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2015年3月の投稿

2015年3月31日 (火)

イン・ザ・トレイン

 東京都庁に用事。
 最寄り駅でぽかんと口をあけて待っていた黄色い電車に乗りこむ。平日の午前9時半、鈍行、総武線の始発駅である。光差す座席に腰をおろし、スカートを整える。スカートでもっとも気を遣うのはこの場面、ひろがったスカートがお隣さんのお尻の下にゆかないようにする。
 膝の上で本を開く。
 高野文子の『ドミトリーともきんす』(中央公論新社)。不思議な学生寮「ともきんす」の2階に住んでいる4人は朝永振一郎(ともなが・しんいちろう)、牧野富太郎(まきの・とみたろう)、中谷宇吉郎(なかや・うきちろう)、湯川秀樹(ゆかわ・ひでき)だ。若き日の4人が、どのようにして科学の花を咲かせたかをドミトリーともきんすの寮母とも子さんの目を通して、たどってゆく。とも子さんの傍らには、ちっちゃなお嬢ちゃんきん子さんがいる。ふたり合わせて「ともきんす」。
G・ガモフコレクション①トムキンスの冒険』を著したジョージ・ガモフが、寮を訪ねてきて、表札「ともきんす」の「も」の字を見て、「MO?」と首を傾(かし)げる場面がある。
「ガモフさん。わたしはあなたの著書の大ファンです。ご本の題名を一文字変えて、ドミトリーの表札に拝借しました」
 と、とも子さん。

 現在、わたしとほとんどの行動を共にしてくれているこの本、なかなか手強い。ドミトリーともきんすはなかなか素敵で、うどんやお団子も出てくるし、珈琲も飲めるのだが……、むずかしい。むずかしいことが、やわらかいことばで語られているので、そこに惹かれてつかまっている。この手を離したら、わたしはもうこの先科学とは無縁のわたしになってしまう。

 ということは、不思議だと思うこと、観察すること、考えることと無縁のわたしになってしまうということ。

 開いた本から顔を上げると、電車は東中野駅にすべりこむところだった。

 ふと思いついた。新宿駅まで行かずに、この駅で大江戸線に乗り換えたらどうかしら。決して『ドミトリーともきんす』に飽きたのじゃありません。たしか、大江戸線に「都庁前」という駅があったはず。

 しかし、どうだろう。大江戸線の駅の、なんと深いこと。

 エスカレータを何本も乗り継いで、わたしはいつしか高速もぐらになり、やっとホームにたどり着く。電車内では扉脇のスペースを確保。立っているわたしのすぐ横の座席で、青年がもぞもぞ動いている。首にひっかけたネクタイを、結ぼうと一所けん命のただなか。
 観察するに、結び方はプレーンノットで、青年はネクタイの大剣を巻き目にうしろから通すところで苦戦している。まだ3月だが、おそらく彼は、すでに研修期間に突入の新社会人。ネクタイとは縁のない学生生活を送っていたため、ネクタイ結びに頭を悩ませているのだろう。結局、わたしが乗り合わせた3駅分のあいだに、ネクタイ姿は見られずじまいだった。
 このような必死の現場を、案外身近なひとは見られない。その代わりに、どこかの見知らぬおばさんが、手に汗握り、こころのなかで頓珍漢な声援を送ったりする……。
 大江戸線に乗ったのは正解のようだった。都庁前駅で下車し、地上に出ると目の前に東京都庁が聳(そび)えていた。
(聳え過ぎ!)
 さっさと用事をすませる。長居は無用。帰りは新宿駅まで歩くこととし、地上を走る黄色い電車の乗客となる。
 電車はすいており、立って吊り革にぶら下がるひとはいない。立っているひとも、扉脇の柱に寄りかかって外を見ている。
 わたしは座席に腰をおろして、スカートを……。
 のどかな真昼だ。膝の上で本を開く。
 若き日の朝永振一郎くんがこんなことを書いている。
                 *
 物を分析しないでぼんやりとしたまま考えて、考えをすすめていくことがしてみたい。これはけしからぬ怠け心かしらぬが。物理学の自然というのは自然をたわめた不自然な作りものだ。一度この作りものを通って、それからまた自然にもどるのが学問の本質そのものだろう。しかし、これではとらえられない面がものごとにはあるにちがいない。
  「滞独日記」(『朝永振一郎著作集 別巻 日記・書簡』みすず書房 所収)

