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2015年12月の投稿

2015年12月29日 (火)

年越しの日記(2015−2016)②

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「ローストビーフ、焼いておいてくれるかな」
「え。ロ、ローストビーフ? 夕方打合せがあって、出かけるんだけど」「わたしより先に帰ったら、お願い。肉は塩こしょうをすりこんで縛り上げておいたし、焼くだけだからね、ね。ここにほら、焼き方書いときました。※○○□□▽△◎◎※だけ気をつければOK
「……※○○□□▽△◎◎※」(ローストビーフの結末は、下記写真キャプション参照のこと)
 これが夫とわたしの朝のやりとりで、わたしはことしさいごの朝日カルチャーセンター(新宿)のエッセイの講座に出かけた。午後、同じ建物のなかで英文翻訳塾の生徒になって、帰宅は午後6時の予定。
 クリスマスディナーは準備万端である。

 バゲット/ハーブ・チーズブレッド

 コンソメスープ(浮き実はアルファベット・パスタ)
 ローストビーフ(サラダ添え)
 グラタン(鮭、鶏もも肉、白菜、じゃがいも) 
 ピクルス
 紅茶ケーキ(生クリーム添え)

 メニューのうち、コンソメスープとグラタンは前の晩にわたしが仕込んだものだが、ハーブ・チーズブレットとピクルス、紅茶ケーキは近所に住む友だちのノゾミさんのお手製。クリスマスの雰囲気の大事な部分を担ってもらった。ありがたや。


 ことし
12月のはじめ、机上にフラ・アンジェリコの「受胎告知」(ポストカード)を飾った。「受胎告知」をテーマにした絵画は数多くあるけれど、フラ・アンジェリコの描くマリヤは敬虔に、御使(みつかい)ガブリエルのことばを受けとめている。その目は自分の将来というのとは異なる未来をそっとみつめている。
 仕事と勉強を終えた新宿からの帰り道、ふと、ポストカードのマリヤのまなざしが浮かんだ。聖書の一節とともに。「而(しか)してマリヤは凡(すべ)て此等(これら)のことを心に留(と)めて思ひ回(まわ)せり」(ルカ伝2章19節)

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月◯日
 長女が仕事を辞めた。
 独立して仕事をしてゆきたいと聞かされたのは、夏のことだった。
 そろそろやって来るだろうな、と思っていたら、来た。
「退職いたしました」
「それはそれはお疲れさまでした」
 母親のわたしにまで、「もったいない」とか「先のめあてはあるのか」とか、「こんな時代にあり得ない!」とまで云ってくるひとがあったというはなしをする。すると長女は徒(いたずら)っぽい目をして、こう云った。
「わたしには、いつ独立するのだという、父と母からの無言の重圧がのしかかっていた」
 独立を促したこともなければ勧めたこともないから、それは冗談でもあるが、長女にしたら真実であるのかもしれなかった。
 思えばインディペンデント(独立)にこだわりつづけてきたわたしたちだ。「働く」ということの意味が、そこにしかみつけられないわたしたちだ。
 そこから重圧を感じていたというのが軽口であれ、真実であれ、何だか少し誇らしい。
 だが、浮かれてもいられず、くぎを刺す。
「独立というと、自由気ままみたいだけどさ、あらゆる相手に属するという意味でもある。お覚悟」

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月△日
 久しぶりの午睡だ。
 本を抱えて蒲団にくるまる。たのしみにしていた祭りのようだ。
 三女がわたしにと図書館で借りてきてくれた『昨夜(ゆうべ)のカレー、明日(あした)のパン』(木皿泉/河出書房新社)を持ってくるまる。そう云えば、NHKでドラマを観たな。ものすごく好きなドラマだった。
 このつぎいやなことがあったら、絶対DVDボックス買っちゃおう、と思っていたのに、実現していない。あれ? いやなことがあんまりない年だったのか……? 鈍感になっただけかもしれないが。
 抱えた本(小説)があまりにおもしろかったため、うとうとはなかなかやってこなかったが、それでも、とうとう訪れた。
 眠りから覚めて片目をあけると、時計の針が3時をかたちをつくっていた。
「あれれ、これは朝の3時? ああ、やわらかいこの光を見ると午後3時だな」
 こんな阿呆なことを思って安心する瞬間がたまらない。午睡ばんざい!

