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2015年3月10日 (火)

滞在3時間の旅

 ヒースロー空港も、乗ったはずの地下鉄も、トラファルガー広場も、記憶には残っていない。

 気がつくとわたしは磨きあげられた木目の立った床の上に、いる。暗いようでいて明るく、光が静かに、効果的に集められている。明る過ぎる日常から逃れられた心地よさから、いっそ眠ってしまおうかと、脳がその方面に誘おうとする。が、だめだ。眠ってはだめだ。わたしはひとつの決心のもと、ここ英国はロンドンのナショナル・ギャラリーにたどり着き、今し方、館内を歩きはじめたばかりなのだ。

 靴音と、人いきれ、衣擦れの音のあいだを縫うようにゆくと、ツアーガイドなのか、学芸員なのか、能弁な女性がはなしをはじめるところだった。ホルバインの「大使たち」(1533)の前の人垣のうしろから、わたしはそっと聞き耳を立てる。同名で同じく画家でもあるホルバイン父子の、子の作品である。ふたりの男の肖像画だ。フランス大使としてイギリスに赴任したジャン・ド・ダンドヴィル(29歳)と、その友人で司教のジョルジュ・ド・セルヴ(25歳)。ふたりのあいだには、地球儀、リュート、書物が置かれている。そして……、この肖像画の前面下部に、不可思議な何かが見える。
 ガイドの説明によると、その何かは歪絵(アナモルフォーズ)であり、まっすぐ見ると正体不明だが、ある角度から見ると頭蓋骨があらわれる。
「骸骨は死を暗示している。死は隠れているが、常にそこにあるのです」
 ああ、このことばは贈りものだ。光がわたしの頭の上に降ってくる。
 ——死は隠れているが、常にそこにある。
 しばらくゆくと、また、降られた。
 ——台所には、神が宿る。
(どんな絵についてのガイドの説明だったか、おぼえがない)。

 あろうことかわたしは、通常目にすることのない館内の掃除風景、花を生ける職人の仕事、展覧会の企画をめぐる美術館スタッフの議論、修復家の仕事、額縁の制作風景まで覗いてしまった。

 鑑賞の人びとの横顔も、まじまじと観察。

 さてこの日。わたしはナショナル・ギャラリーを見学したのち、夕方には自宅にもどって、台所で鰺を塩焼きにした。同じくナショナル・ギャラリー帰りの夫に、わたしはこう声をかけている。

「大根をおろしてくれる?」
 すべてはドキュメンタリー映画の巨匠フレデリック・ワイズマン監督のおかげでかなった、滞在3時間の旅であった。ドキュメンタリー映画「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」。
 夫(ドキュメンタリー映画の作り手)から聞かされていたワイズマン監督のナレーションなし、インタビューなし(ワイズマンは現場で語られるもののみ記録する)、説明字幕なし、音楽なしの手管にやられた。時空を超え、ナショナル・ギャラリーへの旅へ、すとんと落ちたのだった。
 もうひとつ記しておきたいことがある。
 映画に登場する「変身物語 : ティツィアーノ2012」2012711日〜923日)でのウェイン・マクレガー振付「Machina」を英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパル、エドワード・ワトソンとリアン・ベンジャミンがティツィアーノの絵の前で踊るシーンに、つかまれた。舞踏家笠井叡が踊ったなら……と、想像をふくらませながら観た。
 この踊りの場面は、自分がこの世から去る瞬間、パッと脳裏をよぎるかもしれない。

「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」

 NATIONAL GALLERY
2014年ヴェネチア国際映画祭 栄誉金獅子賞(フレデリック・ワイズマン)受賞記念
2014年カンヌ国際映画祭監督週間正式出品 

 