                 *
 行きの車内で読んだときより、わかりがいいのは、東京都庁での用事のせいではない。きっと、大江戸線のなかでネクタイと格闘し、もう少しで自分の首を絞めそうにしていた青年の影響だ。ひとの一所けん命は粉のように降りかかって、よその誰かを活性化する。
 朝永振一郎は、ドイツのライプチヒ大学留学中にこの日記を書いた。研究者として生きる決心をしながらも、焦りと苦悩を内に抱えて。

 あとひと駅で、終点でもあるわが最寄り駅に到着というときだった。

 隣りの席の紳士が、いきなり、ゆるめていたカラダをぴんとのばした。居眠りから覚めたのだ。
「帰りに書店に寄っていいか。つきあってくれるか?」
 と云う。
(え、わたし?)と思いかけたが、そんなはずはない。隣りの紳士はねぼけて、きっと、わたしを自分の連れだと思ったのだ。それで、わたしは聞こえなかったことにして、黙っていた。
「どうする? 先に帰るか?」
 そう云って紳士は、わたしの顔を覗きこんだ。
 そのあとのことは、皆さんの想像のとおり。ひとのぼんやりが好物であるわたしの胸には、何とも云えない愉快なものがひろがった。

 科学あり、ネクタイあり、ねぼけあり。真昼の小教室のようなイン・ザ・トレイン。

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東京都武蔵野市の市立小中学校の卒業式は
おわりました。わたしの出席した卒業式は
どちらとも、すばらしくあたたかいものでした。
わたしは麻のワンピースで参列しました。
天然素材の、軽やかなものを身にまといたかったのです。

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ちょっとさびしかったので、
襟元にフェルトの花のブローチをつけました。

卒業の皆さん、ご卒業おめでとうございます。

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2015年3月24日 (火)

せんせい!

 あと1週間ほどで、今学年、2014年度が終わる。
 いまの年齢になって、この時期をこんな気持ちで過ごすことになろうとは、想像もしていなかった。
 教鞭をとるわけではないし、子どもたちに直接ことばをかける機会もほとんどないが、わたしは……いま、たしかに学校のひとだ。そうして胸のここには、せんせいがたくさん棲んでいる。

 わたしが教育委員をつとめる東京都武蔵野市には、小学校
12校、中学校6校、合わせて18校の市立学校がある。同じ東京都には、小学校だけで100校を超える区もあることを鑑(かんが)みれば、こじんまりとしたものである。
 18人の校長せんせい、18人の副校長せんせいのお顔と名前は一致して記憶しているだけでなく、その人柄、ちょっとした癖、雰囲気も何となくつかんでいる。1年通じて、一度も訪ねなかった学校はない(ただし回数にばらつきはある)。できるだけ学校行事を見学するようにしてきたので、それぞれの学校のムードも、何となくわかる。
 あのムードは、どこから醸されるものなんだろうか。まず地域性が挙げられるだろう。が、それだけではない。校長せんせいをはじめとする教職員、事務職員、つまり学校の大人たちのムードが影響しているのはまちがいない。もっと云えば、学校の大人同士の関係性が影響している。
 大人がいいチームをつくっている学校の子どもたちは、元気で、集中力があり、そしてどこかぼんやりしている。
 こんなことを云うと、「元気と集中力はわかるが、ぼんやりとは何事か」と、せんせいに詰め寄られるかもしれないが。
 詰め寄られたってかまわない。わたしはこう答えるだけだ。
「子どもは、どこかでぼんやりしたりゆるんだりしなければ生きられない存在です。それが実現しているという意味です」
「褒めことば、ですか?」
「もちろん、褒めことばです」

 わたしの子ども時代、せんせいはいまよりずっとずっと、ひとの前に聳(そび)える存在であった。好きなせんせいもそうでない先生もあったけれど、どちらとも堂堂としていて、怖かった。やさしくおもしろいせんせいに人気はあつまったけれども、人気者のせんせいも芯のところは硬く、子どものわたしたちを怖れさせるにじゅうぶんなものを持っていた。

