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2019年4月の投稿

2019年4月30日 (火)

峠の釜めし

「いいわけ」だろうか。
 いや、ちがうな。
「申しわけ」?
 それもちがう。
 少し持ち重りのする提げ袋を手にして、わたしは、あたまのなかにことばを浮かべては消し、また浮かべる、というのをくり返している。最寄である三鷹駅の高架改札の前を通過し、駅向こうのそこここで買いものをした帰り道である。
 帰り着いた家には誰もおらず、すぐさまひとり、買い集めたものそれぞれに居場所をつくる作業にかかる。包みを解いたり、いくつかに分けたり、バターなどは箱から出して、薄めに厚めに切って、専用の容器に納めたり。
 さあて、買ったものの行列はすっかりなくなった、これでよし。
 買いものというしごとは、難儀だ。
 決心して重くなりがちな腰を上げ、道順よろしく足を運び、持ちきれないようなことが起こらぬように、あきらめも混ぜこみながら進めてゆかなければならない。気を抜くと、これは慢心の意味につながるが、つい、欲張って、過ぎる。量を過ぎ、重さを過ぎ、ついには金額まで過ぎてしまう。
 その結果として、買いものから帰って、品物の整理をはじめようとする前に、何とはなしに、その日の心身の有りようをつきつけられて、ため息をつくことも、少なくない。

 この日は、ほどよく買ったように思えた。
 買ったものの行列がすっかりなくなって、と記したが、そこには小さなウソがある。紙の被りものを頭にのせた丼のかたちをしたものがひとつ、残っている。
 峠の釜めし。
 駅の改札横の店「ニッポンスタンダード」の店先でこれをみつけた。「ニッポンスタンダード」は、地元をはじめ、日本じゅうで愛されている食品、菓子、日用品を扱う店。この日のとくべつ売り出しで、信越本線横川駅の名物駅弁がならんでいた。
 買おう、とすぐ思ったが、ひとつだけ求めていいものかどうか、迷った。ひとつ買って帰ってひとりで食べるのか、と。
 つぎの瞬間、グラタンがひらめいた。
 グラタンをつくろうというとき、わたしはこの釜を使って焼いてきたのだが、割ってしまったものか、釜が4個になった。少なくともグラタンの釜は5個なくては、と思いついたのだ。
 峠の釜めしを提げて帰る道すがら、「いいわけ」とか「申しわけ」とか考えさせられていたのは、このせいだったが、わたしは家に到着してもなかなか、これということばをみつけらずにいた。
 とうとう辞書を出してきて「大義名分」と引き、これはちがうと思い、類語にあたって、やっとのことで「口実」にたどり着く。


 そうです。
 わたしは、グラタンの釜を買い足すという「口実」を得て、峠の釜めしをひとつ求め、それをひとりで食べました。

Kamameshi01
 峠の釜めし 1,080円也。
Kamameshi02

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2019年4月23日 (火)

火曜日は整理整頓!

「働き方改革」
 昨年(2018年)の後半から、このことばを耳にしない日、目にしない日はないほどだ。
 一括りに「働き方改革」と云っても、こちらの現場、あちらの現場で、働き方は異なる。働きの内容も、成り立ちも、実情も、みんな異なっているからだ。だから、それぞれ異なる「改革」が求められるということになる。

 先週、わたしは「学校における働き方改革」についてのシンポジウムに出かけて、基調講演、パネルディスカッションに接する機会を得た。
 わたしの住む東京都武蔵野市第五小学校の嶋田晶子(あきこ)校長せんせいが、パネリストのひとりとして登壇することになっていたので、わたしははりきって早く出かけてゆき、最前列に仲間の分の席もとっておいた。バッグ、提げ袋、手帖、風呂敷、スカーフ、受付で手渡された資料、化粧ポーチを置きながら、さいごにはブラウスを脱ぐことになりはしないか、と心配した。

