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2015年1月の投稿

2015年1月27日 (火)

背中

 靴下を脱いで、足の裏を見ると、水ぶくれができていた。
 2時間くらい前から足の裏がひりひりと痛んでいた。マメかな、と思ったけれど、そうか水ぶくれだったか。こんな立派な水ぶくれと合うのはいつ以来だろう……。
「久しぶりだね」

 東京都武蔵野市立
D中学校の生徒による「ナイトハイク」に参加した。
 ことしで38回めとなるこのナイトハイクは、厳寒期、同市のD中学校・多摩湖間の「多摩湖サイクリングロード」往復26kmを夜通し歩く行事だ。参加してみたかった。わたし自身、歩くのが好きだからでもあるが、「心身鍛錬を目的として」いるというハイクを中学生がどんなふうに受けとめて歩くのかを見てみたかった。

  124日(土)の午後10時。
 サポートする大人たち(行動隊)が集まり、いろいろの注意事項、これまで準備してきた事ごとを確認す。この集合までに、1時間でも眠れたら眠ろうと思っていたが、結局横になる時間もつくれぬままわたしはここに集っている。歩ききる自信はあったけれど、眠くならない自信はというと、それはなかった。
  125日(日)午前1230分出発。
 中学生約50人と、行動隊が3隊に分かれて、闇のなかへ歩きだす。15分ほどで「多摩湖サイクリングロード」に入る。深夜だというのに、ロードバイク(またはクロスバイク)にまたがったひと、ランナー、散歩のひとたちが存在する。酔っぱらいには出くわすだろうと予想していたけれど、それとは異なる夜型行動者の数に、驚かされる。
 驚いたことは、ほかにもある。歩くペースの速さだ。往復26km5時間半で歩ききった。休憩もほとんどない。中間点である西武新宿線・拝島線小平駅でトイレ休憩をとるだけで、どんどん歩く。
 それから、「ナイトハイク」をたくさんの大人が支えていること。行動隊には、D中学、小平駅、多摩湖とそれぞれの地点で中学生の健康状態をチェックするひと、給水や行動食に気を配るひと、くるまを出してハイクを見守るひとたち、深夜の横断歩道にライトを照らし誘導するひと、そのほかにもいろいろの準備があった(駅の洗面所にまで、仕掛けがあった)。
 目的地の多摩湖にはテントが設置されており、PTAの皆さんがお汁粉とたくあんをふるまってくださった。じつにおいしいお汁粉! たくあんもありがたかった。

 午前
6時、わたしも中学生たちの隊列のうしろについて、ゴールした。
 中学校の2階の教室で、これまたPTAの皆さん手づくりの炊きこみご飯と豚汁をいただき、ほっとしていると、50人の中学生が全員無事到着したことが伝えられ、拍手す。誰ひとり棄権することなくゴールした。これはすごいことだ。すご過ぎる、とも云える。
 足を痛めて、自分の班から遅れた中学生がひとりあった。
 朝もやのなかを自転車で(またがるとき、足の付け根が痛くてつい「いたたたた」と小さく叫んだことを白状します)帰るとき、遅れてゴールした彼と一緒になった。
 足が痛くなるなんて、遅れをとるなんて考えもしなかったことだろう。かすかに足を引きずりひとり歩く背中は、誰も寄せつけない小さな怒りと恥ずかしさを発している。わたしはすっかりうれしくなった。こんな姿が見たかった。しかし、その背中に向けることばを持たなかったので、彼をそっと自転車で追い越しながら、「忘れられないナイトハイクになったね」とこころのなかでささやいた。
 無事にゴールできればそれに越したことはない。が、思わぬことから遅れをとったり、どうかすると棄権しなければならぬ事態も起こるのだ。
「ナイトハイク」でもっとも印象深かったのが、この日遅れをとった彼の背中だった、と云ったら、偏屈が過ぎるだろうか。みずからに対し、腹を立て恥じてもいる多感な背中をわたしはきっと忘れないだろう。