 保護者(あの当時は父兄とか父母と呼んだ)も、せんせいに思ったことを「すぐに」、「直球で」投げるなんてことはしなかった。したくてもとてもではないができなかったのだ。
 ところがいまは、ちがう。まったくちがう。いい意味でもわるい意味でも、せんせいと保護者のあいだは近くなった。学校教育、学校行事を助ける保護者がいる一方で、せんせいに向かってとんでもない要求を「豪速球で」投げる保護者もいる。「保護者のことはあまり気にしないで、せんせい、のびのびやってくださいよ」と何度云おうとしたかわからないが、はなしはそう簡単でない。どうやら、保護者との関係性というのは、学校経営のひとつの要(かなめ)になっているらしい。

 教育委員になってからの
2年半のあいだ、せんせいのお顔が浮かぶたび、学校を考えるたび、「せんせい方がきょうも無事に、そしてできるかぎり明るく、願わくはのびのびと過ごせますように」と胸のなかで唱えるようになっている。
 学校の主役は、子どもだ。子どもたちの無事と佳き学校生活が主題であるが、それはわかっているが、せんせい方の健康と無事と、やる気と手腕なくして、それは成り立ち得ないから、一所けん命唱えるのだ。

 せんせい! 元気で
1日過ごしてください。
 せんせい! でき得る限りのびのびやってください。
 せんせい! 日に一度はぼんやりしてください。

 小学
2年のときのはなしを聞いていただいても、かまわないだろうか。
 大好きなせんせいとわたしのあいだに事件は、起きた。
 運動会(わたしの学校では「体操会」と呼んだ)の練習のときのこと。広い広い芝生(「大芝生」という名の広場。約5000㎡)の上で、わたしたちは行進の練習をしていた。それまで小学校の校庭でしていた練習を、本番の体操会が行われる大芝生でできるよろこびで、胸ははち切れそうだった。
 はち切れそうな胸を空に向けて、わたしは一所けん命行進した。腕を大きく振り、腿(もも)を上げて。音楽にも気をつけ、リズムに合わせることも忘れなかった。「ああ、生きてる!」と子どもごころに思う。
 そのときだ。「大芝生」を取り囲む土手(ここもまた芝生だった)から、わが担任のせんせいが駆け下りてきた。いつもはやさしいQせんせいは血相を変え、何事かに向かって必死で走ってくる。わたしはと云えば、Qせんせいの期待を裏切らぬためにも、行進をつづけている。
 いきなり腕をつかまれた。
 Qせんせいはわたしの腕をつかむために、血相を変えて走ってきたのだ。
「どうしたの。ふざけないのよ」
 ふざけてなんかいなかったのだが、わたしは「はい」と頷いて、Qせんせいのされるままになった。行進の列からひっぱり出され、「ちゃんとしなさい」と云われ、30秒くらいのちわたしはふたたび行列にもどされた。胸は張り裂けそうだったが、がまんしてまた行進をつづける……。
 幼かったわたしにも、すぐとわかった。
 腕を大きく振り、腿を上げて行進するわたしが、Qせんせいにはふざけているように見えたのだ。わたしはふざけていたのではなく、張りきって、いや張りきり過ぎていただけだ。
 それはわたしにしたら大事件だった。
 が、なぜだかわたしはQせんせいに云いわけもしなかったし、せんせいを嫌いにもならなかった。好きでいたかったために、そのことはなかったことにしたかったのだろうか。たぶん、そうだ。
 同時にわたしは、ひとは時として誤解する存在だということを知ったのである。思い深く冷静なQせんせいでさえそうなのだから、これから先も似たようなことは起こるだろう。それでいい。誤解になんか負けるもんか。

 遠い日の記憶を、思わず書き連ねてしまったが、その上でわたしは云いたい。

 せんせいとは、じつにじつに苦労の多い職業だ。忙しく、ストレスもかかる。時代が変わっても、聖職と呼ばずには釣り合わぬ立場だと、わたしは思う。

 武蔵野市のせんせい! 