 さて、ところで。
 さまざまな「働き方」のうちでも、学校は独特で複雑で、予定変更の多い職場だと云うことができるだろう。だいいち教職員の皆さんは、「働き方改革」は子どもたち(児童生徒)のために行うものだと考えていて、まずは、子どもに接すること以外の時間を見直そうとする。どうかどうか、ご自身の持ち時間についても、もう少し熱心に考えてくださいね。
 そうでなくても、社会が大きく変わろうとしているいま、学校の役割は大きくなる一方だ。会場の最前列で、「まったくのところ改革は一筋縄ではゆかないなあ」とため息をつきかけたそのとき。ひつのことばが舞い降りてきた。

「整理整頓はできていますか? どこに何があるか、すぐにみつけられますか?」

 これは、学校現場を調査したコンサルティング会社の研究員によるものだった。その場に坐っていた約2,000人のひとの頭脳が、シンプルな驚きと、シンプルな共感に包まれた瞬間となる。
 整理整頓。え? それは自己改革ってこと? という驚きと、整理整頓。日常の卑近(ひきん)な業務の効率化も大事ってことか、なるほど。という共感だ。
 整理整頓ができさえすれば、働き方改革は一気に進みます、というはなしではないけれど、いくつか存在する改革の鍵のひとつではあるというわけではないだろうか。
 たとえば、教員室で机上や棚に資料がどんどん平積みにされてゆき、「あ、いま、あなたが置いたそれは、大事な領収証ではありませんか? 何日かしたら、それを探すことになるのでは?」というようなことが、起きてゆく。
 あらゆるものを分類して、あるものは処分し、残すものをふさわしい場所にいちいち仕舞う。こういうことが元となって、事務能力がついてゆく。

 この日を界(さかい)に、事務能力について、もっと云えば事務能力の大切さについて、わたしは考えるようになっている。この世界に棲む人間ならば、誰にもそれは必要だ。職業のことを抜かして考えても、主婦の生活などは、事務能力が求められる最たる役割だと思える。
 この能力にも個性があり、もしかしたら格差のようなものも……、もし格差があらわれるとしたら、事務能力の大切さを思うか思わないかというところが分かれ道になるのではないか。

 そうそう、この日のパネルディスカッションにおいて、東京都の校長を代表して登壇したわが武蔵野市の嶋田晶子校長せんせいから、頼もしい発表を聞くことができた。
 1週間に一度日にちを決めて、すべての教職員総出の整理整頓の時間を設けているという。
「はじめます!」
 みんなして、処分するものは処分し、共有するべき資料を決まった場所に置き、それぞれ机や戸棚を片付けるそうだ。

 わたしだって、事務能力を大切に考えていますとも!
「火曜日は整理整頓!」
 ともかく、そう紙片に書いて、机の横のボードに貼りましたとさ。

Photo_1
これは使用済み切手です。
わたし宛ての封書(一部はがきも)の切手を
まわり1cm以上残し、
消印のおもしろいものは、
それも残して切り取って溜めておきます。
かごいっぱい溜まったら、
JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)に
送ります。これがアジアやアフリカの保険医療協力に
役立てられます。

整理整頓、事務能力を高めるという考えのなかに、
このような作業を位置づけておくことも重要と
考えています。

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2019年4月16日 (火)

あっぱれ

 携帯電話がじじじ、と鳴いた。
 横目で画面を見ると、長女の梓からのmailだ。
「サダコサンが、亡くなった。4月2日に」

 梓のご近所だった96歳のサダコサン。
 同じ間取りの昭和の文化住宅(以下、平屋と記す)が2軒2軒の並びで4軒建っており、そのうちのひとつにサダコサン、もうひとつに長女が住んでいた。
 玄関先で倒れていたサダコサンを梓がみつけて救急車を呼び、病院に送ったのは昨秋のことだ。それからしばらく入院生活がつづいた。
 ことしはじめに退院するも、平家に戻ることなく栃木県の施設に転居。梓とふたり、年度末の仕事がひと段落したら、訪ねようね、と話し合っていた矢先だった。

 夫を60歳台で見送ってから、同じ平家(ひらや)でひとり暮らしをつづけたサダコサンの日常は、娘の暮らしの手本だった。潔く、慎み深く生きよう。その上できっぱり自分の暮らしを確立する、誰がどう云おうとも。
 忘れもしない。いまから5年前。梓ひとり暮らしスタートの日、娘の引越しを手伝っていたわたしは、焼き海苔とみかんを抱えてきてくれたサダコサンと出会った。
「アッシは早寝だから、夜はあんまり役に立たないけれども、朝は早いからね」
 これがサダコサンの自己紹介。
 アッシは、あたし、の意味で、「シ」の部分は「チ」との混合の発音だった。
「サダコサン」と、わたしたちは呼びかける。
「サダコサンだなんて。下の名前で呼ばれるのなんて、何十年ぶりかねえ」
 そう云って、サダコサンはちょっと照れ臭そうに笑った。