Photo

ショナル・ギャラリーへの旅の翌日、
二女がわたしの実家から譲り受けたエインズレイ(英国/窯)の
ティーカップで、紅茶を飲みました。

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「日記」カテゴリの記事

コメント

ふんちゃん皆様こんにちは。

旅のお話素敵ですね。
特に言葉が降りてくる場面
なんだか幻想的な気分になります。


私の旅はもっぱら本の旅です。
本の中に行ってリフレッシュして帰ってくるのです。
そして一番古い小学生の時に買った本は
今でも私のことを支えてくれます。


そして何度も読んでも響かなくなってしまった本は私から旅たってもらいます。


本を読むのはリフレッシュと
整理整頓、いろいろは面をもっていますね。

投稿: たまこ | 2015年3月10日 (火) 12時44分

ふみこさま

前回が本との対話だとすると、今回は映画監督との対話でしょうか

この映画は見てませんが、ワイズマン監督の
すべてが複雑で曖昧であること。。。

というようなコメントを何かのインタビューでみて
なぜかほっとしたのをおぼえてます

見る側の力量がとわれているかなと。。
いろいろな体験をしてみえてくるものがあるのだろう

そう思うとすべての経験が大切に思えてきました
だから何回も何回も行きたくなる世界があることも。。


ヒースロー空港でオックスフォード行きのバス探して
一時間もうろうろした事もついでに思いだしました

ふみこさまのおかげでわたしも旅気分。ありがとうございました。

投稿: 真砂 | 2015年3月10日 (火) 17時20分

こんばんは。

映画の旅ですね。お帰りなさい。

私はこれから 本の旅に出ます。

『いのちの初夜』が 手元に届きました。


ゆっくりと 長い旅になりそうです。

こちらで知ることがなかったら 出会わなかった旅かもしれません。


じっくりと。行ってきます。

投稿: まきはや | 2015年3月10日 (火) 21時24分

たまこ さん

一度旅立っていったかに見える本と、
またいつか出会い直しをすることも
ありますね。

同じ本を3回買う、というようなことも
少なからず経験しています。
「本を買う」だけは、
自分に制限をかけてないんだ、わたし。

投稿: ふみ虫 | 2015年3月11日 (水) 09時07分

まきはや さん

おおおお。
いっていらっしゃい。
戻ったら、おしえてくださいね。

投稿: ふみ虫 | 2015年3月11日 (水) 09時08分

真砂 さん

すべての経験が大切になる。
ほんとうにね。

そのことが人生の意味だと、
思えます。

投稿: ふみ虫 | 2015年3月11日 (水) 09時10分

ふみこさま、みなさま、こんにちは

こんな愉しい旅のしかたがあった!と教えていただきました。ありがとうございます。

私も2月に、徳島県鳴門でタイムマシンに乗った世界一周旅行をしてきたところです。
バチカンから、ギリシア、ベネチア、ルーブル、NY・・・

それは、目の回る思いの旅でしたが、
とある方から、ニセモノもあそこまで集めれば圧巻!と教えていただき、
なるほどと、帰国してから納得したのでした。

次は、じっくりナショナル・ギャラリーですね。

投稿: ちぇりー | 2015年3月11日 (水) 12時45分

ちぇりー さん

そうなの、そうなの。

旅に出かけられない。
あれもない、これもない、
時間も何も……!というのは、あまりにも
残念で。

わたしたちは旅ごころも持っているし、
想像力も!ね。

投稿: ふみ虫 | 2015年3月11日 (水) 13時26分

ふみ虫さま

旅する心があれば
映画も読書も旅になりますね。

息子たちが高校を卒業し
それぞれの友達と
一泊二日、二泊三日の
旅の真っ最中です。
たのしそうに連絡がきます。

エインズレイの鳥が描かれた
ティーカップ、うちにもあります。
紅茶、ときどき
ショウガ湯になるときも…

投稿: 寧楽 | 2015年3月11日 (水) 16時36分

ふみこさま、みなさま

たびたび失礼します

旅立ちといえば、うちの娘も高校卒業しました
大学も無事合格し、四月からのあたらしい世界

わくわくする暇もなく最後の定演の練習に出かけていきました

ささえていただき嬉しかったです

投稿: 真砂 | 2015年3月11日 (水) 18時24分

ふみさまみなさまこんばんは

素敵な3時間の旅でしたね~
私もともに言葉の光のシャワーを一緒に浴びさせていただきました。
本当に本や映画は自分をあっというまに未知の世界に連れ去ってくれますよね。日常にいっぱいいっぱいだとそんな素敵なことを先送りばかりしてしまい、ついには手に取ることさえなくなって、それでも平気でいたのですが、入院によるオフ時間をいただいたため、そのなんとも素敵な時間の過ごし方を思い切り思い出させていただいたところです。
仕事復帰で早くもぐったりしていた2週間でしたので先日のオフ日に与論島が舞台の映画をのんびり楽しみました。106分の旅でたそがれてきました。

