« 2018年3月 | トップページ | 2018年5月 »

2018年4月の投稿

2018年4月24日 (火)

トミーからの伝言

 ことしもこの季節。
 静岡県三島市三嶋大社お向かいにある「大社の杜(もり)」に出かけた。
 ここで開催される「ブックフェス2018」に参加するために。
 昨年は、長女の梓が営む「アズアズ書房」にくっついて物見遊山気分で出かけたのだが、ことしはわたしひとりだ。
「アズアズ書房」は移動古書店で、店主としては寅さん(映画「男はつらいよ」)のテキ屋稼業もイメージしている一方で、これはという文庫本をあつめているところは実直で、そこのところは「ちょっと寅さんとはちがうのだ」と考えているらしい。
 袋に文庫本を入れて封をし、ならべる。つまり、どんな本が入っているかわからない。陽に透かしたって見えはしない。袋に書いてある「新しい空気に触れたい」「なつかしい日を思いだしたい」「勇気を出そう」ということばを手がかりに、お客となったひとはえいっとばかりに300円で買ってゆく。そう、一律ひと袋(1冊)300円だ。
 そんな梓の師匠である富永浩通(とみなが・ひろゆき)さんのことを書かなければ。彼の屋号は「放浪書房」。旅の本を扱っている。旅関係の本をそろえているというだけでなく、全国を旅してまわりながら集める本そのものが旅をして「ここ」にあるわけだ。旅する本たち。本には値段といっしょに地名の書いてある札がはさんである。
 誰も彼も富永さんを「トミー」「トミーさん」と呼ぶ。

 この日わたしは、三嶋大社にもひっぱってもらい、コミュニティ活動の場たる「大社の杜」にもひっぱってもらい、ちょうど1年前に知り合ったひとたちにもひっぱってもらい……、家から2時間半かけて「ここ」へやってきた。

 三嶋大社にお参りしてから「大社の杜」に赴いたのだが、鳥居を背に道を渡るとき、「大社の杜はほんとうにあるのか」という気持ちにさせられる。こんなところもわたしの気に入りの場所であることをあらわしている。
「大社の杜はほんとうにあるのか」
 ありました。
「大社の杜」のスペースも、スタッフも、そうしてそうしてトミーさんも入口近くで「放浪書房」の店を開いている。
 ブックフェス2日目の朝のことだ。
 トミーさんが「ふみこさん、ふみこさん」と手招きをして云う。
「今朝ね、本たちも屋台も、やっと機嫌がなおりました」
「機嫌がなおったって、きのうはどうだったの?」
「きのうはいじけているというか、ひねくれているというか、まったくうまくゆかなかったんです」
 トミーさんは笑っているが、その目は真剣で、ほっとしているようでもある。
「じつはここしばらく『放浪書房』を休んで、ほかの商いをしていたんです。そんなこともあって、ぎくしゃくして、きのうは本の動きがよくなかった……」
 そんなやりとりののち、トミーさんの商いの様子を眺めるともなく眺めていると、風がぴゅーっと吹いてきた。「大社の杜」はその間口に比して、奥深い。そんなこともあって、風の通り道になるのだが、風は複数の三角形の旗をあしらった木製の装飾(ガーランド)を揺らしてカタカタッと鳴らす。まるでカスタネットのようだ。
「うれしいうれしい」
 と鳴っている。
 そう云えば……1日目であるきのうも風はあったが、ガーランドは鳴らなかったな。
「きのうはいじけて音も立てないでいたのね」
 本の屋台を覗くお客さんたちとことばを交わす合間、トミーさんがおもしろいことをおしえてくれた。
 動かない(売れない)本というのがあるそうだ。その様子ときたら自分はずっとここに居坐ると決心しているような佇まい。
「それを動かして、ならべ方を変えてやると、いきなり売れてしまったりするものなんですよ」

 動かないときは動かす。

 これがわたしの何と重なるか、いまはまだ明言できないが、たとえば自分ののなかの動こうとしないでいる何かを動かしてやることができるかもしれない……? 
 胸のなかでガーランドが音を立てた。カタカタカタッ。

2018

「放浪書房」の屋台です。
トミーさん手づくりの屋台とガーランド、素敵です。
本を紹介するPOPも、読みものとしておもしろい。
今回わたしも、決心しました。
児童書を扱う「ふみ虫書房」を準備します。
本をあつめることを思うと、わくわくします。
どこかでお会いしましょう!

