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2018年5月の投稿

2018年5月29日 (火)

愛のあるところには……其の2

 新宿駅から湘南新宿ラインのグリーン車に乗りこみ、わたしは熊谷駅に向かっている。
 グリーン車と云っても、780円を奮発するというわたしの贅沢の許容範囲であったし、2階建ての下の車内においてもマルティン・アヴデーイチの助けを借りてこれから自分が向かう世界を思うことができた。
 マルティン・アヴデーイチとは如何なる人物であるか。
 レフ・ニコラーエヴィッチ・トルストイ(18281910)の「愛のあるところには神もいる」の物語の主人公である(岩波少年文庫『イワンのばか』収録/金子幸彦訳)。靴屋のマルティンは地下室の、窓のひとつしかない小さな部屋に住んでいる。窓からは往来を行き来する人びとの足が見える。
 マルティンには靴を見るだけでわかるのだ。靴の底を取りかえたもの、つぎをあてたもの、縁(へり)を縫いなおしたものもあれば、つま先を付け替えたのもある。
 ホームではひとの足が見える階下の車内では、自分がマルティンになったようで、1時間9分の旅はあっという間に終わった。
 熊谷駅に到着し、くるまで迎えにきてくれていた夫運転のくるまに乗りこむ。

「来たよ」

 と云う。
「来たね」
 と返される。

 熊谷で母の入院を見守り、ちちの日常に寄り添い、農業を援(たす)ける暮らしをしながら映画の仕事をしている夫は、いま、ちょっとわたしにはまぶしい存在だ。この生活がはじまったのは
1年前だが、当時はまだ、こちらの生活が主体であり、夫には、わたしの協力をこそっとその肩にのせて熊谷へ送りだしているつもりであった。
 だが、ははが二度目の入院をしたいまとなっては、夫の熊谷滞在が主体となり、わたしの協力は肩先にのせるくらいでは足りない状況となっている。
 そうは云っても、東京にいなければ果たせない度合いの増しているわたしの仕事と役割は、夫を助けようにもそれを許さない。
 
 その日見舞うと、はははちょうど夕食を摂ろうとしているところだった。

 手を出そうとするわたしを制するように、右手に握った匙をそっと振って見せた。
「ダイジョウブ。器にも工夫があるから、自分で食べられる」
 そう云って、ははは五分粥、鶏ひき肉のそぼろ煮、ほうれんそうのおひたし、かぼちゃの甘煮を残さず食した。海苔のつくだ煮の入った小袋を手で切って、なかみを五分粥の上に絞りだすということだけは、手伝わせてもらった。
 ひとという存在に許されていることの意味をおそわったような気がして、泣きそうになった。時間をかけてははの足をマッサージし、またこれをしに来ようと誓う。
 家では夫とちちのためにおかずのつくり置きをしようと考えていたのだが、これまた夫に「ダイジョウブ。それはぼくがする」と云われてしまった。
「それはぼくがするから、アナタは親父の話し相手をして」
 ちちは、夫からストップがかかるまで2時間わたし相手にはなしをしてくれた。これまで聞いたことのない昔のはなしはおもしろく、夫に止められなかったら、朝まではなしをしていたかもしれない。

 弱くなった父母、ちちははを見たくないという稚拙な思いを抱くなか、ちちもははも、その存在を賭けて大切なことを示してみせてくれた。

 たしかに肉体は細り、体力は弱まり、記憶もところどころ薄れているのだが、魂はかがやきを増している。そうしてそのかがやきはわたしに向かって、「よく見ておきなさい」と告げている。
 わたしはまたしてもトルストイの物語を思いだす。
 マルティン・アヴデーイチが活躍するものがたり「愛のあるところには神もいる」とともに収録されている「人は何でいきるか」の一節が熊谷の寝台に横になったわたしのもとに、静かに降りてきたのだった。

 人は自分で自分のことを心配しているから、それでみんな生きてゆけるのだと思っているけれど、(中略)ほんとうは愛によって生きているのだ。愛のなかに生きる者は神のなかに生きている。


 何か助けになることをしたいと思って熊谷を訪れたわたしに、ちち、はは、夫は、身を以て伝えてくれた。

 愛があれば……と。
 こうしてわたしが助けられたのであった。

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夫が送ってくれた田植えの準備の写真です。
田植え機用の苗箱に種まきをしたあと、
発芽を促進する室(むろ)を作って、
籾種が芽を出すのを待ちます。
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出ました出ました。
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苗代に出してお陽さまにあてると、
たちまち青青としてきます。
熊谷の田植えは6月のはじめです。

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2018年5月22日 (火)

