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2016年6月の投稿

2016年6月28日 (火)

予定之男命と呟美命

 もうずいぶん昔のことだ。
 ある朝目覚めると、男神と女神がわたしを見下ろしていた。そのころ『田辺聖子の古事記』(※)を夢中になって読んでいたからだと思われるが、不意のことに面食らう。

「あなた様方は、どのような……」

 と尋ねかけたが、複雑な答えが返ってきても困るので、驚きを隠して「おはようございます」と挨拶するにとどめた。ねぼけた目で観察すると、ふたりとも身なりがよく、男神は赤い石の首飾りをつけ、女神は高く結った髪の根元を翡翠のような連なりで飾っていた。薄い衣は涼やかに見えるが、幾重にもなっていそうなところを見ると、案外保温性は高いのかもしれない。
 春のはじまりの季節であったので、「お寒くありませんか?」と声をかけてみた。
「わたくしは寒さを知りません」
そう女神が云うと、「おれも」と男神が低い声で云う。
 急いで身仕度をし、朝餉(あさげ)の膳をととのえ、二神に、かために炊いたご飯、大根の千六本の御御御つけ、焼いた鮭、野沢菜づけを供する。
「ありがとう」
「かたじけないな」
 と二神はそれぞれに云い、音をたてず、ゆっくりと食べものを口に運ぶ。箸をそろえて、匙のようにして使っている。少し馴れてきたので、こちらから名乗ると、二神もおれは……、わたくしは……と、名を語った。男神の名が「予定之男命(よていのおのみこと)」、女神が「呟美命(つぶやきみのみこと)」であることがわかった。ふたりは夫婦であり、予定之男命はひとがたてる予定を治め、呟美命はひとのつぶやきを治めているという。
「こんなところまで、はるばるお出ましになるのは常のことなのでしょうか?」
「いやいや、ちがう。おまえが呼んだからきたのだよ」と予定之男命。
「そうです。あなたは眠りながら夢のなかで、しきりにわたしたちを呼んでいたのです。それで、やってきたのですわ」と呟美命。
「わたしがおふたりを……」
 やっとそう云ったが、どうにも先がつづかない。
 千四百年あまりも昔の世界の神神を呼びたてるなど、いかに妄想癖のあるわたしでも、思いがけないのにもほどがあるというものだ。しかし、「呼ばれた」「そうです、呼ばれました」と二神が云われるのだから、わがこころのなかの何かがこの不思議とつながったことはまちがいなさそうだ。
 思い当たるとすれば、時に、みずから立て、他から受けてもいる〈予定〉に翻弄させられることだ。〈つぶやき〉のほうは……、そうだ、気がつくと「ああ、面倒くさい」が口から漏れ、口癖になっていた。
「つぶやきみのみこと様は、わたしのつぶやきを聞いておられましたか?」
「聞いておりましたとも。あなたがつぶやく『面倒くさい』が本心からのものであるか、口先のものであるかを確かめないうちには、帰れません。あなたは、どうです?」
 呟美命は云うと、さいごに顔を夫に向けた。
「おれは、予定というものが愛されるように、そのことだけをねがっているんだ」
 そう語る予定之男命の顔は、真剣そのもの。
「それではお答えしますが……、ええと、まずつぶやきみのみこと様へ。最近『面倒くさい』とつぶやくことが多くなりました、『めんどくさ』と。でも、それは……、何といいますか、予定に立ち向かってゆくときの符丁のようなもので、本心面倒だと思っているわけではないのです。こそっと『面倒くさい』と口のなかでつぶやいて、緊張をほどこうという気持ちも、自分を励まそうという気持ちもあります。けれど……あの……、別のつぶやきに変えたほうがいいでしょうか」
 いつになく、考え考え答えている自分が可笑しくもあったが、笑えない。人生の岐路のような場面であることがわかったからだ。
「わたくしにはよくわかります。ひとには聞かれぬように『面倒くさい』とか『疲れた』とか、そっとつぶやくのがわるいわけではないのです。ただ、予定に向かってゆくときの符丁ということなのであれば、ちがうことばに変えたほうがよいでしょうね。そのほうが効果も上がります。たとえば、ご自分の名を云うのです」
 呟美命は微笑んで「ふみこ、とです」と云った。
 それならできそうだ、と思う。緊張をほどくのにも、みずからを励まそうというのにも、ぴったりかもしれない。あるときには、もっとつよく、鼓舞することもできそうだ。
「やってみます。できると思います」
 黙って呟美命とわたしのやりとりを眺めていた予定之男命が、「それでは」と厳粛な面持ちで語りだす。
「それでは、おれの問いにも答えてもらおう。みずからの予定を愛することができそうか、どうか。予定には種類がある。こうしようとみずから立てるもの、ひとから頼まれた用事、任ぜられた場に置かれた予定など。ややこしいものも、たのしみなものも、あるだろうと思うが」
「ええ、等しく愛する努力をいたします」
「そうか、その答えを聞いて安心した。それでは、土産をひとつ置いて去るとしよう。予定はな、それを愛そうとするも者の人生にはよく、働く。無駄なく働くと云ってもよいと思う。予定、つまりあらかじめ定めた事ごとを実行してゆきながら、人生は前進し、ひととして成長する」
「ほんとうに?」
「ほんとうだとも。だから予定を等しく慈しみ、信じることだ。で、ときどき、予定が消えることがあろう? それも、よき働きのひとつということになるんだよ」
「……」
 お茶のおかわりを淹れようとわたしが立ち上がるのを、二神は制して「わたくしたちは、もうまいります。さようなら」と云って、すっと流れる雲のように去っていった。