 家に帰りつき、靴下を脱いで、足の裏を見ると、水ぶくれができていた。久しぶりの水ぶくれにみとれたあと、手をこすり合わせる。子どもの頃、こんなのができるたび母がしてくれたとおりに、裁縫箱から待針をとり出し、ガス台の火のなかで焼く。

 水ぶくれに待針を刺して、なかの水を抜く。

Photo

山歩きのときのための「山スカート」、
何枚か持っています。が、わたしは寒い季節には
山には行かないので、どれも薄手の短いものばかり。
このたびの「ナイトハイク」のために、
着古したロングスカートを切って、
冬用山スカート(写真)としました。
高機能タイツ、ロングソックス、短丈ソックス、
木綿のロングパンツ、山スカート、
トレッキングシューズという出立ちです。
山スカートの存在のおかげで、暖かく、
またあらゆる動作が楽になりました。

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2015年1月20日 (火)

ギザギザ菌

 早く寝ることにした。
 とくに疲れているわけではなかったが、早く蒲団の国に行きたかった。その日は晩ごはんに夫の牛すじの煮こみ鍋を食べた上、片づけまで引き受けてもらうという、しあわせな夜だった。
 蒲団にくるまって小1時間も眠っただろうか。
 とつぜん胃の痛みが襲ってきた。白湯を持ってきてもらい、それを飲んでじっとしていた。胃の痛みはいつしか去ったが、こんどは右足が痛くなった。「足三里」と呼ばれるツボのあたりを中心に痛み、右足が抜けるかと思うほどだるくなった。
「イタタタタ」
 とやっていたら、痛みが左足の同じ場所に移って、またしてもだるくなった。
 足の痛みとだるさが遠のくのと同時に、また眠ったらしい。目が覚めたら12時になっていた。
 胃痛と云い、足の痛みだるさと云い、不意のことだったが思い当たることがあった。ギザギザ菌の仕業だ。

 先週末からどんどん用事が入ってきて、どこから手をつけていいかわからず途方に暮れた。

 用事は勝手に飛びこんできたわけではなく、ひとつひとつ、ダイジョウブ、これくらいこなせるさ、と判断し受けとったのはわたし自身だ。なかには困難の匂いのする用事もあったが、受けて立とうじゃないかと思った。
 そのとき、からだのなかで何かが蠢(うごめ)きはじめた。
 ——ギザギザ菌?
 目の前に積まれた用事のどこから手をつけていいかわからなくなり、不安にかられるようなとき、コイツが動きだす。
 おそらくこの日、早いとこ蒲団の国に行ってしまおうと思ったのも、ギザギザ菌の動きだす予兆だったのだ。胃のあたりで動きはじめ、右足から左足へと移動した上、痛みまで伴っていたところを見ると、このたびのギザギザ菌の働きは念が入っている。
 ギザギザ菌は、みずからのなかに生じた弱点を自覚するまで、あの手この手で促しにかかる。
 胃痛が襲ってきたとき、わたしは、「なんだか、とても……」と打ち明けはじめた。
「とても、何だって?」とギザギザ菌。だまっていたら、痛みが足に移ったのだ。仕方がないので、しぶしぶわたしは白状す。
「なんだか、とても心細いです」
 朝になった。
 いつもより早く起きだして、弁当をつくった。
 海苔弁。ワンタンの皮でソーセージを巻き、揚げる。さつまいももからりと揚げる。玉子焼き。ほうれんそうのごま和え。それを弁当箱に詰めてゆきながら、「ギザギザ菌てのは、朝は動けないのかもしれないな」と考えたりする。
「そうしてわたしは、心細いんだなあ」
 見ると、わたしの机まわりはそうとうに混乱している。どこから手をつけたらいいかわかっていない証拠。まず、そこを片づけよう。


 心細くも、しばらくのあいだ、常よりちょっぴり活動の回転を上げてがんばります。
 強がるとまた、ギザギザ菌がもどってくるから、用心用心。

 