愛のあるところには……

 その日は土曜日で、朝から武蔵野市内の小学校に出かけたり、昼にはひと会ったり、めまぐるしく過ごし、わたしは……ほんとうにきょう、行くべき地に立てるのだろうか、と思いながらめまぐるしく……。
 その心配をよそに、わたしは午後2時10分、三鷹駅から中央線の乗客になり、新宿駅に向かった。
 新宿駅で湘南新宿ライン「籠原行き」に飛び乗る。このとき、自分にグリーン車を奮発したのは、「場面転換」の符号だった。降車駅は熊谷だ。

 農業。家のなかの、年中行事のあれやこれや。親戚や地域の皆さんとの交流。こうした事ごとに精出していた夫のははが脳梗塞で入院したのはちょうど1年前のことだ。
3か月の入院中リハビリテーションに励んで、かすかに左手足に麻痺を残しながらも、母は日常生活をとり戻していた。
 が、その後二度にわたって、脳梗塞の発作を起こし、このたび二度目の入院となる。
 ひとり暮らしになったちちと、農業を援(たす)けるため、夫が本格的に熊谷の家に暮らすようになってひと月が過ぎようとしている。
 この間、忙しかったのはたしかだが、ははにもちちにも会いに行きにくいこころが、わたしのなかに芽生えていた。日頃能天気を決めこんでいるわたしに、物思いが生じた。

 ははには堂堂としていてほしい。

 ちちには穏やかに、あってほしい。
 田は瑞瑞しく、畑は青青と、あってほしい。
 ブルーベリーも機嫌よく。
 蛙は元気に斉唱を。熊谷の家は風通しよく……。
 猫のタロウ(22歳)は気ままに食いしん坊を決めこんで……。

 それが一筋でも変化するのは嫌だー。

 なんて考え、脳内で叫んでいるおまえさんは、何歳(いくつ)の駄駄っ子かー。

 正直なところ、そんな稚拙な物思いのわたしであった。

 電車内の座席の上で、稚拙な自分と対峙。湘南新宿ラインのグリーン車は2階建てで、1階席は地階と呼んでもかまわないような高さに位置する。ホームでは、車窓からホームを急ぐ人びとの足が見える。
 わたしがこの湘南新宿ラインのグリーン車地階席が好きなのにはわけがある。トルストイの「愛のあるところには神もいる」(トルストイ作 金子幸彦訳/岩波少年文庫『イワンのばか』所収)の主人公マルティン・アヴデーイチというくつ屋の部屋を思わせるのだ。

 マルティンは地下室の、まどのひとつしかない、小さな部屋に住んでいました。まどは往来にむいて、そのまどからは、人々の通るのが見えました。見えるのは足だけでしたが、マルティンには、くつを見ただけで、はいているひとがだれであるかがわかるのでした。


 というのが書き出しだ。

 これを初めて読んだのは中学3年のときだったが(あれ? 2年だったかもしれない)、わけのわからない物思いに囚われる日、ふと書架から引っぱり出して読みたくなる。
 そのはなしはいつかすることもあろうというものだからここではしないでおくけれど、ともかく、マルティンの部屋を思わせるグリーン車にその日わたしは乗ったのだ。
 新宿からは1時間9分で熊谷駅に運ばれる。
                      次号につづく

W

つづきは来週書きますね。
熊谷ではこんなかわいい生きものも、
わたしを待っていてくれました。

里芋さんです。

里芋さんの芽。 

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2018年5月15日 (火)

思いつきを端から……

 久しぶりに終日家にいられる日だった。
 そうと決まったら、家から一歩も出ないでおこう……と、朝、誓いを立てる。買いものにも行かない。ポストまでだって行かない。誰に誘われたって、靴は履かない。

 さて、何をするか。

 するべき仕事は数本あるが、それは夜にまわすこととし、わたしにはしたいことがあった。何もとくべつなことじゃあ、ない。
 頭にひらめいたこと、思いついたことに端から手を付けながら日を過ごしたかったのだ。
 ひらめき、思いつきと云っても、これまたとくべつなことじゃあ、ない。
「そうだ、多肉植物の葉挿しの様子を見てやって、根が出て、子どもが育ってきていたら、土をかぶせてやらなけりゃ」
「靴の整理と靴磨き!」
「◯ちゃんにはがきを書こう」
 と、そんなようなこと。
 こういう事ごとは、外出のある日には実現しにくい。終日家に居られる日にするとしよう、ということになって、どんどんあとまわしになってゆく。