『田辺聖子の古事記』(集英社文庫)

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散歩に出かけ、立ち寄った神社境内の
くすのき。
なんとも神神しく、ひかりに包まれるようでした。

Photo_2

根っこ。
大地をつかんでいるような、根っこ。

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2016年6月21日 (火)

ことしは休み

 春にさきがけてたくさんの花をつけた庭の梅。
 ちょっと変わった色の花で、色は薄桃色で、芯のあたりに紅のひとはけがある。大家のT氏自慢の梅の木なのだ。
 昨年この木1本から、梅の実15キロの収穫があった。これは4年前この家に越してきてからの最高収穫量で、年年ふえてきている。
 そんなわけで、4月のおわりには梅しごとの算段をはじめていた。いちばんの気がかりは、6月のわたしがどんなふうに在るかだった。

 6月のわたしに、梅仕事をするだけの時間が持てるだろうか。

 6月のわたしは、たのしくしごとをするこころのゆとりを持っているだろうか。

 長年くり返してきた年中行事や、家のしごとは、くり返してきただけでなく、たのしんできた事ごとだ。だが、ことしはどうか、同じようにできるだろうか、というのも、長年くり返し胸に宿るかすかな憂いだった。

 そうしてことしも6月の自分を想像してみていたときのことだ。
「ことしは梅の実がならないみたいだ」
 と夫が云う。
「だって、花はあんなに見事に咲いたじゃない?」
「そうなんだけど、実になる気配がないんだ」
 こう聞かされると、梅しごとの算段なんかは吹き飛んでしまい、梅の木の健康が気遣われる。サンダルに足をつっこむようにして、庭に出て梅の木を見上げる。例年なら、この時分には葉のあいだに実が見えはじめるというのに、実はみつからない。ただのひとつも。
 けれど梅の木は、のびのびとして見えた。わたしが気遣って「困ってることはありますか?」と問いかけると、「いいや、何も」と答え、それから青青とした葉を揺らして欠伸をした。
 その欠伸がうつったものか、わたしも欠伸。ついでに両腕を空に向かってのばした。
「ことし、アタシは実を休むよ。来年はまたたくさん実らせる。だからアンタもことしは……」
 こう云ったのは、今し方大欠伸をした梅の木だった。
「だからわたしも……?」
 すぐには何とつづけたものか、わからなかった。
 ああ、そうか、と気がついたのは1分ほどあとのこと、小声で梅の木に向かってこう告げた。
「だからわたしも……、ことしは梅しごとを休みます」
 そう宣言しながら、晴れ晴れとしている。

Photo

「ことしは梅しごとを休みます」
と宣言したあとに、
わたしの梅の実好き(梅しごと好き?)を
知る友人ふたりが、上等なる梅の実を1Kgずつ
持ってきてくれました。
それを、こっそりシロップにしました。
梅の木からは休みのありがたみをおそわりましたが、
ふたりの友人からは、何にしても頑なになるなと、
おそわった気がしたことです。