 

| | コメント (20)

2018年4月17日 (火)

ギギギ

「これだけはしない、と決めていたことがあります」
 とサイトウセンセイは云った。その場にいた100人近い人びとが、ぐっとを前に身を乗りだす。

 3月さいごの日、市のある公共施設でサイトウセンセイの講演会が開かれた。サイトウセンセイは市立中学の校長であり、この日、
40年間の教員生活を納められた。
 紳士だが、ちょっと親分風でもあり、風変わりで愛情深いサイトウセンセイに、これまで幾度質問やら相談を投げかけ、受けとめていただいたか知れない。
 教育委員を拝命した当時(いまから……5年5か月前)、「学習指導要領って何ですか?」「主幹教諭っていうのは何をするせんせいですか?」「ただでさえ忙しい学校に、研究(開発制度)は必要なんですか?」というような問いかけをできるのはサイトウセンセイだけだった、と云ってもいい。
 わたしの疑問に、センセイは静かに「これこれこうなんですよ」と説明してくださる。どんなとんでもない質問をしても「そんなことも知らないのか」ということばも気配もなし、むしろ「その視点はおもしろい」というくらいの構えではなしを聞いてくださる。こちらに向ける目はいつも笑っている……。
 そうだ、そのサイトウセンセイはおもしろがりなのだ。

 せんせいのおはなしは、
20項目。
自己紹介 
学校はBLACK? 
BLACK校則 
先生になるには 
いい先生 
当たり外れ 
相性 
これだけはしない 
勉強しなさい 
みんな……だよ 
SNS 
いじめ 
行事と部活動で3年間
校舎・制服 
確かな学力 
文武両道 
PTA 
進路 
クレーマー? モンスター?
武蔵野市立◯◯中学校(サイトウ先センセイさいごの赴任校)

 あっという間の1時間だった。

 そも1時間という設定がサイトウセンセイらしい。
「1時間もあればじゅうぶんでしょう」
 と笑い、まわりの誰が「もう少し長く! せめて1時間半お願いします」と頼んでも譲らなかったのではないか。みっちり1時間、20項目のおはなしはどこにも唸らされたが、ここには掲出の「(教員として)これだけはしない、と決めていたことがある」の項目を置かせていただく。
 サイトウセンセイ、何をしないと決めておられたのか。
「えこひいきと意地悪な指導」
 と、ひとこと。

 がつんとやられた。

 小難しいあれこれを想像していたからでもある。が、「えこひいきをしない。意地悪な指導をしない」と云われてみれば、それがすべて、のような気がしてくるのだった。
 そのとき、自分の決めごとの目盛りを指す針が、ギギギと左方に動いた。しばらく動かないでいたものだから、ギギギと擦(す)れるような、引きずるような音がした。左方というのはイメージだが、シンプル方面ということになる。
 御託(ごたく)をならべたり、ものごとをややこしく考える癖がついていた、と思わされての、がつん、ギギギだった。
 世のなかも、自分自身も、ひととのあいだも……、じつはもっとシンプルに構成されている!

 お福分けをもうひとつ。

「学校を休んだ子どもの保護者から、給食費を払っているのだから、給食を届けてほしいと云われました……、さて」
 というおはなし。
 ね、皆さんならどうしますか?
 サイトウセンセイはこう、云われたそうですよ。
「申しわけありません。中学校は給食の出前をしておりません」

2018w

新年度がはじまり、わたしにも
「新」がいっぱい降り注いでいます。
そんな日日のなか、
〈ひとり晩ごはん〉がめぐってきました。
仕事からの帰り道、
デパートの地階食品売り場に寄り、
こっそり鰻弁当を買いました。
登亭の、いちばんちっちゃな鰻弁当。
帰宅し、(誰も見てないのに)こっそり
食べました。
山椒の粉をいっぱいいっぱい振って、です。