Photo

ギザギザ菌がやってきた翌日、1日家にいるというのに、
セーターにブローチをつけました。
刺繍作家の友人がわたしのイメージで刺してくれた宝もの。
心細い気持ちを、支えてもらおうと思ったんです。

 

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2015年1月13日 (火)

なんだか、なんだか。

 1月3
 皆で出かけた湯屋で、ロッカーの鍵をなくした。
 娘たちが一度着こんだ服をまた脱いで、湯船に沈んでいないかと探してくれたり、わたし自身も岩盤浴の部屋をまわって探したが、出てこなかった。結局補償実費として2千円を支払って、帰る。
「とんだことだったね」
 家に帰ってわたしはつぶやいたが、これは、人騒がせな張本人のものらしからぬ、ひとごとのような台詞であった。「迷惑かけて、ごめんなさい」とか、「以後気をつけます」と云うのが正しいと思われたが、「とんだことだったね」とつぶやきながら、何気なく右腕をこすったのだ。すると、ごろっとしたものが手に触れた。セーターの袖をめくり上げて、驚く。
 そこにあったのは、さんざん探しまわった湯屋のロッカーの鍵。
「どうしてこんなところにあるんだろうねえ」
 モノを紛失させた張本人のものらしからぬ、あまりに呑気な台詞なのだが、これしか云いようがないのもまた、事実であった。「信じられない。どうして腕を見なかったの!」とやられた。
 まあ、そうなるだろうね。
「腕時計だってロッカーの鍵だって、わたしは左腕にしかはめないもの。右は見なかったの。いつの間に左から右に移ったのかねー」
 一所けん命いいわけをする。いいわけにならない、いいわけ。
 迷惑をかけた湯屋にすぐ電話をし、近日ちゅうに鍵を返しに行く約束をする。補償実費の2千円は、鍵と引き換えにもどってくるとのこと。

 1月
11
 5千円札をなくす。
 近所まで用足しに出るとき、5千円札を折りたたんで、着ていたダッフルコートのポケットに入れた。
「帰りに肉屋に寄って、しゃぶしゃぶ用の豚肉を買おうっと」
 ほうれんそうを山のように持っているので、これをさっと茹でておき、豚肉と鍋にしようと思いついたのだ。鍋に昆布だしをとり、にんにくの薄切りを入れて、塩、酒、しょうゆで味つけをする。ここにほうれんそうと豚肉を……。考えるだけで、たのしみだ。
 肉屋の前でポケットに手を入れると、5千円札がない。ほんとうに、ない。提げ袋も持たずに家を出たから、ほかに探しようもなかったけれども、念のためにズボンのポケットを探り、くつのなかも見た。どこにも、ない。どこかで落としたんだと思う。情けない気持ちになり、肉屋の前を通り過ぎて歩きながら、べそをかきそうになる。
「泣かないの。大人なんだからね」と自分を励まし励まし、歩いて帰る。家にいた夫に、5千円札を落としたと報告する。ふてくされて、わたしは云う。
「きょうは、ほうれんそうだけの鍋にします」
 夕方、しょんぼり台所に立つと、肉の包みが置いてあった。しゃぶしゃぶ用の豚肉600グラム。夫が買ってきて置いてくれたらしい。まだふてくされているわたしは思う。
 ———ふん。ほうれんそうだけの鍋がいやなばっかりにね。

 1月
12
 武蔵野市民文化会館の、「はたちのつどい」へ。
 明け方、蒲団のなかで、「はて。何を着てゆくのだったか……」とあれこれ思いめぐらせ、赤い織りのワンピースに黒いカーディガンをはおることとする。
 無事に役目を果たし、帰宅。ワードローブにワンピースやバッグをしまう。そこで白いブラウス(襟ぐりに添って大きなビーズがついている、コムデギャルソン)と目が合った。
「ぎゃー」
 この風変わりなブラウスに黒い光沢のあるスカートを合わせ、「はたちのつどい」に着ていくことにしていたのだった。2014年の暮れ、わくわくしながらブラウスにアイロンをかけたのだった。