 全国のせんせい! せんせい!
 1年間、どうもありがとうございました。

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東京には323日、桜の開花宣言がなされました。
24日の朝、近くの公園へ見に行ったらこんなふうでした。
卒業の皆さん、入学の皆さん、
学校のせんせい方のための桜でもあります。

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2015年3月17日 (火)

ブサイクシーサー

 靴を履こうと身をかがめる瞬間。菜箸をとろうと手を伸ばす瞬間。玄関先の郵便受けを覗く瞬間。「ああ、春なのね」と木の梢に向かって手をかざす瞬間。
 そんな何気ない仕草の途中、とつぜん、ぎゃっと叫びそうになることがある。
 わたしを「ぎゃっ」と叫ばせるのは、過去の失敗、落度、過ちだ。

 あのとき、わたしはあやまらなかった。

 あのとき、わたしは感謝の気持ちを伝え損なった。
 あのとき、あんなことをしなければよかった。
 あのとき、もっとよく考えてから決断するべきだった……。

 こうした類いの反省のうちのひとつがいきなり飛びだして、それが火種となるのである。火種がはじけて、「ぎゃっ」となる。「ぎゃっ」をくり返しくり返ししながら、わたしはここまできた。長いことずっと、さまざまの火種にびくびくさせられてきたのだ。もう少し自分が思い深く、慎重であったなら、そんな火種に脅かされずに生きてこられたのではあるまいか。そういう思いが湧く。

 一方では、現実の生活がつづいており、おそらく自分はいまもまた火種をつくりながら生きているのだろうなあという疑念も、つよく湧く。これでは、この先火種に責めまくられて、わたしにこころ穏やかな晩年など訪れやしない……。「ぎゃっ」「ぎゃっ」「ぎゃっ」と小さく叫びながら跳ねている、落ち着きのない老婆が、先で手を振っているのが見える。……ぎゃっ。

 最近のことだが、沖縄県から小さな荷物が届いた。

 三女宛てだったので、本人が戻るのを待って、荷を解いた。「ああ、あれがきたんだね」と云う三女を押しのけるようにして。小さいが、厳重な荷造り。急く気持ちをおさえおさえてクッション材をむしるようにし、なかから取りだしたのは……、「なんじゃ、こりゃ」。
「なんじゃ、こりゃって、見ればわかるでしょう。シーサー」
 ことし1月に修学旅行先の沖縄県で、体験したシーサーづくりの結果が、ひと月たって届いたということらしい。その顔を見て、ぷっと吹いてしまった。おそろしくブサイクだ。だが、どこか惹きつけられるものがあって、吹きながらも見入っている。ひと月前にこしらえたブサイクシーサーが、こうして届く。
 このことがなぜだろう、自分のなかに無数に蠢(うごめ)く火種を思わせる。わが火種が、自責の念であることに気がついたのである。

 ——ああ、わたしは自責の念に「ぎゃっ」「ぎゃっ」とやられていたのだな。

 
 自責を抱えた自分が可哀想になる。

 しかし、同じ自責がわたし自身のかなり大きな支えになっているような気がしてきたのだった。そうだ、そうだ。思い深さをわがものにすることかなわず、慎重と無縁な道を選んできたわたしにとって、自責の念は神聖なものではなかったか。
 三女のこしらえたシーサーがおどけた顔でおしえる。
 ——昔の失敗は、魔除けになるよ。自責は、お守り。

Photo
ブサイクシーサーの顔部分。

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2015年3月10日 (火)

滞在3時間の旅

 ヒースロー空港も、乗ったはずの地下鉄も、トラファルガー広場も、記憶には残っていない。

 気がつくとわたしは磨きあげられた木目の立った床の上に、いる。暗いようでいて明るく、光が静かに、効果的に集められている。明る過ぎる日常から逃れられた心地よさから、いっそ眠ってしまおうかと、脳がその方面に誘おうとする。が、だめだ。眠ってはだめだ。わたしはひとつの決心のもと、ここ英国はロンドンのナショナル・ギャラリーにたどり着き、今し方、館内を歩きはじめたばかりなのだ。

 靴音と、人いきれ、衣擦れの音のあいだを縫うようにゆくと、ツアーガイドなのか、学芸員なのか、能弁な女性がはなしをはじめるところだった。ホルバインの「大使たち」(1533)の前の人垣のうしろから、わたしはそっと聞き耳を立てる。同名で同じく画家でもあるホルバイン父子の、子の作品である。ふたりの男の肖像画だ。フランス大使としてイギリスに赴任したジャン・ド・ダンドヴィル(29歳)と、その友人で司教のジョルジュ・ド・セルヴ(25歳)。ふたりのあいだには、地球儀、リュート、書物が置かれている。そして……、この肖像画の前面下部に、不可思議な何かが見える。
 ガイドの説明によると、その何かは歪絵(アナモルフォーズ)であり、まっすぐ見ると正体不明だが、ある角度から見ると頭蓋骨があらわれる。
「骸骨は死を暗示している。死は隠れているが、常にそこにあるのです」
 ああ、このことばは贈りものだ。光がわたしの頭の上に降ってくる。
 ——死は隠れているが、常にそこにある。
 しばらくゆくと、また、降られた。
 ——台所には、神が宿る。
(どんな絵についてのガイドの説明だったか、おぼえがない)。

