鋭の政治哲学者、批評家の2人による対話から成っている。本書で「読まれる」のは、このような本である。

『南無阿弥陀仏』『新編 美の法門』 柳宗悦

『ガンディー 獄中からの手紙』 ガンディー
『モオツァルト・無常という事』 小林秀雄
『人間・この劇的なるもの』 福田恆存
『近代の超克』 河上徹太郎 西谷啓治 鈴木成高 吉満義彦ほか

 まず、
11頁全部を繰ってみた。
 すぐに読みはじめることがかなわぬとき、わたしが決まってするのがこれなのだ。まぶしい。ことばの照射だ。ものすごくわくわくした。この本を1冊持って、知ったひとのいない暖かい場所に行き、すぐと読みはじめたいと思った。
 頁を一定の速度で繰ってゆくなかで、照射のつよかったのがつぎのくだり。
 この数行を胸に置くことが、いまのわたしを導くようにさえ思える。

だが悲しみを悲しむ心とは何なのであろうか。悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。悲しむことは温めることである。悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。悲しみは慈(いつく)しみでありまた「愛(いとお)しみ」である。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それ故慈悲ともいう。仰いで大悲ともいう。古語では「愛し」を「かなし」と読み、更に「美し」という文字さえ「かなし」と読んだ。

                    『南無阿弥陀仏』(柳宗悦)所収

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紅しぐれ大根を、熊谷のははにもらいました。
きれいな大根です。責任重大。
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これを薄切りにすると、こんなふうに
なかにも紫色がほんのりと……
塩を振りながら、バットにならべ小1時間おきました。

すると、水が出てきました。
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大根を洗って水を切り、またバットにひろげます。
甘酢(酢、砂糖、塩)を鍋に入れて混ぜながら
ひと煮立ち。
この甘酢をまわしかけて、しばらくするとあら不思議。
きれいな赤色になりました。
朝漬けて、夕方には食べはじめられそうです。
たのしみ、たのしみ。

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2014年12月16日 (火)

ある日の空の色、水色

 11月の半ばころのことだ。
「どうやら年末まで忙しくなりそうだけれども、うつくしいものをみつけながらゆくとしよう」
 わたしは、誓った。
 うつくしいものをみつけよう、みつけられる、と思ったはじまりはこうだ。
 ある日。
 年上の友人ふたりに、「兒嶋画廊(東京都国分寺市泉町)に志村ふくみさんのコレクション———着物、小裂(こぎれ)など———を見に出かけましょう」と誘われる。この日、友人たちにわたしが連なっていた会議の終わるのを待ってもらい、午後2時過ぎにやっと合流して昼ごはんをごちそうになった。洗朱(あらいしゅ)の色の鮭寿司。国分寺のお鷹の道を歩き、途中で農家直売所の野菜や柿の実を横目で見ながら坂道を登った。
 志村さんの作品をならべた画廊は、建築家・藤森照信氏設計の魔法の家のような場所で、なかに入るなり、いつまでもそこにとどまっていたいような心持ちになる。壁にかけられた志村ふくみさん染織の着物が、わたしたちを静かに見ている。鮮やかな鳥の子色や薄縹(うすはなだ)。

 ある日。

 母が2か月半ぶりに美容室へ行くのに付き添う。
 母のヘアスタイルを、25年も引き受けてくれているW氏が、「ああ、心配しました。どうしておられるかと」と云う。母の洗髪を若いひとに任せるあいだ、長く縁のあった顧客は大事な存在だが、その生活のどのあたりまで近づいてよいかという迷いについて語る。「年を重ねられたお客さまがふえてきたものだから。お母さまのように、お嬢さんもお孫さんたちも知っている、という方ばかりでないので、いつしか消えてしまう縁もあるんです」
 それを聞きながら、美容室ような「場」との、ひととおりでない縁を思って震える。母のヘアスタイルが変化してゆく様をそっと眺める。はさみや櫛が、母という女の「いま」をつくる。
「お宅まで送らせてくださいませんか? ちょうどこのあとの予約が入っていないので」W氏が美容室の扉を開けると、いつの間にかくるまが停まっていた。ツーリングタイプのドイツ車、色は……赤丹(あかに)。遠慮してもぞもぞしてたら、となりで母が「ご好意に甘えます。乗りたいわ」と目を輝かせている。
 忘れかけていたけれど、母はくるまを好きなのだった。家までの、10分にも満たぬドライブを母とともにたのしむ。赤丹の車体が見えなくなっても、母は右手を振っている。

 うつくしいものは、在る。

 そしてわたしは、それを見過ごす。……在ることを忘れて見過ごす。目の端に映りかけたものを気づかなかったことにして見過ごす。
 うつくしいものもいろいろで、目に映る色もあれば、胸に沁みる情景も、こころに触れる思いもある。
 うつくしいものは等しく、人生の大事。