 2015
年がはじまるなり、おかしなことばかり起こる。
 わたしときたら……。
 でも、こんなわたしとことしも生きていかなけりゃ。

Photo

110
夫の両親と、埼玉県熊谷市妻沼の聖天様(しょうでんさま/歓喜院)へ。
お参りをしたあと、実盛公うどんを食べました。
名物の長芋のせん切りと、干し椎茸の甘煮、結びかまぼこ(聖天様は縁結びの神様)、海苔、ねぎがのっています。
素朴で、とてもおいしい……

帰りにははが、「聖天寿司」を買ってくれました。

Photo_2 

これがなかみです。
細長いお稲荷さん。
ことしは、日本各地の食べものと、
いろいろいろいろめぐり逢えますように。

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2015年1月 6日 (火)

安心国 安心県 安心郡 安心町 字 安心

 1月1日2日3日を、あたりまえの日常のように過ごす計画だった。
 夫が緊急の仕事を抱えており、それならいっそのこと、ことしの三が日には家のなかに平素の空気が漂っているようにしようと考えてのことだ。夫想いがはじまりのようだが、そのじつそこに在ったのは、正月を平素に塗り替える遊びごころであった。
 気がつくと、おせち料理のようなものをつくりかけたり、屠蘇(とそ)の準備をしたりしていて、可笑しいこと可笑しいこと。正月を休むなど、生まれて初めてのことだから、無理もない。
 そんななか、昨年も押し詰まった30日の夕方、三女が高熱を出した。
 居間につづくわたしの書斎スペースに蒲団を敷き、病室スペースを拵(こしら)える。当初インフルエンザが疑われたが、熱は38度を超さなかったし、しばらくすると腹痛を訴えるようになったので、感染性胃腸炎ではないかと判断し、白湯やほうじ茶を中心に水分を与えて様子を見ることとした。空腹にななるが、白湯を飲むだけでお腹が痛くなると云うので、ひたすら我慢の道を行かせる。

 夫の仕事と三女の病気とともに、年越しをした。

 ふたりはすまなそうにしたけれど、わたしには、どちらも佳い兆しと思えた。
 いや、正確に云うなら……こんな事ごとを佳い兆しと見ることのできるわたしになりたいと、思ったのだ。それが正月を平素に塗り替える遊びの、ほんとうの意味だと気がついたわけだった。

 1
5日。
 二女と三女と3人で散歩に出た。
 氏神様に詣で、そのまま足を伸ばして東伏見の稲荷神社まで歩いた。
 ふたりは神籤(みくじ)を引きたいと云う。
 神籤の吉凶に興味はおぼえないが、あの細長い紙の上に置かれることばは、わたしに何かをおしえるかもしれない。そう思って、わたしも引く。
「とうぶんは心づかひ多きも後後はあんしんになる」
 とある。
「あんしん」とは当然ながら「安心」のことであり、それがいまはなくとも後後与えられるというのだから、これを引いたことは喜ぶべきなのだろう。だが、わたしは、はて、と考えさせられている。

……安心とは何だろうか。

……安心とは何だろうか。

 安心とは、「心配・不安がないこと」だ。

 ひととしてこの世に生きる者に、心配・不安のない瞬間は、どのくらいもたらされるのか。記憶のない赤子から幼年の時代を除くとしても、ものごころついたときから、わたしは心配・不安を抱えるわたしであった。心配や不安がなくなるなど望むべくもないことは、小学校にあがるころには、心得ていた。
 神籤に向かって、不敵にもわたしは云うのである。
「安心など、端(はな)から求めてはおりません。たまにひととき安心が得られたとしても、またあたらしい心配・不安をさがし出して胸に納め直すのがわたしなのです。ですから、わたしが欲しいのは安心ではなく……」