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牛ロースのかたまり800g
をもとめました。

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夫に夕方焼いておいてね、と頼みました。
「守るべきは※○○□□▽△◎◎だけ」と云い置いて。
でも、夫は※○○□□▽△◎◎
耳に入らなかったのでした。
※○○□□▽△◎◎※
「焼き上がったあと、庫内に置き過ぎると
余熱でどんどん熱が入るからすぐ出すこと。
(天板に落ちた油で)グレイビーソースをつくるから、
天板はそのままに」というものでした。
それが守られなかったので、
ちょいと焼き方が過ぎたローストビーフを、
わさびしょうゆで食べることになりました。
でもいいんです。
ことし、夫はたいうそう料理の腕を上げました。
ローストビーフまで完璧に焼かれた日には……

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2015年12月22日 (火)

年越しの日記(2015ー2016)①

12月◯日
 台所でにんじんを刻んでいる。
 誕生日におろした友人に贈られたまな板の上で、とんとんと。
 はっ。せん切りにするはずのところをいちょう切りにしている。
 困ったひとですね、あなたは。

12
月△日
 友人たちと銀座へ。
 なつかしいコム・デ・ギャルソンのブラウス(襟ぐりに大きめのヒカリモノがならんでいる)を着て、マントケープをはおり出かける。駅の階段を上るとき、ふだん履きの靴を履いているのに気がついた。はっ。エナメルの靴を履くのだったのだ。
 困ったひとですね、あなたは。

12
月☆日
 急いで急いで。
 武蔵野市第五中学校の研究発表会に出かける。緊張もしているが、たのしみもいっぱい。自転車にまたがって……あれ、わたしはどこへ向かって走っているのだろうか。市役所への道を走っている。
 はっ。本日の行き先は市役所ではなく、反対方向の五中だ。
 困ったひとですね、あなたは。
                  *
 12月だというに、ぼんやりして困ったひとになっているわたしを、わたしはどう見ようとしているか。
 野菜の切り方をまちがえても何とでもなる晩ごはんをつくっていたのだし……。
 ふだん履きの靴はたしかに不釣り合いではあったけれども、一点抜けているのなんかはじつにわたしらしくもあるのだし……。
 自転車の走り出しをしくじるなんて、ある意味余裕だと思えないこともないのだし……。
 12月だというのに、ぼんやりしていてなかなかよろし。そのように見ることとする。

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 見事においしそうな大根の葉が、
いっぱい集まりました。
 いつもは菜飯にするのですが、
それだけでは使い切れず。
 ナムルに。
 にんじんとともに茹でて、
塩、すりごま、おろしにんにく、ごま油で

和えました。

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 またまた大根の葉がやってきました。
 本日は細かく刻んで、油揚げとともに
煮ました。煮ものではありますが、細かく刻んだので、
ふりかけ風。仕上げにごまと七味唐辛子をふりました。

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2015年12月15日 (火)

ことしの銀杏

 12月も半ばになったが、いまだ東京には張りつめた寒さが、ない。
 先日、玉川上水の小橋の上でふと立ち止まったが、そのときも寒さがなかった。それが証拠に、胸のなかであのことはああだろうか、このことはこうだろうかと思いめぐらしながら、わたしはしばらくそこに佇(たたず)んでいたのだ。例年はこの季節、川のそばに佇もうものなら、川面(かわも)から凍りつきそうな冷気が立ちのぼってきて、身にからみつくのに。そんな冷たい空気を、ちょっぴりなつかしんでいるのである。
 泣こうにも涙がカチンと音を立てそうな。
 歌おうにも声が空中で割れて落ちてゆきそうな。

 銀杏(いちょう)の葉などは樹にしがみついたままでいる。ちょうど黄色の炎のかたちだ。銀杏の葉は最低温度が
45度になって初めて色づくのだそうで、この冬東京では11月のおわりにやっと色づきはじめたということだった。なるほど12月も半ばになるというのに、まだ葉の大半が枝についており、黄色い銀杏の樹がそこここに見られる。ことしの銀杏の葉は、青いまま落ちてしまうのか、との見方もあったらしい。
 銀杏は、とまどっているだろうか。
 葉は樹の上で、初めてクリスマスの飾りつけを眺めているのかもしれない。いつもは緑と赤中心のクリスマスの拵(こしら)えのなかに、自分たちが〈黄色の主張〉をして見せていることにも心づかずに。
 いや、銀杏とても毎年同じではないのだ。
 昨年の銀杏と、ことしの銀杏。
 それはまったく別の銀杏だ。

