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2015年9月の投稿

2015年9月29日 (火)

通路

 末娘18歳の誕生日が翌日に迫っていた。
 が、ほんとうは、忘れていたのだ。末娘のひとつ上の姉にあたるKがぽつりと云う。
「どうやって祝おうか、明日(あす)」
 どうやって、って、何を? と思った、わたしときたら。しかし、口にはしなかった。黙っていて、時を稼いだ。
するとKが「18歳ともなれば、ほら、もう、選挙権もあるひとということだから」と云う。
 ぎゃー、三女、18歳かー。
 慌てた。

 同時に、自分の至らなさのようなものが、どっと押し寄せた。子の誕生日を忘れていた不徳も合わさって、その波の力はたいそう強いものとなった。

 わたしは元来(元来などと云うと、ものを説こうとでもするようで、いささか気恥ずかしいけれども)、子どもを、自分という「通路」を使ってこの世にやってきた存在だと考えている。通路になって、世に送りだしてしまったら、それなりのことを仕込んだり、わからせたりしてこんどは世のなかへと送るのだ。18歳になった末娘を、いったいわたしは仕込んだり、わからせたりしただろうか。
 そう考えると、自分がまともな「通路」でなかったことがはずかしくてたまらないような気分になってくる。ざぶんとやられた。
 それに、だ。
 母の通路を経てきた自分がこれまで何を身につけ、何をわかってきたというのだろうか。このあたりから、もう心もとない。その心もとなさを、母のせいにしたくても、母はいま、ひととしては87歳だが、こころは妖精のようになっており、「わたしに何を身につけさせたく、わからせたかったか」などといきなりつめ寄ってみたところで、静かに微笑んで「そうねえ」とつぶやくだけだろう、きっと。
 そも、母の通路を使ったのは56年も前のことなのだから、母に問いつめるのはお門違いだ。

 誕生日の日がやってきた。

 朝、うやうやしく末娘に「18歳のお誕生日だそうで、おめでとうございます」と挨拶する。
「こちらのほうはとんと至らず申しわけのないことだったけれども、健康で、頼もしいひととなってくださって、あの、ありがとうございます」
「いえいえ、よくしていただいてきました。ありがとうございます」
 芝居がかったやりとりののち、わたしは、これでよし、と思う。
 仕込み損なっているのは、煮もののつくり方だったり、衣更の方法だったり、昨日のつづきをきょう受けとめて、また明日につなげてゆく家のくりまわしについてだったり。まあ、そんなところだ。それなら、これから少しずつ伝えてやればいい。わたしはそんな気になっていたのである。生来(元来のつぎは生来だ。ますます気恥ずかしいことだ)呑気者なのだった。あはは。
 その夜は、夫も留守、二女も留守、三女も留守で、わたしひとりの食卓となった。前の晩に煮ておいたひじきと油揚げの煮ものをご飯に混ぜこんだのと、わかめのおみおつけと、ポテトサラダとぬか漬けのかぶ。これを祝い膳として、しみじみとほおばる。
「通路」の祝いのつもりなのである。

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夫の実家の熊谷も雨つづきで、
なかなか稲刈りができませんでした。
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とうとう、稲刈りの日。
夫が出かけてくれました。
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2015年9月22日 (火)

100年早い!

 やるべきことが積もって山のように、例を挙げれば富士山(3,776m/静岡県・山梨県)ほどにも、K28,611m/パキスタン・中国)ほどにも、いやエベレスト(8,848m/ネパール・中国)ほどにも積もって……、目の前に聳(そび)えている。
 山が好きなので、山の名前を挙げてゆくと、大袈裟は、ますます大袈裟になってゆく。
 みずからの脚で登ったもっとも高い山は仙丈岳(せんじょうがたけ/3033m/山梨・長野県)。秋の登山だった。入山したときには気づかなかったが、夕方、山小屋にたどり着いたときには、驚いたなあ。山小屋が登山客でふくれあがっていた。つづけざまに台風の到来があり、天候に裏切られていた登山客が久しぶりの晴天のその日、やっとの思いで押しかけたというわけだった。
 夕食にはありつけたが、就寝のときの有りようはものすごかった。わたしの顔の横には誰かの足先があり、誰かの足の横にはまた別の誰かの顔があるといった案配だった。そうだ、足先、顔、足先、顔、足先……という具合にからだの上部と下部がたがいちがいにならんだ、就寝風景。それでも、わたしは眠った。
 つぎの朝、忙(せわ)しなく山小屋の朝ごはんを食べ、弁当のおむすびまで持たせてもらって仙丈岳頂上に向かって歩みをはじめた。