次はふみさまツーリストおすすめのご本や映画で癒されたいです。

そして次の日の素敵なお茶の時間も楽しもっと

投稿: おきょうさん | 2015年3月11日 (水) 22時53分

ふんちゃん、みなさま、こんにちは。


映画を映画館で観たのはもうだいぶ昔のことになります。
あの空間自体が、また違いますよね。
異空間。
最近、どうしても観たくて、『太秦ライムライト』をDVDでですが観ました。
珍しく。
ぼくは普段あまり映画を観たいとはおもいませんし(観たくないともおもいませんが)、邦画は物足りないなぁというものが多いので、ことに邦画は積極的に観たいとおもうことはあまりありません。
が、どうしても観たいとおもいました。
ふんちゃんはもうご覧になったかもしれませんね。多分、お好きだろうとおもいました。
福本清三さんの佇まいに胸を打たれました。
福本清三さん自身の歴史や、時代劇の歴史がかんじられて。

ある意味ドキュメンタリーでもあるようにおもいました。
フィクションだからこそ描ける真相が、あるような気がします。

投稿: 佐々木広治 | 2015年3月12日 (木) 19時42分

寧楽 さん

ええ、ええ。
旅ごころさえあれば、
暮らしそのものも、旅になるのじゃないでしょうか。
常常「旅するように暮らしたい」と、
希っています。
(すると、どこへ帰るのかと突っ込まれますが、
そりゃ、「あの世」ですと、思うんです)。

とはいえ、
王子さま方の旅。
わくわくしますね。
それぞれのご友人とね……。
ほんとうに、高校生活ご苦労さまでした、
と申し上げたいような。
佳い春です。ね。

投稿: ふみ虫 | 2015年3月13日 (金) 10時39分

真砂 さま

おめでとうございます。
おめでとうございます。

定演に間に合うように進路が決まり、
なんて素敵。
がんがん練習して、未来を響かせて!

投稿: ふみ虫 | 2015年3月13日 (金) 10時41分

おきょうさん さん

映画「めがね」をなぜかとても好きで、
DVDを持っています。
なぜか……というのはおかしいですね。
登場人物が、じゃらじゃらモノや関わりを
持とうとしないところが好きです。
おいしそうな食べものも、風景も、
小豆を静かに煮る場面も、みんな好き。

わたしも、今夜あたり行こうかな。

おきょうさん、
おきょうさんは現実に、一所けん命の旅をから
もどられたばかりなのですから、
(そのご経験を生かし)、
この先も、与論島への旅のような機会を
いっぱいつくってくださいね。

わたしもつくります。

投稿: ふみ虫 | 2015年3月13日 (金) 10時59分

佐々木広治 さま

「太秦ライムライト」
観ていません。
観ます。

そうか、わたし、好きそうか。
と聞くだけでわくわくします。
広治さんがそう云われるのなら、とね。


投稿: ふみ虫 | 2015年3月13日 (金) 11時15分

ふみこさま みなさま
こんにちは。

私も 館内をコツコツ、歩いているような気持ち。

旅とはちがうかな、、なんだか、ここのみなさまとまだまだ一緒に居たくて、2011年頃からのうふふ日記を読み返しています。
ふみこさんや みなさんと お喋りを楽しんでいます。。ほっとするのです。

投稿: かずよ | 2015年3月13日 (金) 19時08分

ふみこさん おはようございます

良い旅ですね。
私も (もっぱらテレビで)旅をします
国内旅行なら NHKの新日本風土記
海外旅行は NHKプレミアムの 世界で一番美しい瞬間(とき)

昨日 寝台特急北斗星のラストランでした。
札幌から上野に向かう最後の姿を見て
涙が出ました。
なぜかとういと 「いつか 北斗星にのって旅をしたい」と
ずっと思っていたんです。
いつか・・・いつか・・・と思っているうちに
北斗星のラストラン。
悔し泣きです(笑)

追伸・・・・昨日 駅で電車を待っていた時 ふきのとうを見つけました!! 