 大通りに面した銀杏並木道で落ち葉をせっせと掃き集めているひとたち、高齢者の
3人グループ。
 わたしはそわそわと、どうしてかそわそわしながら、その様子を見ている。こんな声が聞こえたからだった。
「こんなに大急ぎで、落ち葉を集めて捨てなくてもいいものを」
 ややくぐもった男の声が云うそれこそ、わたしがいつも落ち葉に対して感じているもの……。だからこそ、落ち葉を忙(せわ)しなく掃き集める働きぶりに対して、ついそわそわする。銀杏並木の木陰に立ってひとを待つふりをしながら、男の声のつづきを、わたしは待っている。
「仕方がないわ。アスファルトの歩道の上の落ち葉ですもの。ついこのあいだも、濡れ落ち葉の上で足を滑らせ、ころびそうになったという苦情がきたって」
 これは女の声。
「落ち葉の下で、虫が越冬するなんてことも忘れたのか。まあわたしなんかも、そんなことは忘れたことにして、ここでこうして落ち葉を集めて捨てているのだけれども」
 と、さきほどの男より、さらに歳上らしい男の声がつづく。
 木陰からは、声の主の顔までは見えない。つばのある帽子をかぶっている3人は、うつむいたまま地面の落ち葉を掃いては袋に詰める作業の手を休めないでいるからだ。
「もしも時を戻せるとして……、戻りたい〈頃〉がありますか? わたしはあるんですよ。落ち葉をみんなが何とも思わなかった〈頃〉。そうだな、いまのような車社会でなかった〈頃〉」
 またしても、最初のくぐもった声だ。
 ああ、わたしもそんな〈頃〉に戻りたい、とそっと云い、銀杏並木の大通りを離れた。

 時はどうやら巻き戻せない。

 そういう意味では人間だって、銀杏同様毎年同じではないのだ。
 昨年のわたしと、ことしのわたし。
 それはまったく別のわたしだろうか。同じようなことを考え、同じようなことをしているように見えても。

 近所の公園で、銀杏の葉を拾って帰る。

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2015年の銀杏の葉。
(東京都武蔵野市)
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飾ってみました、銀杏の葉。

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2015年12月 8日 (火)

はてな。

 赤ずきんちゃんのように、かごを持って出かける。
 かごのなかには、出先で必要な、たとえば誰かさんへのおみやげとか、小さな帖面とか、そんなようなものが入っている。でもほんとうは、かごには「はてな」がいっぱいだ。道の上でみつけた「はてな」、ひとを観察しての「はてな」、ふとひらめくように登場する「はてな」。そうして、自分自身に対する「はてな」も。
 かごのなかの「はてな」は、家に持ち帰って本に当たったり、図書館に寄って調べたりしておさまりどころをみつけられるものばかりではなく、「はてな」のままかごのなかに置かれつづけるものも少なくはない。

 そうだ。

 赤ずきんちゃんも、この子が手にしているかごも比喩である。もちろんそうなのだが、好奇心旺盛で、つい横道に逸れてしまう赤ずきんちゃんが、わたしには他人とは思えないものだから、ついこんなところへひっぱりだしてしまう。
 そうして、お腹をすかせたオオカミにたぶらかされて、森で花を摘んでいるすきに、大好きなおばあさんを丸呑みにされ、後から自分もひと口にあんぐりやられてしまう赤ずきんちゃんを救ったのは、そこを通りかかったかりうど(狩人)だった。

 ちょうどそのとき、かりうどがおもてを通りかかって、はてなと思って立ちどまりました。


 ほら、ここだ、ここ。

 ここに「はてな」がある。
 はてな、と思ったかりうどは、おばあさんが大いびきで寝ているのを変だと気づき、家のなかを見る。そこでおばあさんと赤ずきんちゃんをお腹におさめて眠りこんでいるオオカミを発見するのだ。この先は、ハサミでこうして、石をそうして、めでたしめでたしとなるわけだ。
 父に読み聞かせてもらった『赤ずきんちゃん』(グリム兄弟 楠山正雄訳)のなかで、初めて出合った「はてな」。なんてかわいらしいことばだろう。子どものわたしにも、どんなときに用いることばか、すぐとわかった。
 こうして、赤ずきんちゃんと、わたしと、「はてな」は仲よしになった。

