尻尾
とうとう、見えた。
駅からすたすた歩き、うちまでのさいごの角をまがったとき、道の向こうにゾロリとそれが見えた。
かたちは、そうだ。尻尾。思いのほか太いという感想は例年通りだが、ことしの尻尾には鱗(うろこ)が光っていた。未練とはちがう。まだまだ、やり残したことがあるのだと主張するような、光り方だった。
ふわっと、昨年の夏の記憶がよみがえる。
父のいない初めての夏だった。
父の死後ひとり暮らしになった母は儚気(はかなげ)で、いまにも崩れ落ちそうだったが、「わたしにはさびしがり、よろよろとひとりで暮らす権利があります」と云わぬばかりの……気を静かに発していた。
35分間自転車を漕ぎ、母のおかずをつくりに通う日日。
「お母ちゃま、野菜も食べなくちゃだめよ」
「そうね。食べるわね」
「お母ちゃま、夏のはじめに植えたミニトマトに実がついた! 」
「あら、かわいいわねえ」
「お母ちゃま、たまには鰻を食べよ。鰻屋さんにひとっ走り行ってくるね」
「あ、じゃあ、お父ちゃまの分もお願い」
「え。(ああ、お供えね)」
それがわたしの昨年の夏の記憶だ。
しかし、道の向こうに夏の尻尾が行くのが見えたいま、ことしの夏を省みずにはいられない。暑い夏だった。
尻尾を追いかけ、尻尾の先のほうに向かって「お手柔らかに」と声をかけようか。が、わたしはそうしない。用事を片づけての帰り道のこと、少少くたびれてもいたし、手に荷物を提げている。そうでなくても、わたしは追いかけたりしないのかもしれない。
なぜと云って、「お手柔らかに」と声をかけたところで、どうともならないのを知っているからだ。「お手柔らかに」とは、残暑のことだが、子どものころには、同じような場面で「もう少しゆっくり行って!」と叫んだものだ。そのこころは、夏休みが名残惜しくてたまらなかったからでもあり、宿題が終わっていなかったからでもある。
あの頃も、どう叫ぼうと同じだった。
ゾロリと這ってゆくそのものの正体にも、決められはしないのだろう。夏には、それぞれの去り方がある。
見送り方もまた。
最低限のことしかできない夏だった。みずからを励まし、ときにはお世辞までつかって(アナタナラ、デキル!などと)ひとつひとつ最低限を片づけた。しかし、ルーティーンに埋もれそうになりながら、ルーティーンの至福に気づくことのできた夏だった。
朝顔の花の数にうかれるわたし。昼には何を食べようかと思いながら仕事をしているわたし。蟬の声を聞いてもこころが踊る。
旅がしたい。書きたくてたまらない。ワードローブを見直そう。このような求めが、ルーティーンのなかから生まれている。
夏の尻尾を見た翌朝は、おどろく涼しさに変わっていた。
そう云えば、昨夜の秋の虫の合奏はすばらしかった。
8月△日
今夏は飲みものに一所けん命になりました。
まずは梅シロップ。
梅のちからが、暑さ負けから救ってくれました。
ありがとうありがとう。
熊谷でのブルーベリー摘みのあとにこしらえた
ブルーベリージュース。
友人の旅のお土産・極上中国茶。
さんぴん茶やごぼう茶。
夫担当の珈琲、二女担当の紅茶。
わたし担当の新茶も。
ところが本日、とんでもないことに気づきました。
「ことし、麦茶を飲んでいない!」
あわてて麦茶を買ってきて、湧かして飲みましたとさ。
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