 さて、そのときの仙丈岳登山のはなしは、またいつか聞いていただくとして(たがいちがいのあとも、同行の二女が高山病になりかかったり、別のグループの喧嘩をとめたり、いろいろなことがあった)。

 ここでは、これ。やるべきことに押しまくられ、山の麓でげんなりしているわたしの登場だ。落ちついて机に向かっているわけにもゆかず、何とか仕事をひとつ仕上げてはそこを離れて、別のことをしなければならなかった。いつもなら、仕事を終えた机でそのまま便りを書いたり、ぼんやり本や雑誌を開くことができるが、このところの運命はやけに時間が小刻みである。
 そんなことがひと月半もつづいたある日、自分の時間の配分がまちがっているのではないか、という疑念が湧いた。
 わたしは欲張り過ぎているのではないか……。
 ひとつでもふたつでも荷をおろすという選択肢もあるのではないか……。
 わがルーティーンをひとつひとつ見直してゆく。仕事あり、しごと(家の仕事を「しごと」と記すことにしている)あり、趣味あり、遊びありのルーティーン。辞めていいものはひとつとしてみつけられない。が、そうなるといっそ全部辞めてしまおうかという乱暴な思いが湧く。この見直しはじつに……、精神的に辛いものだった。
 そんななか空白の3時間が生まれ、映画館に向かう。こうでもしないと、ぱん、と胸がはじけてしまいそうだった。映画館の座席にすべりこんだ途端、頭のなかで声がした。
「荷をおろそうなんてさ、100年早いんじゃない?」

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分の映画の世界にどっぷり浸ったのち、早足で家に向かう。
 いかに小刻みに予定をこなさなければならないとしても、やがて、そんなのは落ちつくだろう。落ちつくというよりも、慣れる、かもしれないにしても。
 予定はすべて、わたしの人生の課題だ。
 課題をこなすこともしないで、荷をおろそうと考えるなど……、ほんと、100年早いや! 登りはじめてもいない山の麓で、登山の行程を考えてこんがらかっていたんだ、わたしは! どんよりしていたこころが晴れた瞬間である。
 だいいちわたしは、いまのところ何ひとつ仕損なってはいないのだ。
 もっと時間をかけたい、回数をふやしたい案件は少なくないけれど、とりこぼしはない(はず)。
 三鷹駅の構内で、ちょっとスキップ。

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この夏、つくった弁当です。
熊谷の実家の畑仕事を手伝いに行けず、
ありあわせの材料で弁当をつくって
(夫に)持って行ってもらいました。
・鮭、しそ、きゅうりのまぜ寿司
・煮もの(豚肉、高野豆腐、にんじん)
・卵焼き
行けなかったことは悲しかったけれど、
できることはあるんだ、という発見をしました。
土用の丑の日に熊谷で食べた
鰻弁当の容器をとっておいて

弁当箱として使いました。

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2015年9月15日 (火)

「赤ワインも切らしております」

 酒量を減らそう、というはなしになって、夫とふたり、家で「禁酒」している。
 酒にだらしのない夫婦者のはなしに、ちょっとのあいだ、つきあっていただくとしよう。
 ふたりで飲みはじめると、7回に1回くらいの割合で、とことんいってしまう。家ではなんとなく夫焼酎、わたしウィスキーと決まっているが、とことんの日には、途中からどちらか同じものを飲んでいる。同じものを飲みはじめると危ない、というわけだけれども、そんなことに気がついて「そろそろお開きとしましょうか」と云えるくらいなら、世話はない。
 飲みはじめは仲よく乾杯などしているのに、とことんの途中のあたりで、妙なけんかになったりする。それも政治、歴史認識、本の感想をめぐってのけんかで、通りかかる娘たちに云わせると、じつに「ばっかみたい」なことを云い合っているらしい。素面(しらふ)で語り合えば決してそんなことにならないものを、酒は「売りことば」と「買いことば」を強烈なものにする力を持っているので、気がつくと、ドイツのメルケル首相をめぐって大げんかになったりするのである。
 夏も終わり近いある日、ほぼ時を同じくして、夫も、そしてわたしも、「しばらく家でお酒飲むの、やめてみよう」と思いついた。同時だったことが勢いをつけた。わたしたちは、その日、家にある酒をすっかり飲んでしまい、つぎの日、禁酒の誓いをたてた。
 ルールはこうだ。
 外で友人や仲間と飲むのはよろしい。よろしいが、それは○月△日その日のみ。ひと月家では飲まないでおこう、禁酒ね、禁酒。