 最近の「はてな」にはこんなのがある。

 テレビで、料理番組をちらちら見ていると、料理研究家もシェフらしきひとも、どこかの料理長も「ここで白ワインをカップ2分の1ほど加えます」なんてことを云う、あたりまえの顔で。
 ちょっと気を惹かれて見ているわたしは、ここで思うのだ。「はてな」
 はてな、その白ワインはどこから出てくるものだろう。
 料理用のワインではなさそうだ。安価なワインをそのためにあけるのか。うちには飲み残しのワインなどはあり得ないし(あけたらすっかり飲んでしまうから)、安価なワインを買ってきたとしても、料理に使ったあと飲んでしまったりして……それはそれで「はてな」である。
 わたしは、白ワインを用いると聞いても、聞こえなかったことにして、料理酒を使うことにしている。

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さあ、だしをとったあとの昆布で、
佃煮こしらえてみましたよ。
ひたひたの水を入れ、
砂糖、みりん、しょうゆ、酢で味つけをしました。
汁気がなくなる煮て、さいごにけずり節を加えました。
なかなか美味です! やった!

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2015年12月 1日 (火)

わたしの「大事」

 とうとう12月。
 ほんとうに? と何度も思った。ひと月かふた月またいで(つまりその分の日日を抜かして)ここまできてしまったのではないかしらん。うしろをそっとふり返ってみるけれども、そんなことはなさそうだ。

 1234567891011月と、ひと月ずつ、そうして1週間ずつ、1日ずつ、1時間ずつ、1分ずつ、1秒ずつことしを過ごしてきょうまできた。

 仕事や予定が立て込むと、日の巡りが速く感じられるのだと若いころは考えていた。そりゃどうもちがうな、と思うようになったのは近年のことで、自分の「大事」をはしょったりすると、日は悲しくも速度を上げて過ぎるらしい、と気づいた。
 11月のわたしがそうだった。
 机の前に坐る仕事より、出かけてゆく仕事が多かったから、着るもののことを考えたり、約束の時間や行き先までの交通を計ったりして、常よりも仕度が嵩張った。そんななか夫は撮影の旅に出ており、3人の子どもがそれぞれ転機を迎えていたので、わたしは何となくそこにどう寄り添ったものかとおろおろしていたのである。
 おろおろというのを、めずらしい現象としておもしろがればよかったのだが、その余裕がなかった。おろおろを隠して、出先でしゃんとして見せたりして阿呆なわたしだった。
 その上わたしは、自分の「大事」をおろそかにした。

 たとえ最低限ではあっても日常的な役割をこなすのは「大事」以前のことであり、何と云うかな、「大事」というのはちょっとした道草である。


 ゼラニウムに肥料をやりたい。

「ね、ここはどう? 陽当たりがいまひとつでごめんね、ごめんね。でもね、このあいだ、配達のオオタサンがさ、アナタたちを褒めてくれたのよー」なんかと話しかけながら。

 ぬか床に炒り大豆をプレゼントしたい(ときどき、ほしがるのだ)。
「いい大豆なんだよ、これ。炒りながら、ずいぶん食べちゃったの。おいしかった」なんかと話しかけながら。

 手紙書きをしたい。

「年賀状の前に、意地でもお便りしたいと思って」なんかとしたためる。脅しのようだが。

 母のおさがりのコートの衿を直したい。


 アクセサリーのひきだしを整理したい。


 わたしの「大事」とは、まあ、こんなようなことだ。

 何でもないような事ごとだが、決して決して何でもなくない。これをおろそかにすると、日は徒(いたずら)に過ぎてゆき、気配も余韻も残らない。ということは、わたしにとっての柱とも云えるのじゃないかしら。

 きょう、宅配便配達のオオタサンが「きょうは休みです。でも配達」と云ってやってきてくれた。手に、多肉植物がいっぱいならんだプラスティックの盆を持っている。

「くださるんですか?」
 思わず訊く。
「もらっていただけますか? ベランダでふえ過ぎてしまって、物干の邪魔だと家人に云われてしまいまして」
 うふふ、そうでしたか。

                  *


 で、わたしは
12月のはじめの日、多肉植物にうつつを抜かしております。これで、おろそかにしていた「大事」がわたしのもとにもどって……、時間の刻みもせっかちをよしたようです。
 師走、あなたもわたしも「大事」をおろそかにせず、できるだけゆっくりゆこうではありませんか。

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2か月、だしをとったあとの昆布を
冷凍庫で貯めました。
これでおいしい佃煮をこしらえようと思います。

おすすめのつくり方を募集いたします。

師走ですもの。
こんな「大事」を共有してもいいかなと思いまして。

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