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2018年2月の投稿

2018年2月27日 (火)

白い睫毛

 出かけるとき、いちばん面倒なのは化粧である。
 いちにち家に居られる日、わたしは化粧をしない。まったくしない。
 ところがちょっとでも家から出る日は、する。
 まず、10倍の拡大鏡をとり出して、化粧下地というものを顔に塗る。このときいつも、化粧するのとしないのとで、いったいどれほどのちがいがあるのか……と考えたり、化粧を施したってぺらぺら喋ったりもぐもぐやったりしているうちにたちまち化けの皮が剥がれるのに……と考えたりする。
 そんな思いを抱きつつも化粧をつづける。
 所要時間は10分。かつて、もっと素早く簡単に終わらせていたのだが、「もっとていねいに!」と娘たちから注意され、3分で終わらないように気をつけるようになった(のろのろしているだけかもしれないのだが)。
 化粧の仕上げは口紅だが、それを塗り終えたとて、
「おお、キレイ!」
 なんていうことに、なりはしない。
 それでは、なぜするのだろう、化粧。

 礼儀を考えての、こと、だ。

 行く先で出会うひとたちへの敬意と云ってもよいかもしれない。
 髪も、化粧(メイク)も、服装も、少しずつ気を入れて準備して出かけることで、礼儀やら敬意やらの基準を一応満たすことができるのではないだろうか。
 玄関で見送ってくれる家人がいるときは、「ね、変じゃない?」とか「おかしくない?」という具合に、相手の眼を覗きこむようにして確かめる。
 娘に「うん、変じゃない!」と云ってもらえると安心するが、夫が「変じゃないよ」とか「おかしくないよ」と云うと、わたしは吠える。
「変かどうかは、聞いてないのよ」
 こんなとき夫は、毎度はっとしたような顔になり、しどろもどろで云う。
「とてもいいよ」
「……ふん!」

 今朝拡大鏡に向かっていたときのこと。

「きゃ!」
 そういえば、初めて拡大鏡を使うようになった日にも、同じように声を上げたのだった。ショックだった。シワ。浅からぬほうれい線。シミ。ああ、これから毎日「きゃ!」と叫んだりするのかしら。それはいやだと思っていたのだが、すぐと慣れてしまった。
 それがどうして今朝「きゃ!」であったか。
 白い睫毛(まつげ)をみつけた。
「白髪?」
 毛抜きを使って抜きながら、しみじみした。
 こうやってだんだんだんだん、お婆さんになってゆくのだな。
 やさしいシワの刻まれたお婆さんになれるように、いまからいい具合のだんだんだんだんの波をつくろうっと。そう思った。

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睫毛とは関係のないはなしです。
前にも見ていただいたことがある
階段の踊り場の長ねぎです。
1本1本くるんで置いていたのでしたが……
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ことしのはじめから、
古新聞でサックをつくって、
サックは使いまわしをするようにしています。
これ、なかなかいいんです。
熊谷のちちの丹精の長ねぎですからね、
こうして、大事にサックを穿(は)かせて……
こんなときのよろこびも、
「だんだんだんだん」のなかの一場面かもしれませんね。

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2018年2月20日 (火)

珈琲日記

 こうして机に向かういま、右前方に珈琲が湯気をたてている。
 仕事をはじめる前に自分で淹れたもので、こういうときの珈琲は、仕事への導入の合図みたいな役割を果たしてくれる。ちなみにブラック珈琲だ。若いころは珈琲を飲むときには必ずミルクを入れたものだが。
 珈琲とミルクというと、その昔、向かい合って珈琲を飲んだ恋人の癖を思いだす。
「珈琲はさ、アイスもホットも、ミルクを入れたらかき混ぜたりしちゃいけないんだ」
 とそのひとは云い、わたしは「そんなものか」と思った。
「かき混ぜたりしちゃいけないんだ」というのを、わたしはいまも守りつづけている。珈琲にミルクを注ぎ入れても、スプーンでかちゃかちゃ混ぜない。それが優雅に思えたし、ともかくずっとそうしてきた。こんなふうに思い出は、かけらとなってひとの日常をそっとかためてゆくんだわ……。
 じつはずいぶん長いこと自分は珈琲よりは紅茶党だと思っていたのだが、珈琲豆を売る店に通ったり、珈琲通と親しくなったり……、わたしの生活には珈琲の香りが、いつもかすかに漂っていた。
 そうだ、最近も珈琲をめぐり、こんなことがあった。
「珈琲を飲むと、ぶつぶつが出てきて、気持ちがわるくなるんですよ」
 これは仕事仲間のK氏からの打ち明け話だ。
 それは大変。そう思ってついこのあいだも、K氏の前に置かれた珈琲をそっとかわりに飲んだのだ。自分の分も頂戴したので、お腹が珈琲でたっぷんたっぷんになったのだが、そんなことはかまわない。K氏が飲めば、蕁麻疹(じんましん)のようなものが出てきて、どうにも具合がよろしくなくなるというのだから。
 そうして出先で供されるお茶や珈琲を、軽く考えないという共通性が、K氏とわたしの仲間意識をつくってもいる。