 禁酒はうまくゆき、わたしたちのあいだにはお茶が置かれるようになった。

 とうとうひと月と1週間の禁酒が成った。
「今夜、わたしたちふたりだから、久しぶりに近所の店に冷えた白ワインを飲みに行こう」
 とはなし合った。無事ひと月過ぎたことだし、外で一杯やってもよかろうと、考えてのことだ。
 夕方、近所のちっちゃな西洋食堂の客になって、サラダと、パンと、烏賊のマリネを頼んで白ワインを待った。
 店長代理という若い女性がやってきて、腰をかがめこう云った。
「じつはきょう、白ワインを切らしております」
「え。白ワインがない……? では、赤ワインは?」
 店長代理は夫の問いに対して、蚊の鳴くような声でこう答えた。
「赤ワインも、切らしております」
「それは、どういう……?」
「あの、じつはワインを入れ換えることになりまして、きょうはその狭間になってしまいました。モウシワケアリマセン。ビールや、日本酒は置いてございます」
 モウシワケアリマセンのところは、ほとんど泣き声だった。
 この店にワインが切れるなんて、よほどのことだが、わたしたちは、仕方がないのでペリエ(スパークリングミネラルウォーター)をとって、前菜のつもりで頼んだサラダと烏賊のマリネを食べると、パンをいつも持っている保存袋に押しこんでそそくさと店を出た。
 可笑しくて可笑しくてたまらなかった。
「まだ、ふたりで飲むお許しは出ていないということだね」
「そうだねー」
「びっくりしたー。『じつはきょう、白ワインを切らしております』」
 夫は、店ですまなそうにしていた店長代理の声色を真似て云った。わたしもつづけた。
「『赤ワインも、切らしております』」
「帰ったら、おいしいお茶淹れてくれる?」
「うんうん」

 酒を飲まないでいたら、目がよく見えるようになった、と夫は云う。

 わたしは、夜眠くなることなく(つまらないけんかもしなくなり)、ひと仕事できるようになった。
 お酒との再会は3日後、ふたりして友人夫妻に招かれている。たのしみ。

Photo

「ひと月禁酒」をはじめた日、
出先でこれをみつけました。
湯飲みとして使うつもりでもとめました。
右が夫ので、左がわたしのです。
筑前小石原焼 上鶴窯の器。
お酒を飲むのにもよさそうですが、
いまはこれで専(もっぱ)ら煎茶を、
はい、飲んでおります。

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2015年9月 8日 (火)

踏切

 玄関のドアを開けると、高3の三女が立っていて、「大変大変」と云った。聞いてほしいことがあるときの癖で、両手をひらひら振っている。
「きょう、Yちゃんとふたりで合唱祭の打ち上げの場所に向かってたとき、S鉄道の踏切の前に出たの。警報機がカンカン鳴ってるし、遮断機も下りてた。そこへ……」
「そこへ……?」
「もうすっかり降りている遮断機をかき分けて、若い男のひとのバイクが踏切内に入って。見たら、電車が、もうすぐそこまで来てるの。で、バイクがすべったんだよね。ああ、倒れる!? ぶつかる!? 電車がバイクをはねるー!と思ったから、たまらなくなってYちゃんもアタシも両手で目を覆ったの」
「え」
「バイクは、危機一髪通過して、そのまま行っちゃったのよー」
「まあまあ、そりゃ、大変だったね」
「踏切前で待ってたおばさんが、『あなたたち、ダイジョウブ? 怖かったねー』って背中をさすってくれたの」
「ぶつからなくってよかったけど、そこにいたあなたたちも、電車の運転士さんも、怖かったね。寿命ちぢまったねー。バイクのひとも懲りたでしょうよ
「どうかな、そうでもないかもしれない。あの男(ひと)は、いつもあんなふうに遮断機を乱暴にかき分けて、踏切渡ってるんだよ。そんな感じがした」

