開通
時計を見ると午前2時55分。
蒲団にくるまっている自分、これはほんとうに自分だろうか。
あたまに血がのぼっている。動悸もしている。
どうした、わたし。
気を確かに、わたし。
こんなふうに呼びかけてみるも、あたまに血がのぼったまま、かっかしている。動悸もおさまってはいない。
枕元に置いた文庫本を開いて、読もうとしてみるけれども、何もあたまに入ってこない。蒲団の上に坐ってみたり、階下の台所まで行って白湯(さゆ)を飲んでみたり、のびをしてみたりしても、常ならぬ状態は去らない。
じっとして時間をさかのぼり、自分自身を追ってゆくと、床に入る前に怒りの感情を持ったのを思いだした。仕事上の行き違いがどうにも胸におさめきれなかった。はじけるか、胸。と思ったとき、さて、どの道を行こうか、と迷った。がっかりする道を行こうか、悲しむ道か、それとも……と。
確かに迷う瞬間があり、わたしは怒りの道を選んだ。
やっかいなことをいきなり持ちこんだ相手に対しても、調子のいい返事をしてそれを引き受けた自分に対しても、腹を立てたら、怒りがあとからあとからこみ上げてきた。思えば、久しぶりの怒りであった。こんなときには夫をつかまえて「ちょいと聞いてよ」とやるところなのだが、夫は撮影旅行に出かけていて留守だ。遅くまで勉強している受験生の末娘にも、遅番の仕事を終えて帰宅した二女にも、この怒りの波動は気づかれたくなかった。
できるだけ、怒りの塊が動かぬよう(動けばそれがほぐれて、怒りの分子が全身にまわるように思えた)、そっと後片づけをし、入浴もして、蒲団にくるまったのだった。
そして午前2時55分、みずからのなかの怒りがにわかに燃えて、わたしの目を覚まさせたものらしい。
ひゃー、まだ怒ってる。
怒ってる怒ってる。
床に入る前、怒りの道を行かず、たとえば悲しむ道を選んでべしょべしょ泣いたりしたほうが、よかったかもしれない。泣き寝入りして、そのまま静かに眠ることができたなら、ことはそれですんだかもしれないもの。
あんまりかっかするし、動悸も早いので、それならもう起き上がってしまおうかと思ったが、それでは怒りに負けるような気がする。
落ちついて。
落ちついて。
自分に云い聞かせて、もう一度、ことをあたまからたどってみると、ここまでかっかしたり、動悸を早めるほどのことではないという気がしてきた。そのくらいの行き違いなら、ほんとうのところ日常茶飯事であるし、いつもならふっと短いため息をついておしまい!だ。相手もそれほどわるくなく、わたしのほうでも反省する必要はなさそうだった。
それなら、なぜ怒ったのか。
そんなことを考えてたら、あたまに血がのぼったのもおさまり、心臓の鼓動も平常にもどっていた。
そうしてわたしときたら、呆気ないほど簡単に眠った。目が覚めたときにはすっかり気が済んでおり、それはつまり、久しぶりに怒ったことで到達した境地であった。
そうか、とわたしは心づく。
わたしのなかの怒りの道がつまって通行止めになっていたのを、昨夜怒りを発動させたことにより、交通が再開したのだ。
道はどんな道も、すべからく開通すべし(本日の教訓)。
三つ葉の再生。
気がついたとき水を換えていたら、
どしどし葉っぱが出てきました。
愛しいっ!
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