投稿: えぞももんが | 2015年3月14日 (土) 06時41分

かずよ さん

コツコツ館内を……。

そう書いていただき、
あわてて、床を走り拭き
(小学生がならんで、しゃがみ、
腰を上げて拭き走るあれです)している感じ。

ほっとする。

これ以上うれしいことばが
あるだろうか、と思っています。

ありがとう……ございます。

投稿: ふみ虫 | 2015年3月14日 (土) 11時22分

えぞももんが さん

「いつか北斗星で旅したい」と
ずっと思っていたんです。
いつか、いつかと思っているうちに
北斗星のラストラン。

まったく同じ。
でも、かなっていたとしたら、
そのときは(そんなときにかぎって)、
えぞももんがさんとわたし、どこかで
勢いよくすれちがっていたかも……。

つぎ、こんなこと(夜汽車にかぎらず)があったら、
きっと、実行しよう。ね。


投稿: ふみ虫 | 2015年3月14日 (土) 11時45分

ふみこさん、みなさん
 こんにちは。
 旅、旅‥‥‥と頭の中に転がしていました。
ぽこんと思い出した風景のことを書かせてください。幼稚園の頃、風邪をひいて遠足をお休みした私。お昼になって、母が職場(自転車で5分くらい)から戻り、(おばあちゃんもいたのですが)一緒にごはんを食べたのです。私にはお弁当で、部屋の中に敷物をひいて、周りに絵本を何冊か拡げて立てて。

尻切れトンボですみません。

投稿: cohata | 2015年3月14日 (土) 15時27分

ふみこさま みなさま 

こんばんは。

今日は北陸新幹線の開通のニュースでにぎやかです。
東京金沢がずいぶん近くなったみたいですが、実際には、同じ距離。。。
短くなった分、旅先での楽しみが増えるのでしょうね。
でも、短くなった分何かを失くしてしまったようにも思えたり。。。

各地の新幹線の陰でそっと姿を消していく列車たち。そんな列車に乗ったことを思い出しながら、自分だけの旅を楽しみたいものです。

わ!「めがね」私も大好きです♪

投稿: かえるのしっぽ | 2015年3月14日 (土) 18時28分

ふんちゃん

 大学生の頃…、親戚のおじいちゃんをスウェーデンまで送り届けるという役を与えられ、その帰りに、一人イギリスに寄って帰ってきたことを思い出しました…。
 英語もままならず、本当に心細い旅行でした。
 どうしても、ナショナル・ギャラリーのゴッホのひまわりが見てみたかったのです。母が大好きな絵だったので、代わりに見てくるからね!という勢いで行ってきました。
 心細くって、一人涙しながら、わざわざ、ロンドンにある日本のデパートに行き、鉄火巻きを食べた私(^。^;)
 そんな情けない旅でしたが、ナショナル・ギャラリーは本当に充実した気持ちでした。
 そしてね、私は、そういうところのトイレに入るのが愉しみでした。
 それぞれすごく雰囲気が違うのです。今まで入ったトイレで一番素敵だったのが、ノルウェーのオスロにあるムンク美術館^m^
 もう、しばらく国外にはいけないなぁと思っていたので、なるほど!そういう旅があったのか!と、発見しました(*^。^*)

 そして…、ご報告です。うちの中の嵐…。予想以上に小さく、温帯低気圧に変わりました。夫の下支えのおかげが大きいようです。
 私は…、情けないので、やっぱりちょっと巻き込まれてしまい、表情がなくなってしまったと言われましたが、それでもね、いつもよりも、ココロは軽く、どうやったら愉しめるだろう?と考える気持ちの余裕ももてたような気がします。
 これは、おそらく「やさしいタネ」です。
 ふんちゃん!ありがとうございます。おかげで、小さなタネを探すという心もちになれて、見つけることができました!(^^♪
 感謝の気持ちでいっぱいですm(__)m

投稿: もも(^-^) | 2015年3月14日 (土) 20時44分

cohata さん

何とうつくしい光景。
その思い出を持っていたなら、
それなりの人生を歩まなければ……というほどの
「その日」だったのではないかと思われます。
(脅すような書き方をして、ごめんなさい)。

一見「負」と見える事柄の受けとめ方を
おしえられる思いです。
この時期に、書いてくださって、
どうもありがとうございます。

投稿: ふみ虫 | 2015年3月15日 (日) 10時36分

かえるのしっぽ さん

短くなった分、
何かを失くしてしまったようにも思えるというのは、
ほんとうに同感です。

新幹線も相当な速さですが、
この上さらに速い汽車は、いらないなあ……
と思ってしまう……。
さからって、ぬらりぬらりと這ってゆこうかと
考えています。

投稿: ふみ虫 | 2015年3月15日 (日) 10時39分

もも(^-^)さん

そうそう、そういう旅もある!

わたし、この先、こんな旅をたくさんみつけたいと
思っているのです。

素敵な旅の思い出を、ありがとう!
それも、わたしの旅の記憶にひらりと重なりました。
ムンク美術館のトイレットね。

やさしいタネが蒔かれたこと、
おめでとうございます。
よくやりましたね! 拍手拍手。

投稿: ふみ虫 | 2015年3月15日 (日) 10時43分

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