 ここでとつぜん思いだした。

 8年ほど前、ある雑誌から珈琲について書いてほしいと頼まれたとき、考える間もなく映画「ドライビングMissデイジー」※の一場面を思って、それを綴ったことを。
 思いだしたのはこんな場面だ。
               *
「アデラの淹れる珈琲は、うまかった」(ホーク/以下ホ)
「ビスケットやチキン料理はまねできるけど……、珈琲はまねできない」(デイジー/以下デ)
「まったくです」(ホ)
「アデラは、幸運だった」(デ)
「わたしも、そう思います」(ホ)
               *
 映画の舞台はアメリカ南部(19481973年頃)。
 ユダヤ系の老婦人デイジーと黒人の運転手ホークのあいだに芽生えた友情のものがたりである。
 好きな映画10本に入る作品だ。なかみを明かすわけにはいかないけれど、アデラのはなしは、ちょっとだけさせてもらおう。そうでないと、珈琲のはなしが伝えられないから。
 アデラは、デイジーの家で長年メイドとして勤めた黒人の女性で、人柄のよい、すぐれた働き手だった。そんなアデラが急死したあと、デイジーとホークのあいだで交わされたのが掲出の会話だ。
 映画を観ながらわたしは思った。
 珈琲を淹れるとなったら、珈琲に打ちこむ。それが幸運を呼ぶのだわ、と。

※「ドライビング
Missデイジー」1989年アメリカ
 ブルース・ベレスフォード監督 
 Missデイジー=ジェシカ・タンディ 
 ホーク=モーガン・フリーマン

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先週見ていただいた茶箱の卓です。
こんなにしてちょっと珈琲ブレイク。

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気に入りのカップ&ソーサーです。

紅茶店カレルチャペック製ですから、
本来紅茶をたのしむ茶器なのかもしれませんが、
もっぱら珈琲をたのしんでいます。
ソーサーのうさぎさんが、かわいいでしょう?

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2018年2月13日 (火)

ぜいたく

 夕方、家のなかにひとりになった。
 外での仕事から早足で戻り、さあ、晩ごはんの仕度にとりかかろうとしたとき、帰宅が3時間ほど遅れるという三女の書き置きをみつけた。
 書き置きを持ったまま、腰を下ろす。
 晩ごはんはつくるにはつくるけれど、急がなくてよいというわけだ。
 手を濡らす前に、手紙の返事を1本書こうか、書類の整理に30分取り組もうかと思ったが、やめた。それというのも、しなければならない気配の漂う事柄に立ち向かうにはちょっとばかり気力が不足していたからで、もうちょっとちがう何かを、と思いめぐらす。何気なく引き出した冷蔵庫の野菜室のなかに、それはみつかった。

 もやし!

 もやしのひげ根とり!