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2016年6月14日 (火)

思いがけない② ユリノキ

「あ、ユリノキ。花が咲いてる」
 ミユキサンの便りにはいつも必ず自作の絵があって、わたしはそれを眺めては、いつも必ずにっこりする。
 その日のユリノキの絵を見て、わたしはやっぱりにっこりした。同時に、記憶の手帖がぱらぱらとめくれ、わたしはいつしかユリノキの大木を見上げていた。

                 *


 2008
5月のはじめのこと、東京国立博物館の構内にできた長い長い行列のなかに、わたしはいた。
 同博物館では平城遷都1300年記念事業として「国宝・薬師寺展」がひらかれていた。たとえばこのような人気の展覧会の前に、たとえば長い長い行列の前に、へなへなと腰が砕けてしまうのがわたしだ。
 だのに、この年の「国宝・薬師寺展」には、2時間半ほど並んだのである。この目で日光・月光菩薩立像(国宝)を観たいという希いにあふれんばかりの、同行のI女史の存在があったのだ。哲学者であるI女史の「観たい」というこころの発動を、覗いてみたかった。
 やけに暑い日だった。
 行列をまるごと灼こうとするような陽をあびて、朦朧(もうろう)としかかったころ、ようやく、館内に足を踏み入れることができた。いまとなっては、聖観音菩薩像、慈恩大師像、吉祥天像(いずれも国宝)も、絵画もさっぱり記憶の手帖のなかには残っていない。日光・月光菩薩立像についても、その、巨大と云ってもさしつかえないほどの大きさと、後方から眺めた背中の様子をかすかに憶えているのに過ぎない。
 ともかく、みずからのなかに湧こうとする感慨らしきものを確かめる暇もないまま、ひとの流れに押され、人いきれに酔って、わたしは頼りなく博物館の外に出た。
 そこで息を飲んだのだ。
 大きな樹が、やさしい花をつけて立っている。
 ろうそくみたいだ、と思った。……黄と緑を静かに混ぜ合わせたような花の色。近寄ると、ユリノキという名札があった。
 時を忘れ、わたしは、ユリノキとその花を見上げていた。
「きょうわたしたちは、これを見にきたのかもしれないわね」
 わたしの隣でI女史がつぶやく。
「そうかもしれませんね」
 はるばる東京までお出ましくださった薬師寺の皆さんに気が引けて、小声で相槌(あいづち)を打つ。

                 *


 さて、ミユキサンからのユリノキの絵のある便りのはなしである。

 ミユキサンが描いたのは、病院の庭に根を張るユリノキなのだそうだ。
 病院? どきっとして先を読む。すると、ミユキサンがこの病院のユリノキの、花を初めて見た日、ある病名を告げられたことがわかる。
「(前略)5月20日、またこの木に出合った。はじめて見たのです。大きな木にてっぺんまで一面、黄色をした花があっちにも、こっちにも咲いている。何の木だろう。手をのばしても、高すぎて届かない。あー、近くで花を見たいと思っていたら、運がよかったのです。風に乗って、花がついた枝が舞い落ちて来ました。この枝を大切に持ち帰り、スケッチをして調べました。〈ユリノキ〉、ユリノキの花だったのです。(中略)工夫しながら、心の中のめんどうをみて、楽しく暮らすが、私のモットーです。そうか……。この樹の花に出合えたのも、私がうつむいていなかったということ。上を見ていたんだね。だから……こんなにときめいたのかも。穏やかに、ゆっくり行こうと思います。ミユキ」

 記憶の手帖のなかのユリノキの花と、ミユキサンが見上げたユリノキの花と。2本のユリノキは、わたしたちにおしえる。

 1本の樹のように力強く、やさしく生きよう。

Photo

ミユキサンに許可を得て、
ユリノキの絵(部分)をお目にかけます。

Photo_2

こちらが花。
どれほど勇気をもらったか知れません。
ミユキサン、ありがとう。
皆さんに、お福分けいたします。

 

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2016年6月 7日 (火)

思いがけない① 白シャツ

「その白シャツ、素敵」
「え、あ、ありがとうございます」
「お母さん、この白シャツの、透け感いいね。こんど貸してね」
「ほんと、いい。わたしも借りたいぃ」
 娘よ、オマエサンたちまで……?

