7月△日
「東京駅行きの終電を逃しちゃったー。武蔵小金井駅行きの電車はまだあるので、それに乗り、駅からは……、歩いて帰ります」
というメールが末娘から届く。
すでに日付が変わっており、いったい帰宅は何時になるのだろうと気を揉んでいた矢先のことだった。
この春大学生になった末娘は、ダンスサークルに入って、わたしたちをびっくりさせた。自分でも思いがけないことに挑戦したかった、そうである。どうやら練習のあと、お腹がすき過ぎて仲間と何か食べていて終電を逃したらしい。
「何時だと思ってるの。昔わたしの帰りがこんな時間になったら、父にも母にもどんなに叱られたことか。二度と家から出してもらえなかったかもしれないよ!」
これは思っただけで、口にはしなかった。
こちらの思いは通じていると信じることにしたからだ。
武蔵小金井は、中央線の最寄り駅から下ること3つ先の駅で、1時間20分くらい歩けば家にたどり着く距離だ。昼間ならどうということもないけれど、深夜18歳女子を歩かせるのは、やはり心配だ。
そのとき家にいたのはクルマの運転資格を持たない二女とわたしのふたりだけであった。ふたりで顔を見合わせて、「行きますか」と同時に云って立ち上がる。自転車にまたがり、びゅんびゅん飛ばす。このところ徒(かち)に気持ちが向いており、自転車には無沙汰を重ねていたし、ペダルの回転数を上げることなどは、もっともっと久しぶりだった。かつてはひとたび自転車にまたがれば、娘たちから「ジェット婆(ばばあ)」と怖れられたわたしだが……。
あれは、2013年、武蔵野市の教育委員に就任してから半年が過ぎようとしていたころのこと。
吉祥寺南町にある第三小学校をあとにして、自転車で五日市街道を三鷹方面に向かって走りはじめたとき、彼方から早漕ぎの自転車がこちらに向かってくるのが目に入った。
同時期委員に就任したK氏であった。
「Kせんせーい」
どうやらK氏はこれから第三小学校に向かうらしい。
「山本さん、ハイスピード」
「Kせんせいこそ」
こうして自転車にまたがったまま、ふたりで吹きだした。
「わたくしども教育委員でございますから、もうちょっとおとなしく自転車に乗るのがよさそうですね」
「あはは、ほんとうに。いまも、青信号が点滅し、さいごは赤信号になっていたのに、無理無理(横断歩道を)渡ってしまいました。いかんですな」
「では、少なくとも、青信号点滅では道路を横断しないことを、ふたりでこっそり誓いましょう」
それから、すこうし道の上で気をつけるようになった。
あまり学校が好きでなく、すぐに家に帰りたくなるという子ども時代を持っていること、いまの学校で、子どももせんせい方もこれ以上がんばらなくていいと感じていることなど、いくつか密やかな共通点をわたしたちは持っていた。その後、事情があってK氏は委員を退かれたが、いまでもその共通点が大きな支えになっている。
青信号が点滅するのを見るたび、温和で愉快な教養人たるK氏との誓いを思いだす。
だが、今夜走りはじめた道は、電灯が切り刻んではいるものの、闇の世界だ。
二女とわたしはペダルの回転数を上げ、青信号の点滅も気づかなかったことにしてぶっ飛ばす。ああ、気持ちがいい。
「ジェット婆、健在だね」
二女の愛車ビアンキ(Bianchi/イタリアの自転車。二女のはクロスバイク)にわたしのママチャリを引いてもらう。それはつまり風よけができるという意味でもあって、くっついて走ると楽なのだ。
30分後、武蔵小金井駅前に到着。
自転車を3人で取りかえっこしながら、乗らないひとりは小走りというゲームみたいな有り様(よう)で帰る。所要時間50分。
夜空の低い場所に赤い三日月が浮かんでいた。家にたどり着こうとする瞬間、赤い三日月は、にやりと笑った。
7月△▽日
夫の敷き布団カヴァが裂けている。
この敷き布団を買ったとき、専用カヴァがちょっと高価であったため、予備ももとめず、洗い替えには苦心させられている。洗濯、となったら、カヴァをはがすより前に上に寝ているひとを引きはがし、朝も早よから洗って干さなければならない。
分厚い三つ折りたたみのマットレス様式の敷き布団で、朝がきて、布団の役目を終えるなり、マットレスはわたしのとふたつならべて置かれるのだ。ここに、端を縫った厚手の布をかけると、ソファのようになる。だた寸法を合わせて端を縫っただけなのだが、これはわたしの裁縫歴のなかで、もっとも輝かしい作品と云えるかもしれない。
しかし、そんな自慢話をしている場合ではない。
敷き布団カヴァが裂けたのだ。
当初夫はなぜだろう、裂けを隠そうとしたが、そのことに失敗すると、「ぼくが縫うからさー」とか何とか云いながら、カヴァをはずして、大きめのタオルケットを代用している。
自分の本棚の隅っこに隠すように置いてあるのをみつけて、ひろげてみると、カヴァの裂けはなんと、十文字に大きくなっている。早く申告すれば、ここまでにはならなかったはずなのに、男というものはときどきわけがわからない。
裁縫道具のひきだしを見ると、カヴァの色と同じアイボリーの細いバイヤステープがあった。こんなふうに、ぴったりなものがみつかると、背中を押されたような気分になるのは、わたしだけだろうか。
行くぞ。
食卓にミシンを置き、そこに、大きなカヴァをひろげる。裂けをバイヤステープで塞ぎながら、がーっとミシンをかけてゆく。昨晩は自転車でぶっ飛ばしたが、きょうはきょうとて、ミシンをぶっ飛ばしている。
痛快! ジェット婆の夏がきた。
これが、ジェット婆の裁縫です。
走りました、カヴァの上をひたすらに。
……ひゅう。
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