 そんなことがあってから2週間ほどたったころのことだ。
 こんどはわたしが出先の町の踏切前で、電車の通過を待っていた。近年、最寄りの中央線の高架化がすすんで踏切が縁遠くなった。かつては、どこでも線路を渡るときには、踏切前で電車の通過を待つのが常であった。朝夕の通勤時には「開かずの踏切」に困らされたものである。池袋駅と目白駅のなかほどに住んで、子どもたちの保育園への送り迎えで、なかなか開かない(というより、開こうとしないように思われた)山手線の踏切をあきらめて、交通量の多い池袋の通称「びっくりガード」を自転車で下って上ったのは若い日のことだ。自転車の前に二女を、うしろに長女を乗せて走り抜けた時代をふり返ると、曲芸のように思える。その光景は、おそらく、まわりをずいぶんと怖がらせていたのにちがいない。
 さて、久しぶりの踏切前で昔を思っていると、男の声が耳に飛びこんできた。
「昔のことは云うな!」
 自分に云われたのでないことはわかっていたが、どきりとした。それでつい、ふり返る。
 声の主は、うしろで電車の通過を待っている、50歳代後半ビジネスマンとおぼしき男だった。グレーのスーツに、渋いネクタイをしめている。わたしは、横にずれて、そのまま、ちょっとうしろに下がった。
「そんなこと云ったって、あなたがあんまり勝手なのがいけないのよ。コノヤロウ!と思ったら、許せない昔のことがつぎからつぎへと湧き上がってくるの!」
 そう云ったのは、男の隣りに佇(たたず)む女性で、男の妻なのだろう。グレーのワンピースに黒いカーディガン、胸には大きなペンダントが下がっている。その姿からは、余裕のある暮らしぶりと落ち着きが感じられた。
「昔のことはもう云うな! さっきのことは、わるかった」
「ちっちゃなうそを、あなたはこれまでも、いっぱいついてきたものね。わたしは、細く長く裏切られつづけているんだわ」
「だから、昔のことは……」
 そのとき、目の前の遮断機が上がった。
 この踏切前の見知らぬ男女のやりとり、わたしにちょっとした恐怖をもたらした。
 見知らぬ一組の男女のあいだに置かれているものが、自分にも思いあたって恐ろしいのである。「昔のことは云うな!」という見知らぬ男の声に、どきりとしたのが、その証拠。
 そうだ、わたしにも、このごろ、同じようなことが起こる。ある出来事が不意に昔のことをひっぱってくる。忘れかけていたあれやこれやがふと目の前に出現する。あわわわ。そのなかには、恨みにも似たものも混じっていて、恐ろしいったらない。
 いやだ、わたしったら、なんて執念深い……。
 自分を、比較的さっぱりとした性質だと思っていたのに、そうでない一面が、最近ちらつく。これは、一種の老化現象なのかもしれず、このままゆくと、ろくな婆さまにならないのじゃないかしら。
 忘れるべきは忘れ、水に流すべきは流して、坦坦と昔のことを思い返せる婆さまにわたしはなりたいが、こりゃむずかしいかもしれないなあ。

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ステンレス製のふた付き容器ふたつ。
ずいぶん前に、築地市場の道具店でもとめたものです。
居場所は冷蔵庫内、飴ちゃんを入れていました。
が、このごろ飴ちゃんの出番が減りました。
これからは、別のことで働いてもらうとしましょう。
容器の大きさは、10,5×13,5/高さ6,0cm
さて、何を入れようかしら。

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2015年9月 1日 (火)

鈴虫

 わたしは小学2年だった。
 いま、手もとにその年の5月のある日に撮った2枚の写真がある。
 1枚は神代植物園でのもの。笑顔。
 1枚は深大寺でのもの。うちひしがれた顔。

 神代植物園と深大寺は、漢字こそ異なりはするものの、ともに「ジンダイ」という名であるばかりでなく、隣り合わせに存在する(東京都調布市)。深大寺を有する深大寺村が、明治時代の中頃に周辺の村と合併したときに、神代と名をあらためたものらしい。漢字を変えて音を残したのかしら。