 若いころはもやしのひげ根のことなど、少しも考えなかった。

 もやしにひげ根があるのを知らないことにしていた、と云ってもいい。
「ひげ根をとると、見た目も口当たりも保存もよくなります」と本に書いてあっても、ひとから聞いても、もやしのひげ根? そりゃ何のこと?というふうにとぼけてやり過ごした。
 もやしのひげ根を思うようになったのは、50歳代の半ばのことだ。ある日とうとうもやしのひげ根に目を向けて、ぱきっとやると、これがなかなかおもしろい。おもしろいし、もやしがご馳走になる。おいしいのだ。ひげ根をはずすだけで。
 以来、もやしを求めるたび、ひげ根をとれるかとれないかを考えるようになった。とれたらうれしいが、とれないかもしれない。ひと袋分のもやしのひげ根とりには、けっこう時間がかかるからだ。
「たとえとれなくても自己嫌悪などには陥るまい」
 そう自分に云い聞かせてから、もやしを買うようになった。
 こんなことに気持ちが傾くようになったのかと思うと、くすぐったい。
 この日も時間を計ったら、ひと袋のもやしのひげ根とりに35分かかった。
 ぜいたくな35分間。
 ひげ根をとったもやしでつくったサラダは、何とも云えずおいしかった。こういうことをぜいたくだと思い、幸せと呼ぶことができるのは、わるくない。

 ところで、はずされたひげ根たち。

 そこに向かって傾いてゆきそうになる気持ちを、わたしはくいっとひっぱっている。婆さまになるとは、これまでは無益としていた領域に傾くということなのか。

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ことしのはじめ、茶箱をじっとみつめました。
なかには、正月の飾り、ひな人形、
年中行事の道具類がしまってあります。
それはいいけれども、これを別の何かにも、
使えないだろうか。
と思いめぐらしていたのです。
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柿渋を塗って、
カフェテーブル風にしました。
子どものころから使ってきたお茶箱を
塗っているときにも、
ああ、なんてぜいたくな時間……と、
思いましたとさ。

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2018年2月 6日 (火)

目と鼻とバケツと

 めまぐるしい1週間だった。
 もしかしたら……、もしかしたらことしから数年のあいだ、わたしの人生は少しばかりめまぐるしくなるのかもしれない、という予感にも似たものに怯(おび)えながら、ひとつひとつの予定に向き合った。
 会議へ。会合へ。視察へ。研修会へ。取材へ。
 1泊2日の出張を含んではいたが、たいてい家には帰ってきていたのである。が、めずらしくひとりであちらこちら動きまわった1週間は、帰宅しても何だか落ちつかず、まるで旅先にいるかのようであった。
 初めての土地でもたついたり、降り立ったことのない駅で標示を睨んだり。わたしを怯えさせたのは、そうか、約束の場所に向かう経路に対してだったのか。こうしてやっと落ちついて自分の机に向かういま、「移動にちょっと自信がついたな」とふり返る。
「移動」はわたしの弱点だ。その場に行き着きさえすれば何とかなると信じているのだけれど、行き着かなければ、はなしははじまらない。

 つづけざまの移動は、まるで特別訓練のようであった。

 しかしながら、迷いそうになるたび、時宜を得た案内の手が差し伸べられ、無事に移動し、目的地で約束を果たすことができた。
 困ったらすぐひとに訊こうと決心していたのだが、駅の標示は親切だ。おそらくは外国人旅行者への配慮が加わり、標示全般が見直されたのではないだろうか。関西では難なく移動したのに、家から近い味の素スタジアム(京王線飛田給駅)に向かう交通がもっとも複雑で、悩ましかった。
 そうだ、大阪ではこんなことがありました!
 大阪駅に向かうため京橋駅のホームで、大阪環状線に乗りこもうとするとき、ブロンズの老婦人に「ダズ ディス電車 ゴー トゥ オオサカ?」と尋ねられたのだ。
(ディス電車って、なんじゃ、そりゃ)。
「ディス電車 ウィル ビー ゴー トゥ オオサカ」

 めまぐるしい1週間が過ぎたとき、玄関先でわたしを待っていたのは、黒豆2個、ひしゃげたような軽石1個、それにちっちゃなおもちゃのバケツだった。

 ああ、あなたたちは……。
 雪だるまの目と鼻と、帽子のバケツだね。1月22日に東京に降った雪で、わたしがつくった雪だるまは溶けてなくなり、目と鼻とバケツだけになった。大事なもんが残ったなあ。また雪が降って積もるようなことがあったなら、雪だるまをつくって、これをつけてやろう。

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黒豆の目玉さんは、
雪の水分を含んで、ふくらんでいます。
おいしそうになってます。

もう一度くらい、

雪だるまがつくりたい(小声)。

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