 ある日の空の色、水色。

 ある日に見た縄文時代草創期の土器(東京都武蔵野市出土)の色、薄鼠(うすねず)。
 またある日、「おはようございます」という声とともにあったダッフルコートの色、伽羅色(きゃらいろ)。
 師走のせわしなさを、ただそれだけのものにしないうつくしいものたち、うつくしい気配、うつくしい存在。
 今朝ふとみつけた、わたしの指の爪半月の色、灰白色(かいはくしょく)。ほのかにうつくしい。

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ある日見た葉の色、深緋(ふかひ)。
裏側は、千草色。鉄色の部分もあり。

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熊谷の夫の実家に植えたブルーベリーの苗木です。
3年たちました。
色と佇まいがこころに沁みます。

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2014年12月 9日 (火)

やればできるじゃん

 12月に入ってから、ちらっちらっと後方を覗き見ている。
 後方、それは2014年という年のひろがりである。ちらっちらっとやるのには理由がある。一度に大きくふり返った日には、いろいろのものがどっと降りかかってごた混ぜになり、何が何だかわからなくなるからだ。あれやこれやをごた混ぜにして思い返すことなどできない……、そんな年だった。
 昔昔の若き日に、恋人に向かって「ことしがこんな年になるとわかっていたら、年のはじめに逃げ出してしまったかもしれないわ」と告げたことがあった。あれと似ている。あの頃よりも受けとめたもののなかに潜む甘みと苦みが、複雑になってはいるけれども。

 6月に山田太一さんとお目にかかった。

 それは、ことしの核のような出来事だった。2014年にもまた、悲しいことしんどいことが混ざっていたけれど、「わたしは山田太一さんとお目にかかる運を持っている」そう思うと、ふっと口元が緩(ゆる)み、からだに力が漲(みなぎ)るのだった。
 断っておくが、わたしは高望みなどしない。であるからして、「いつか生きて動いている山田太一さんにお目にかかって、おはなしをしてみたい」などという望みを持ったこともなければ、想像したこともない。山田太一さんが生きているこの世に生まれることができただけでじゅうぶんしあわせだった。大袈裟かもしれないが、ほんとうにそんな気持ちだった。
 ところが、6月のある日、わたしは東京都世田谷区の経堂駅で山田太一さんと待ち合わせをしたのである。当然のことながら、山田さんのほうではわたしがわからないから、ひそっと物陰に隠れて改札口を凝視していた。あまりにも自然に、あまりにも当たり前に山田太一さんは、あらわれた。自然であり、当たり前ではあったが、醸されるものがひたすらにうつくしかった。
 ——なんと、うつくしい……。
 
わたしは絶句した。
 この日、わたしは山田太一さんの講演会に出かけて行った。
 ああ、何ということだろう、生きて動いている山田さんを会場の隅っこで眺めるチャンスを得た! 主催者に誘われて出かけて行ってみたら、山田さんのそばでいて、ちょっとした気配りをする役目が待っており、まず経堂駅改札口でお迎えし、駅近くの食堂で昼ごはんをご一緒することになった。バカ真面目に山田さんに張りついていたからだろう、わたしを付き人か何かと思ったひとが「山田太一さんに講演をお願いしたいのですが」と云ったかと思うと、「奥さまでいらっしゃいますか」と問うひとまであらわれた。このときばかりは「奥さまではいらっしゃいません。まったく全然ちがいます」と顔の前でびゅんびゅん手を振りまわすこととなった。
 待ち時間を隣り合わせに過ごし、食堂では向かい合わせになって、この世におけるリアリズムについて、切れ切れにおはなしした。むずかしいことばはなかった。が、なかみは易しくはない。いまだにそのときの会話が、そのままわたしの胸に在って光を放っている。易しくない現実をリアルによく見るようにしさえすれば、行く道が定まるという思いがあの日、宿った。
「いかにして個人を保つかということが問われていますね」
 山田さんは、わたしの目の前でハンバーグを食べる手を一瞬止め、そう云われた。個人を、個人と個人のあいだを、大事にしたいと希っても、それがあっさりぺしゃんこになってしまいかねない道をわたしたちが進んでいることについてはなされたのだと思う。

 その日のあったおかげで、心境に変化がもたらされた。

 まずは、3月の父の死を胸に納めなおした。死の値打ちというものを、自信を持って胸のここに納めたのだ。それから父の死後独居となった母へのサポート、11月教育委員長(東京都武蔵野市)の任に就いたこと、その他こまごまとした課題のすべてを、わたしの大事な現実としてとらえることができた。困難が無いわけではないけれども、リアルによくみてゆけば、行く道は示される。それが信じられたわたしは、みずからに向かって何度もこうつぶやいた。

「やればできるじゃん」


 半世紀以上も生きてきて、「やればできるじゃん」はないかもしれないけれども、自分の選択を頼りにし、自分の持てる力を出しきろうとすることで、わたしに自信が芽生えた。

 それが「どんなもんだい」という類いのものでなく、「やればできるじゃん」だったのである。


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父の死を「ことしの核」、と書かなかったことを
おそらく父はどこかで憤慨していることと思います。
でも、わたしにとってその死は、自分そのもの。
そんな気持ちです。
どういうわけだったのか、死ぬ少し前に預かった
父のスケッチ帖に、自画像と母のスケッチをみつけました。
1960年代の作だと思われます。