 その日いちばんにしたのは、アップリケづくりだ。

 掛け布団カヴァや敷布に、頭側のしるしとしてアップリケをつけるしごとだ。キルティング生地の茶のギンガムチェックをハート形に切ってつくる。これをブランケットステッチで縫いつけてゆく。これを思いついたとき、「これではないことを思いつけなかったかなあ」という考えが、ちらっと脳裏を横切った。
 でも、一度思いついたらやらないといけません。それが約束。
 生地を裁ちバサミでハート形に切るうち、わくわくしてきくる。ちくちくやっていると友人で刺繍作家のミカチャンの顔が浮かんできた。ミカチャンからすれば、こんなのは刺繍でもアップリケでもないだろうな、などと思いながらうかれている。5つのアップリケを縫いつけた。
 つぎひらめいたのは、白い布巾と白Tシャツ(長袖)の煮洗い。
 またしても「なぜこれを思いついた?」とかすかに自分を責めるこころの動きがあった。それには気づかなかったことにして、ホーローの煮洗いと染織専用の大たらいをとり出す。湯を沸かし重曹を溶き、白い布巾は10分、白Tシャツは20分煮る。煮ているあいだのわたしは、自分自身も大たらいのなかで煮洗いされている心持ちだ。
 黒ずんだこころもすっかり白くなりましたとさ。

 この日、ほかに思いつき実行したのは手紙書き3通、かたくなった長ねぎ
5本でねぎ味噌づくり、豚の角煮づくりだった。
 評価なんかしないでおこう。思いつきを端からやってゆく……というぜいたくを噛みしめたから、それでよし。

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アップリケ。
これを寝具の頭側に縫いつけると、
安心です。
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煮洗いちゅうのTシャツです。
洗濯済みのTシャツなのに、どんどん、
湯が茶色くなってゆきます。
煮洗いはほんとうにきれいになります。
匂いもとれます。

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2018年5月 8日 (火)

ブランコ 其の2

 久しぶりにブランコを漕いでみたいと出歩くたびきょろきょろしていたのだが、結局、この10日あまり、ブランコには出合わずじまいだった。ブランコをみつけにくい自分になったのかとため息をつきながら、ブランコそのものの数が減っているのかもしれないと考えてみている。
 かつてわたしが「膝小僧に赤チン」がトレードマークのお転婆だったころ、子ども世界のまんなかにブランコはあった。ブランコばかりではない。すべり台。ジャングルジム。砂場。そうした遊具や遊び場が、この30年あまりのあいだにだんだん端っこに追いやられている様子を見聞きしてきた。
 なぜか?
 それは簡単。
 ブランコもすべり台もジャングルジムも、その有り様(よう)、使い方にキケンな要素を秘めているからだ。砂場も不衛生だという。おもしろみのなかにだって、いろいろの要素は潜んでいる。というか、そこを避けたり乗り越えたりする知恵と免疫力を身につけるのが、子ども時代の大きな課題だった。

 その昔、昔も昔。

 幼稚園のさくら組時代のことだ。
 園庭で仲よしのクニオくんがブランコを漕いでいた。空に向かって大きく大きく漕いでいるのを見て、思わず駆けよる。それはもう勢いよく駆けよったものだから、クニオくんの足がわたしの顔を一撃した。がーんとやられて片方の目の上が紫色に腫れ上がった。泣いたのはわたしじゃない。がーんとやることとなってしまったクニオくんだ。
 いま考えても気の毒なことである。
 気持ちよくブランコを漕いでいる目の前に友だちが飛びだしてくるなんて、予想もしない事態だもの。わたしはそういう子どもだった。いまでもときどきしゃがみこんで泣いているクニオくんの頭を、目を腫らしたお転婆が撫でている光景を思いだす。
 その日幼いふみこちゃんは悟りましたとさ。
 困ったこと(とつぜん目を腫らすとか)は、自分の落度が招くという一面について、だ。
 それから数年経ってまたブランコだ。
 落ち着きがなくて勉強も好きでなかったし、運動もたいしてできなかった小学生のわたしは、ブランコを漕いで漕いで、さいごにぽーんと飛び降りることにかけてそうとう自信を持つわたしであった。
 ほかに自信などなかったから、何というか、その自信だけは大事にしていた憶えがある。ところが、あるとき、ブランコのまわりに柵のようなものがつくられるようになる。これがめぐらされると、ブランコを漕いで漕いで、さいごにぽーん、はできなくなる。一度柵の向こうめがけて飛んだこともあるが、柵に足がひっかかって惨憺たる結果だった。以来恐ろしくて柵のめぐらされたブランコからは、飛べなくなった。
 ふみこちゃんは悟りましたとさ。
 自信というものはある日とつぜん消えてしまうものでもあるという一面について、だ。