〈お知らせ〉
とつぜんですが、来週三島にまいります。

4月
21日(土)午後2時から4時、
22日(日)午前11時から午後4時まで会場におります。
お近くの方、お立ち寄りください。
ちっちゃなちっちゃなトークもいたします。

大社の杜 ブックフェス
2018
4月22日(日)
山本ふみこブランコトーク13:00~(1時間) 「はっとする 練習」
山本ふみこブランコトーク15:00~(1時間) 「見えないものを見る 練習」

交通

JR東海道新幹線、東海道線「三島駅」より徒歩12分。
伊豆箱根鉄道「三島田町駅」より徒歩7分
くるまの場合、近隣の駐車場をご利用ください。
三嶋大社の向かい側!

大社の杜

4110853静岡県三島市大社町1852
でんわ0559750340

| | コメント (34)

2018年4月10日 (火)

焼き魚屋

「石焼き芋、お芋。甘くておいしいお芋だよっ」
 桜も散り、みどりが一気にあふれてきたこの季節に、焼き芋とは……。
 焼き芋の引き売り(いまはたいてい車だ)は秋から冬にかけての商売だと思っていた。春の宵(よい)、家のなかでその声を聞きながら、わたしは思いだしている。雑誌記者をしていた20歳代のころ、焼き芋屋のおじさんを取材したことがあった。
「焼き芋屋さんだったら、知ってる!」
 という友人の案内で、埼玉県の小さな町の古いアパートに焼き芋屋のおじさんを訪ねた。10月から半年間、ここに住みこんで焼き芋屋をしているとのことだった。
「出稼ぎなんだよ」
 とおじさんは、座布団をすすめてくれながらこともなげに云った。
「出稼ぎ……。 農家ですか?」
「そう、山形の米農家。もう20年も、1年の半分は焼き芋屋やってるの」
 当時、わたしがどんな原稿を書いたのか、記事も残っていなければ、記憶も曖昧(あいまい)だ。ひとつ印象的だったのは、おじさんから出稼ぎの苦労話は聞かれず、しっかり稼いでとっとと帰る、という目標が際立っていたことだ。
「いろんなことがあるだろうけれど、御託(ごたく)などならべず、ただ一所けん命働く大人はかっこいい。わたしもそういう大人になろうっと」
 そう思った。
(さて、そうできているだろうか)。

 春の宵、仕事に区切りをつけ、がばっと立ち上がる。

 買いものをしておこうと思い立ったのだ。出不精わたしには、がばっという勢いが必要なのだ。がばっと立ち上がってそのまま靴を履いて出る。近くのスーパーマーケットへ。
(財布は忘れずにね、ふみこさん)。
 スーパーマーケット脇の駐車場の前に、焼き芋屋の車が停まっていた。
「石焼き芋、お芋。甘くておいしいお芋だよっ」
 焼き芋という気分ではなかったのも確かだが、それより何よりもしもこのお芋屋さんが出稼ぎのひとだったとしたならば、「もう、とっとと故郷に帰ったほうがよくはないか」という過剰なる思いが湧いたりするだろう。それが面倒でわたしは客にはならなかった。焼き芋から目を逸らしたのだ。
 スーパーマーケットでは豆腐と納豆、牛乳、卵を買うつもりだ。忘れっぽいのでいつもなら箇条書きにした紙を持って出るのだが、この日はこう呟きながら歩いてきた。
「とうふ・なっとう・ぎゅうにゅう・たまご」
 焼き芋屋とすれちがい、ふと記憶が揺らいだが、すぐと立て直す。
「とうふ・なっとう・ぎゅうにゅう・たまご」
 無事に目当ての4つをかごに納め、さかなコーナーを通過したときのことだ。視線を感じた。ぎろっというほどのつよい視線。
 恐る恐る源(みなもと)をたどると、それは鰺(あじ)であった。
 たたきにするによさそうな光る鰺が、澄んだ目でこちらを見ている。
 今し方焼き芋から視線を逸らせたわたしだったが、鰺にはそうできなかった。つい、3尾かごに入れる。塩焼きにしたかった。
 帰り道、すでに焼き魚に対する不安が胸のなかにひろがりはじてていた。それをごまかすため、歌う。
「焼き魚、お芋。香ばしくておいしい魚だよっ」