 安心国安心県安心郡安心町字安心。

 そんな場所を求めているようでありながら、そこには安住できない、もっと云えば安住したくないのが人間なのではないだろうか。
 わたしが欲しいのは安心ではなく……、心配・不安のなかにあっても、安らぎの見当たらぬ地点にあっても、それをものともせずに生き抜く力。

Photo

昨年のおわりに、うさぎさんがやってきました。
うささん、と呼ぶことにしました。
うささんは、不思議な愛らしさを持っています。
友だちが「がんばった賞」と書いて、贈ってくれたのです。
「賞」というようなものとは縁なくやってきたわたしです。
しかし、この賞はただ、うれしかった……
友だちが、わたしのどんな「がんばり」を見てくれたのか、
そんなことはいいんです。
2015
年も一所けん命やってゆこうっと、と思いました。

Photo_2 

うしろ姿は、こんなです。
紅い帯がかわいく結んであります。
(全長6cm

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2015年1月 1日 (木)

元旦はハムエッグ!

 

「喪中だけれど、お父ちゃまはお正月が大好きだったから、例年どおりにゆきましょうよ」
 と、母が云った。
「そのかわり、お正月飾りと鯛だけは休みましょう」
 鯛を休むのは、毎年、焼いた大きな鯛をむしって取り分けるのが父の役目であったからだろう。子どものころ、父に鯛のほっぺをむしって皿にちょんとのせてもらうのが正月のたのしみだった。鯛のほっぺ、ことしは食べられないとしても、来年からはわたしがむしってうやうやしく取り分けるとしよう。
 こうしてほぼ例年どおりの正月!という心づもりでいたところに、夫がすまなそうに云った。
「年末年始なしになりますぅ」
「なんじゃ、そりゃ」
 と問うと、15日に、決してうしろにずらすことができない映像の編集の締切があって、仕事をしなければならない。そのため、大掃除もできない、紅白歌合戦も観ていられない、「年の初めはさだまさし」にもつきあえない(テレビ)、初詣にも行けない、ごめん!という返事が返ってきた。
 そういうことなら……。
 それなりにおもしろく過ごすしかない。
 わたしは家の者たちに、発表す。
「ことしはお正月、旧暦でいたします。元旦はだからハムエッグとトーストです!」
 家の者たちは、にこにこしている。
 皆、元旦に食べるハムエッグにこころ摑まれているらしい。
 潔く発表したのはいいが、生まれてこのかた、元旦にハムエッグを食べようなんかというのは初めてのことで、わたしはついつい正月気分というのに引っぱられる。気がつくと「どこのかまぼこを買おうかな」とつぶやいたり、「(雑煮の)みつばを忘れずに!」とカレンダーに書いてしまったりする。

 ふと『るきさん』(高野文子/筑摩書房)を思いだした。

 大晦日。るきさんが割烹着姿で窓ガラスをキュッキュッと拭いているところに、親友のえっちゃんがやってくる。
「あれぇ? 暮れからどことかにスキーだって言ってなかった?」
「予約とれなかった」
「えっ……」
「よし、ことしはお正月はしないことにしよう。おせちもおもちも食べない。着物も着ないしお正月番組も見ないぞ」
 えっちゃんは宣言する。
 そうして大晦日の夕方、「るきが紅白つけないよう見張りにきた。今夜は泊まる」と云ってるきさんの家にやってくる。えっちゃんは、るきさんを道づれにしようというのだ。
「安心おし、明日の朝はミスタードーナッツよ」
 『るきさん』を開くたび、いつも、こんな正月をいつか過ごしてみたいと思っていた。うふふ。それがかなう。

(紅白歌合戦は、観ましたよ)。


 皆さま、何にしても
2015年、佳い年にしましょう。
 あちらこちらで、気持ちのいい風景をつくりましょう。競争ね。

Photo_3

そうは云っても、正月気分は静かにやさしく
湧くのです。
1230日には、熊谷のちちははが餅をついてくれ、
わたしはそれを手伝いました。
さて、どんな三が日になりますか……

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