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歳になったわたしは、ブランコの前に飛びだしたり、ブランコを漕いで漕いで、さいごにぽーんと飛び降りようとしたりはしない。分別なのかどうかわからないが、しなくなったのだ。
 ただ、ときどきこんなことを考えている。
 ブランコを大きく漕いで、それは大きく漕いで、あとちょっとでブランコの支えの枠を超えてしまうのじゃないかというくらいまで漕ぐ。大回転になったりはしない。なぜなら、一瞬空中でブランコは止まるからだ。たぶん限界点なのだろう。空中で止まっているあの感覚というのがわたしのなかに根づいていて、ときどき、あ、いまの感じあれだ、と思うのだ。
 ごくたまのことになりはしたけれど、漕ぎに漕いで空中で止まることがある。

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アルバムにこんな写真をみつけました。
小樽時代の弟とわたし、
それを見守る父です。
1960年代のはじめではないでしょうか。
父はわたしたちにブランコを買ってくれ、
弟とわたしはいつも、これに乗って揺れていました。

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2018年5月 1日 (火)

ブランコ 其の1

 このところ、ブランコ気分でいる。
 風をきって、風をきって。
 ブランコがたてる軋みが不思議に心地よい。
 ゆれに合わせて、からだを逸らせてわたしは……。

 なぜそうなったかは、ほら、あれである。

 静岡県三島市の居場所空間(と、呼びたいとわたしは思っている)「大社の杜」で4月22日、ちっちゃなちっちゃなトークイベントをすることになったときのことだ。「トークイベントに名前が必要ですよね」というチーフコーディネーターの大塚徹さんからのメールに対し、咄嗟に「ブランコトーク」と返信した。これがトークイベントの10日前だから、行き当たりばったりにもほどがあるかもしれないけれども、わたしは最近、そういうテンポに思いを寄せている。
 それが許されるなら(しかたなくそうなる場合もある)、そんなゆるさのなかで起こる事ごとを噛みしめたい、という気持ちだ。

 ブランコトーク。

 われながらいい名前をつけたな、と思った。
 いしいしんじの『ぶらんこ乗り』が好きだからな。たしかにそれもある。「弟」が残したおはなしのノート。そのなかに嵐の晩、くり返し行き来して手をにぎり合う空中ぶらんこのりの夫婦が登場する。
「『ずっとゆれているのがうんめいさ。けどどうだい、すこしだけでもこうして』と手をにぎり、またはなれながら、『おたがいにいのちがけで手をつなげるのは、ほかでもない、すてきなことだとおもうんだよ』」
 こういう感覚が染みついていたのかもしれない。

 トークイベントをはじめたとき、「ブランコトークの『ブランコ』って何?」とトーク仲間であるトミーさん(富永浩通/放浪書房ほか)と、大塚徹さんにつっこまれた。

 自分の口から、するするっと出てきたのは「あの世とこの世」のはなしだった。
「あの世とこの世のあいだを行き来する感覚。それをブランコと名づけてみようかなという思いもあったの」
「……」(大塚徹さん/以下大塚)
「……」(トミーさん/以下ト)
「昨年母が旅立って、この世にはわたしの両親は存在しないということになりました。でもいまも、父とも母とも関係はつづいていて。たとえば父とは読書を通じて、母とは家のしごとを通じて、ね。それでそれは日日ブランコに乗ってあの世にいる父、あの世にいる母とのあいだを行き来している感覚なんです」
「あの世とこの世のあいだをブランコで」(大塚)
「それ、おもしろいね。そこからの、ブランコトーク?」(ト)
「まあ、ね。はじめにブランコということばありきで、いま、思いだしたというところかな。でも、その感覚はつねに持ってます」
「あの世とこの世のあいだをブランコに乗ってゆれている?」(ト)
「両親ばかりでなく、愛して止まない先輩たち、若き日に別れた友人、生前めもじはかなわなかった尊敬する人びとに挨拶するコーナーがうちにはあってね。そちらに行く日まで、こちらで一所けん命暮らしますって、毎朝線香を立てて挨拶しているんです」
「あの世に行くのがたのしみ、みたいに聞こえる」(大塚)
「ああ、わかってもらえてうれしい。そういう面がとてもあるの」

こうしてあの日から気持ちよくブランコ気分がつづいている。

                     「ブランコ其の2」につづく

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三島に泊まったときのこと。
朝のホテルの部屋から富士山が見えました。
窓越しですが、写真を撮ってみました。
「あの世」でも「この世」でもないような
朝の富士山でした。

皆さん、佳い連休をお過ごしください。

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