 やはり……、この日の焼き魚はいまひとつであった。

 どうもわたしは焼き魚がうまくできない。
「焼き魚は、行きつけの飲み屋で食べることにしているの。自分ではうまくできないんだもの。たとえばのどぐろなんか手に入れたとしても、安くないからさ、失敗したら目も当てられないじゃない?」
 という友人もある。
 わたしだってそうしたいが、家族をぞろぞろ引き連れて焼き魚を食べに行くなんてのは、いかにも嵩張る。
 そんな優雅なはなしは、実現するとしてもまだ先のことだろう。
 で、あさり、玉ねぎ、トマトとともに鰺を「アクアパッツァ」風に蒸し焼きにした。蒸し焼きだから仕方ないが、ほんとうは焼き目のついた鰺が食べたかった……。
 ああ、焼き芋屋みたいに、焼き魚屋があったらいいのに。

2018_4

おすすめの本をご紹介します。
『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』
(矢部万紀子/ちくま新書)
作者の視点に共感しながら、
うんうん頷きながら読みました。
「昔から好きだった朝ドラだが、
この10年ほど、ますます熱心に観るように
なった」という万紀子さん。
本書を通して、朝ドラへの思いを通して、
自分の生き方や、嗜好のようなものが
見えてくる見えてくる……
久しぶりに愉快な読書をしました。

| | コメント (23)

2018年4月 3日 (火)

貧乏くじを引キ・マ・ショ・ウ

 とうとう2018年度の扉が開いた。
 早春がやってきて旅仕度を解くや、「変化」はいきなりじわじわと寄せはじめ、仕舞いには一気にわたしを飲みこむかに思えた。
「変化」の予兆を感じたとき、予想したのは、まずはうろたえ泣き叫び、けれども結局それを受けとめてとぼとぼと歩きだす自分の姿だった。
 ところが。
 そうはならなかった。うろたえはしたのだが、泣き叫ぼうとしたら、その対象たる……「旧」(と呼ぶこととする)の姿はもうなかった。見事なまでに潔く去っていってしまい、追いすがることすらできなかった。用意したハンカチーフを1枚として濡らす遑(いとま)なく、わたしときたらぽかんと口を開け、ただ突っ立っていた。
「なんだこりゃ」
 そう呟かずにはいられなかった。

 呟いたら、目がくわっと開いた。

 涙は……出なかった(これはちょっぴりうそ。こみ上げるものとは闘った。闘って、引き分けというくらいの感じだ)。
 4月から全身全霊で。
 と、思った。

 年度替りという時期はさびしく、きびしい。

 去る者あり、残されて責任の重さにおののく者あり、だからだ。
 残される立場であるこの春のわたしの胸のなかに、芽生えたことばがある。

「貧乏くじを引キ・マ・ショ・ウ」


 再度「なんだこりゃ」と呟くわたしには、このことばとの対面に得心がゆくのだった。能力、志、実行力、あらゆる面において不足を突きつけられるわたしが、何とかかんとか生き延びてこられたのは、貧乏くじのおかげだと思うからである。

 これを迷わず引きつづけてきた。
 そうしてそのことがわたしを鍛え、慰め、少しばかり実力をつけてくれた。
 今年度は、気を入れて貧乏くじを引こうっと、と思っている。
 似た者同士とも云える皆さんの耳元にも、ささやきますよ。
       〈貧乏くじを引キ・マ・ショ・ウ〉

2018_2

夫が熊谷から写真を送ってくれました。
(週の半分、両親の生活を見守りながら
熊谷で暮らしています)。

2月下旬に植えたブルーベリーの挿し木に葉っぱが生えました。
ということは根っこも生えたということ。
ひょろひょろとした枝がほんとうに苗木になるのかと
不安でしたが、葉っぱと根っこが生えたら立派な苗木です。
4月中旬、一本ずつ鉢に移植して育てます。
3年か4年後、実ををつけてくれることを祈って」

| | コメント (31)