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こちらは、風景のスケッチ。
1965年と記されています。
明るくのどかなスケッチだなあと思って、眺めています。

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2014年12月 2日 (火)

新種の現実

「もしもし、あのね。水曜日の入浴は衝撃的だったのよ。あっという間の出来事だったから、ほんとはあとから衝撃的だったわーと、気がついたんだけどね。でも、とても気持ちがよくてね、楽だったの。ありがたいわよね」
 夕方電話をかけてきて、母は云った。
 この数年のあいだに母は、話し方がゆっくりになった。ことばを探し探し、ゆっくり穏やかに話すのを見ながらも、またかつてのように、きびしい口調でわたしをたしなめたりするのではないかと、どきどきしていた。が、そういうことはなかった。それを「さびしい」と書きたいところだが、わたしは諸手を上げて万歳!している。薄情な娘。
 薄情娘は思っている。
 −−−もう、今生で母に叱られることはない。万歳! これは卒業か?

 母は
11月半ばから、週に4日、近くのデイサービスセンターに通いはじめた。10月に母がふらっとして倒れ、検査入院したのがきっかけだった。すでに弟のお嫁のしげちゃん立ち会いのもと、母は介護保険の認定を受けていたのだけれども、わたしたちはなかなかその先の一歩を踏み出せないでいた。
 母の入院中、しげちゃんとわたしは、デイサービスセンターの見学、ケアマネージャーさんの決定、ケアプランの作成、あたらしい生活に対応するべく母の衣類を整理したりした。

「デイサービスセンター、勘で決めたよ。まず見学しようね」(ふ)

「うふふ、勘が大事です」(し)

「(病院に)お見舞いに行くと、おかあちゃまが『脱走する!』と云われるんです。どうしましょう」(し)

「そりゃあ大変。ふたりそろって行って、脱走は阻止しよう!」(ふ)

 病院にも見舞い、あちらこちら走りまわりながら、しげちゃんとわたしがともにあたらしいことをおもしろがれる余裕を持っていられたことが何よりうれしい。これまでは、ふたり別別に母のもとをに出かけており、「ふたりそろって」という機会はほとんどなかった。帖面を1冊用意して、その日の出来事、気がついたことを記すのと、携帯電話のメールを使って連絡をとり合っていた。母の生活を見守る頻度を少しでも上げたかったのだから、仕方がない。

 母の入院中、わたしたちはほとんど一緒に動きまわり、一緒に考えこみ、一緒に困って、一緒に決断した。先のことはわからないけれど、きっとこの先も一緒に動きまわり、一緒に考えこみ、一緒に困って、一緒に決断するだろうと思う。ひとりきりでなかったことに、心底感謝した。ひとりだったら、デイサービスセンターまでの道すがら泣いちゃっていたかもしれない。少なくとも、病院で母に「脱走する!」と云われたとき、あんなふうに大笑いなんかできなかった。
 何もかもが初めてのことであり、母の置かれた立場や、奥底に隠れた思いを想像すると、何とも云えない気持ちになり、ややもすれば暗い穴に落ちこんでゆきそうだった。

 退院した母は、その日のうちにデイサービスセンターに見学に行き、ケアマネージャーと面談し、デイサービスセンターのセンター長の
Hさんと面談し、その傍らでしげちゃんとわたしはどんどん契約書にサインした。
 3日後の朝、デイサービスセンターのマイクロバスが迎えにきた。
 初日には、「なぜわたしがそんなところへ行かなくてはならないか」と云って抵抗したり、もっと単刀直入に「行きたくありません!」と叫んだりしても不思議ではない。そんなことをひとからも聞かされたし、ものの本でも読んでいた。それでわたしは腕まくりして−−−母を無理矢理バスに押しこもうとしたわけではない。が、なぜ腕まくりをしたのかは……、わからない−−−母を見ていた。母は、なんだか知らないが、白粉をはたき、ちょっとすましてバスに乗りこんだ。わたしはと云えば、新種の現実のただなかに立っていた。

 きょうで、母のデイサービスセンター通いがはじまって
17日。
 週一回の入浴サービスもはじまり、掲出の電話口での「衝撃的」との……、「楽だったの」との感想になった。わたしはまたしても、新種の現実のなかに放りだされる思いだ。
 いったい、どう思えばいいのだ?
「正直に云ってみなさいよ」とみずからを突っつく。
 新種の現実のなかで、わたしは、ほっとしています。
 そしてその現実に、励まされてもいる。


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11月のおわりに新刊が出ました。
かつてのブログ「うふふ日記」に書いたものも、
一部収録しました。
児童書について書くことができたこと、
よき編集者と仕事ができたこと、
この本のなかにも新種の現実がひろがっています。
お手にとっていただけますれば幸いです。

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