 あろうことかわたしは、通常目にすることのない館内の掃除風景、花を生ける職人の仕事、展覧会の企画をめぐる美術館スタッフの議論、修復家の仕事、額縁の制作風景まで覗いてしまった。

 鑑賞の人びとの横顔も、まじまじと観察。

 さてこの日。わたしはナショナル・ギャラリーを見学したのち、夕方には自宅にもどって、台所で鰺を塩焼きにした。同じくナショナル・ギャラリー帰りの夫に、わたしはこう声をかけている。

「大根をおろしてくれる?」
 すべてはドキュメンタリー映画の巨匠フレデリック・ワイズマン監督のおかげでかなった、滞在3時間の旅であった。ドキュメンタリー映画「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」。
 夫(ドキュメンタリー映画の作り手)から聞かされていたワイズマン監督のナレーションなし、インタビューなし(ワイズマンは現場で語られるもののみ記録する)、説明字幕なし、音楽なしの手管にやられた。時空を超え、ナショナル・ギャラリーへの旅へ、すとんと落ちたのだった。
 もうひとつ記しておきたいことがある。
 映画に登場する「変身物語 : ティツィアーノ2012」2012711日〜923日)でのウェイン・マクレガー振付「Machina」を英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパル、エドワード・ワトソンとリアン・ベンジャミンがティツィアーノの絵の前で踊るシーンに、つかまれた。舞踏家笠井叡が踊ったなら……と、想像をふくらませながら観た。
 この踊りの場面は、自分がこの世から去る瞬間、パッと脳裏をよぎるかもしれない。

「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」

 NATIONAL GALLERY
2014年ヴェネチア国際映画祭 栄誉金獅子賞(フレデリック・ワイズマン)受賞記念
2014年カンヌ国際映画祭監督週間正式出品 

 

Photo

ショナル・ギャラリーへの旅の翌日、
二女がわたしの実家から譲り受けたエインズレイ(英国/窯)の
ティーカップで、紅茶を飲みました。

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2015年3月 3日 (火)

カタツムリ

 ヒサコさんと新宿の地下道をゆっくりゆっくり歩いている。
 わたしたちの先方からも後方からも、黒い服を着たひとの波が寄せ、波はわたしたちを取り残すかたちで、交叉する。
 波にのらず取り残されたヒサコサンとわたしは、カタツムリになった。
 そうなったからには、右足も左足もないのだから、するりするりと這ってゆこう。
 このごろ、ふたりならぶといつの間にか「読む」はなしになる。本のことというより、「読む」ことについてあれこれ話す。読みたい読みたい、読まなければ読まなければ、と。
 たとえば漠然とだが、新宿の地下道を移動するそこらじゅうの黒い服のポケットに、本をねじこんでみたい気持ちもある。誰も彼もが【すまーとふぉん】というものをとり出して、ここではないどこかへ行こうとするのをそれで止められるかしら。
 読書が向かわせるのも、ここではないどこか。そしてそこには書き手がすっくと立っている。対話がはじまる。ページを繰りながら語りあうだけで、創造の世界がひろがってゆく。
 また、本を開くたび、あたらしい対話がはじまる。
「書くことは、読むことなんじゃないかと思いはじめている」とわたしが云うと、ヒサコサンはうれしそうに頷いて、足を止める。
「『読む』を取り戻さないと、ね」
 そうヒサコサンは云うと、歩きはじめる。いや、這うのだった。つられて立ち止まったわたしも、一緒に這うのである。取り残されてゆくよろこびがぬらぬらと身を包むようだ。
 大事なものを取り戻せるなら、いくらでも取り残されましょう。カタツムリにだってなります。
 カタツムリ……。
 わたしは子ども時代も、半分カタツムリだった。子どものわたしは、何度も何度も、読む側の母がいやになるほど何度もねだって同じ本を読んでもらった。何度も同じ本の読書感想文を提出して、何人かのせんせいから「本はいろいろ読んだほうがよいですね」と注意を受けた。
 いろいろ読むには読んだのだが、感想となると、『オッペルと象』(宮沢賢治)のが書きたくなるのだった。中学3年のとき、とうとう原稿用紙50枚の感想文を書き上げた。中学3年の3学期も終わり近いころだった。提出して、もどってきたのを見たら、50枚めの余白に赤いペンでこう書かれていた。
「もう少し簡潔に」
 ああ、とわたしはため息をついて、そこで『オッペルと象』にこだわって読書感想文を書くのをやめにした。
 そのときの感想文はもう残っていないけれど、あの読み方は、わるくなかったのではないかと、その後もときどき自分に向かって云い聞かせた。