 その日初めて神代植物園に連れて行ってもらった。花満開のつつじの低木が延延とつづき、それは珊瑚の色の海原のようであった。つつじの波間を夢中で走りまわり、花の上に顔だけ出した弟とふたりの写真が、残っている。これが1枚目の写真。
「さてと、深大寺にお参りして、帰りましょう」
 と母が云った。
 いまでこそ、深大寺は初詣に行くほか、名物の深大寺そばを食べに出かける親しい場所になっているけれど、子どものわたしには、お寺は遠い存在だった。遠くて怖い場所と云ってよかった。
「えー、お寺?」
 植物園とは、ほぼ隣り合わせの深大寺はにぎわっていたが、わたしの目には薄い靄のようなものが見えた。早くここを出て、帰りたい。
 深大寺の裏門のあたりで撮った写真がある。これがもう1枚の写真だ。
 暗い表情のわたしが、からだを左方に傾けて立っている。赤地に白い水玉模様のブラウスに、白いショートパンツという活発な拵(こしら)えにはおよそ似つかわしくない顔である。そのとき、わたしの目は、墓地をとらえていた。
 幼いわたしの表情を暗いものにしたのは、死のイメージだ。
 当時、父方の祖父の死に顔と、叔母たちの泣き腫らした目を見ていたので、死とはどんなものか自分なりのイメージを持っていた。ひとり欠けて3人になった祖父母が死んでしまうのが恐ろしいというイメージ。
 祖父母たちに会うたび、死なないで死なないで、死なないでーと、こころのなかで叫んでいたのだったなあ。

 同じ年の夏休みの終わり近く、隣家のイワタさんのおばちゃまから電話で、「ふみこちゃん、いいものあげます」と呼ばれた。お隣の玄関まで走って行くと、虫かごが待っていた。土が入っており、その上にきゅうりが置かれている。

「きゅうりなの?」
「きゅうりは、ごはんよ。鈴虫のごはん。見えるでしょう、ちっちゃいくて黒い虫が。いい声で鳴くのよ。どんなふうに鳴くか、観察してみてください」
 イワタさんのおばちゃまの子どもたちは、そのときすでに大人になっていたから、わたしは恰好の教育対象だった。鈴虫もそうだし、その後、革細工、リボンフラワー、パン作り、いろいろなことをおそわった。
 いま考えると、それらからわたしはおそらく、イワタさんのおばちゃまが期待し想定していた以上のことを学んだ。近くにそういう存在のあることをあたりまえだと思っていたが、あれは奇跡の一種だったのかもしれない。
 鈴虫。
 わたしは、もうもう浮かれていた。きょうだいができたようなうれしさだった。年子(11か月と21日ちがい)の弟は、ものごころついたときにはわたしより身長が高く、ちっとも弟みたいではなかった。ちっちゃくて可愛らしい弟がほしかったよ、と希っていたのが半分かなえられたような気持ちだった。
 鈴虫はちっちゃかったが、虫かごのなかに45匹入っていた。
 きゅうりのごはんを土の上に置き、イワタさんのおばちゃまがから鈴虫はかつお節が好むと聞くと、母にかつお節を削ってもらって、粉のようなのを瓶のフタにのせてやった。水は飲まないの……? 西瓜は食べるかしら……? と、このあたりまではよかったが、なにしろやっとできたちっちゃくて可愛らしい弟たちだ。かまいたくて、かまいたくて、たまらなかった。
 虫かごを持って散歩させたり、虫かごから出して机の上で遊んだりした。
 鈴虫は、あまり鳴かなかった。鳴きはじめても、すぐやめてしまったから、鳴く姿の観察はできなかったのだ。
 わたしがかまって、いじくり過ぎたせいだった。
 それから10日もしないうちに、ちっちゃな弟たちは1匹残らず死んでしまい、わたしは泣きながら、庭に墓をつくった。

 鈴虫を死なせてしまった経験は、わたしにこの世の生について、生の末に死がやってくることの自然なる道のりについておしえた。不思議なことに、わたしは鈴虫のおかげで、死を徒(いたずら)に怖がったりしない道を歩きはじめたのだった。

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8月終わり、埼玉県熊谷市の田んぼ風景。
ここは田植えが遅いので、
まだ、穂が若いのです。
田は、この世の生で満ち満ちています。
ちっちゃなかえるもたくさん!
でもわたしは、それをつかまえて散歩させようとしたり、
机の上で遊んだりはしません(進歩)。
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