置かれる
「ふんちゃん、生姜穫れたよ。明日着で送っていいかしら」
と、はは(夫の母)から電話がかかる。
(夫の実家は埼玉県熊谷市で農業を営んでいる。出荷するのは米だけだが、野菜もつくっている。生姜のあと、冬の野菜の収穫がはじまる)
「お母さん、どのくらい? いっぱい?」
ははは云う。
「え。まあ、ほどほど」
「ほどほど」を待っていると、つぎの日の朝、生姜は届いた。熊谷のお母ちゃんの「ほどほど」が、わたしの思う「ほどほど」とスケールのちがうものであることは、知っていたつもりだったが、いや驚いた。みかん箱のなかに生姜がぎっしり詰まっている。
届いた生姜に、わたしはなかなか手が出せなかった。
1週間ほども、ショウガショウガとつぶやきながら、ほんとうはショウガを忘れたのと同じ佇まいで日を過ごしたのであった。ほかにすることがあったのも確かだけれども、何となく生姜に避けられているような気がしたから不思議だ。
わたしはこれまで、みずから目標を設定してがんばるというより、目の前に「置かれた」ものを受けとり受けとり生きてきた。ときに、いま、こんなものが置かれようとは……ととまどいながらも、ともかく。置かれたもののなかにはあたらしい仕事あり、宿題あり、心配事あり、解決しなければならない問題あり、このたびのように、生姜の山といったようなものもあった。置かれたものと向き合い、取組むうち、そこにいつしか目標が生まれ、夢が灯るのだった。
ときどき、このたびのように、ひとたび置かれても、それを避けるような、避けられているような感覚を持つことがある。よっしゃ!と腰を上げるだけの気力が不足しているのだろう。
こうしてもいられないと思って、夫に「生姜を洗うのを手伝って」と頼んでみた。「よしきた」と夫が云ってくれたので救われた。そうでなかったら、また生姜から遠のいてしまったことだろう。
まず、目の前の生姜の重さを計る。体重計を使って。
4,7キロあった。これを洗って、しなびたり傷んだ皮を落とすのを夫が担当し、わたしが薄く刻んだ。向き合ってみれば、作業はどんどん進み、めでたしめでたし。いつもの甘酢漬けのみならず、生姜を3度茹でこぼし、砂糖、みりん、しょうゆで煮て、佃煮もつくってみた。
その日、ほっとしたのと、つぎは何が置かれるのだろうと思いながら寝たせいか、おかしな夢を見た。机の上に欠けた茶碗がずらりと7つ8つ並んでいたのである。はて、何の暗示だろうか。
4,7キロ。
4,7キロを甘酢漬け、たまり漬け、
はちみつ生姜(あとからジンジャーエールにします)、
佃煮にしました。
ラベルには「新生姜」と書いてしまいましたが、
ほんとは「根生姜」なんだと思います。
ははは、「ばか生姜」なんて呼び方をします。
おかしいでしょう?
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