 地下道につづいた
JR新宿駅の改札口を入ろうとする少し前、ヒサコサンは立ち止まって、提げ袋のなかをさぐっている。Suicaをさがしているものと思って待っていると、提げ袋から文庫本の頭をちょっと覗かせるようにして、「これ」と云う。
「あ」
 思わず声が漏れた。
 そっとひっぱり出されたのは『いのちの初夜』だった。
 ヒサコサンが「これ、知ってる?」と遠慮がちに云ったとき、わたしは、泣き出さんばかりだった。なかなかひとに認めてもらえない自分のいいところを褒めてもらったような気持ちだった。
『いのちの初夜』こそはまちがいなくわたしの愛読書であり、「師」と呼ぶにふさわしい本だ。
                 *

 まだ蟬の声も聞こえぬ静まった中を、尾田はぽくぽくと歩きながら、これから後自分はいったいどうなって行くのであろうかと、不安でならなかった。真黒い渦巻の中へ、知らず識らず堕(お)ち込んで行くのではあるまいか、今こうして黙々と病院へ向かって歩くのが、自分にとっていちばん適切な方法なのだろうか、それ以外に生きる道はないのであろうか、そういう考えが後から後からと突き上がって来て、彼はちょっと足を停めて林の梢(こずえ)を眺めた。やっぱり今死んだ方が良いのかもしれない。梢には傾きはじめた太陽の光線が若葉の上を流れていた。明るい午後であった。
                 *

『いのちの初夜』に収録された表題作の、はじめのほうの数行。病気の宣告を受けて半年、とうとう主人公の尾田は、癩(らい)病(当時は、ハンセン病という呼び方はなかった)の病院に向かっている。

 悲しい。だが、悲惨ではない。
 この小説はわたしに、悲しみの価値を……、悲しみが惨めなものでないことをおしえた。悲しみを経験することによって知る生きる意味、与えられる慈しみのこころに目を向けよ、こころを寄せよとのささやきを聞いた。

「すごいとしか云いようがない。そしてうつくしい。久しぶりに読んだのだけどね」

 ヒサコさんは云う。
 本をつかんでいるヒサコサンの手に触れ、わたしは誓うこころになる。
「この本を、伝えるのはわたしのひとつの役目と思っているんです、じつはね。若いひとに、出合うべきひとに出合わせてあげたくて。宣伝マンの力が足らなくて、ときどき滅入りますが」
 こうしてひととひとは、1冊の本を通して、共通の作家、それももうすでにこの世にはない作家との対話のなかであらためて出会うことができる。
 ヒサコサンとともに読んでみたい本があとからあとから湧いてくる。
 カフカも読みたい。ゲーテも読みたい。北条民雄も、そして柳宗悦も。カタツムリの読書会だ。

Photo

『いのちの初夜』(北条民雄/角川文庫)
北条民雄は1937125日、東京府下東村山(現在の東京都東村山市)の
国立療養所多磨全生園で、24歳の生涯を終えた。
病院に入院した最初の1日を書いた表題作は、
書かなければならない作品だったと、北条民雄は書き残している。
「僕には、何よりも、生きるか死ぬか、この問題が大切だったの
です。文学するよりも根本問題だったのです。(中略)でも、もう
根本問題は解決いたしました。これからは生きることは書くこと、
そうなろうと思っております……」(あとがきより)
この作品は独訳英訳により、海外にも大きな影響を与えている。

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