 このところ〈褒められもの〉となっているのは、なんということもないシンプルな白シャツ。薄手ながら、衿がしなやかに立った七分袖のブラウスだ。

 白シャツはわたしのワードローブの定番で、季節ごと数枚ずつ出番を待っていてくれる。このなかには、ちょっと背伸びしてもとめたものもなくはないのだが……、このたびの〈褒められもの〉は、その類いではない。

 数年前の初夏のことだ。

 白シャツ黒パンツを身につけ、わたしとしては正装した気分で出かけた。ただし正装の足元はスニーカー。鞄のなかにしのばせた黒パンプスに、会場で履き替えるつもりなのだ。健康法は?と尋ねられたら、「歩くこと。パンプスで歩きまわらないこと」と答えようかと思うくらいなものだから、ただでさえ出番の少ないわたしのパンプスは、たいていいつもヒールをたがいちがいに重ねられ、専用の布の袋に押しこまれて出かける運命(さだめ)だ。
 スニーカーで早足になっていたからだろう、目的地には早めに到着しそうだった。ふと、珈琲でも飲んで時間を調整しようという考えがひらめいた。
 これはめずらしいことで、出先でひとり珈琲を飲むなんてことはひらめかないのがわたしである。「この世からなくなって困るものは、喫茶店」と語る友人をひとりならず持っているのだけれど、そしてその感覚にあこがれもするのだけれど、わたしはちがう。
「喫茶店で、珈琲飲んで、読書するわけ?」
 とおそるおそる尋ねてみたのは若い日のはなしだが、たいてい誰からも、珈琲も好き(紅茶好きもある)だし、本や雑誌も読むこともあるにはあるという答えが返ってくる。そして「だけどともかく」とつづくのも、共通だ。
「だけどともかく、喫茶店が好きなの。喫茶店でひとりぼんやりしてから家に帰りたいって感じかな」
 ああ、ここがちがうのか。わたしは喫茶店でぼんやりする暇があったら、さっさと家に帰りたい。ぼんやりする暇は、家に帰ってからつくりたい。そうだな、この世からなくなって困るものと云えば、豆腐屋と銭湯だな、と思ったりもする。
 そんなわたしに、その日どうして珈琲を飲むひらめきが訪れたものか、不思議だ。〈喫茶店でひとりぼんやり〉へのあこがれが、時間調整の必要になった場面で、とつぜん発動したのにちがいなかった。
 運ばれてきたアイス珈琲はおいしかった。
「喫茶店でひとりぼんやり珈琲もわるくないな」と思いかけたつぎの瞬間、わたしは珈琲を、こぼした。ちょっとではなく、だーっとこぼした。だーっと、白シャツの前見頃に向かってこぼした。ストローを使わずに飲んだのがいけなかった。白シャツには当然、茶色のシミができ、それも相当大きなシミとなって、もうもう、ぼんやりどころではなくなった。
 グラスに残ったアイス珈琲を飲み干し、鞄からとり出した四角いもので前を隠して、喫茶店の舞台から退場。
「このシミは、茶色い模様に見えないだろうか」
 四角いものをどけて、そっとショーウインドウに映してみても、やっぱりシミにしか……、珈琲のシミにしか見えない。あわてました。きょろきょろしながら歩きまわって、やっとのことで見慣れた看板を探しあてた。
「無印良品」
 そこへ飛びこんで、買ったのが〈褒められもの〉の白シャツ2980円也。
                           来週につづく

Ajisai02

〈目標・毎日1万歩以上〉というのは、
いまもつづいています。
出不精のわたしが、この目標のもと、
うれしく出かけるようになりました。
先日、紫陽花さがしの散歩に出ました。

可憐な、白花の紫陽花をみつけました。
Ajisai03

そう云えば、紫陽花の花の色は、
植えられた土壌の影響を受けるといいますね。
それで、ちょっと恐ろしい物語が綴られる……

玉川上水沿いで、みつけたはかなげな紫陽花。
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くっきりと青い、花の紫陽花に出合いました。

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