 わたしにとってもサダコサンは恩人だったのだ。娘のご近所さんというだけでなく、ひとはいくつになっても堂堂と、好きなように生きられる。それを証明して見せてくれた存在だった。
 
 ことし4月のはじめ、小鳥や虫がわたしのもとにやってきていた。
 メジロの夫婦。ハエ。てんとう虫の子ども。バナナ虫(ツマグロオオヨコバイ)。何かを伝えようとしているみたいだな、と考えるともなく考えた。
 いつになく、こちらを気にして、すり寄ってくる。
 あとから、それらがサダコサンの合図だったように思えて、こころが波立っている。サダコサンに会いに行きたいとつよく念じていたから、その気持ちが届いて、旅立ち前に寄っていかれたのだ。そう思うことにした。
 
 サダコサンを甥御さん一家が送られたそうだ。
「手紙と、ついこのあいだ送ったばかりの桜満開のカードと、棺に入れてくれたんだって。泣」
 と梓からmail

 ひとの死を、わたしは以前ほど、悲しまなくなっている。
 悲しみ過ぎてはいけない、という声が、徒(いたずら)に悲しみに浸ろうとする自分をつよく戒める。「死」を貴べと、同じ声が云う。
 とはいえ、この世でのひととの別れがさびしくないと云えばうそになり、涙を流したりもするのだが、旅立ちを祝いたい気持ちが確かに発動するようになっている。
「あちらでまたお会いしましょう」

 しかし若い梓は、まだ、そうは考えないかもしれない。
 いまはうんと悲しみ、うんとさびしがったらいいとも思う。
 伝えてやりたいことがあるとしたら、これだ。
「あっぱれ、あなたはサダコさんの、いちばん若い、とびきりいい友だちだった」

Photo
虫たちだけでなく、
庭のハナニラもことしはたーくさん咲きました。
サダコサンの旅立ちを見送るように。

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2019年4月 9日 (火)

はっちゃき

 机に向かって仕事ではないことをする。
 手紙書き。読書。小物整理。珈琲。おせんべい。まったく急がない調べもの。どうでもいい調べもの。手しごと(紙関係、布関係、繕いもの)。揚句、庭にやってきた小鳥の声に耳をすませながら、うとうとしたり……。
 いけない、いけない。
 机に向かったら、はっちゃきになって仕事しないといけないが、どうしても寄り道してしまう。
 はっちゃき。
 このことばは何だろうか。
 わたしは使うが、考えてみれば誰かが「はっちゃき」と云うのを聞くことはなかった、ような気がする。もしや……と思って、机のまうしろにある書架から、背表紙に「北海道の方言集」の文字がうっすら読める古い冊子をひっぱり出す。
 またしても寄り道。
 ああ、あったあった「はっちゃき」。
 やはり、北海道弁だった。

【はっちゃき】熱中する。一心になる。

 北海道小樽市で生まれたが、4歳の終わりにはもう、東京に移り住んだというのに、わたしのなかには、生まれ故郷の残像がある。「はっちゃき」のように自分で、もしや……と気づくこともあるし、ひとから指摘されることもある。どちらにしても、思いがけなくて、そしてそして、こそばゆいほどうれしい。

 本日も、そうとうの寄り道の末、やっとのことで仕事に対してはっちゃきになったので、恐る恐る時計を見ると午前1時半だ。ついさっき時計を見たときには、午後10時だったのに。ここから、時計の針が0時をまわるあたりまでの時の進みといったら、どうだろう。速い、なんてものではない。
 あんなこと、こんなことをしていないで、さっさと仕事に気持ちを向けるべきだったかもしれない。
 日常に対してはっちゃきになる。年年その度合いがつよまるようだ。あちらへ寄ってはっちゃき。こちらに寄ってはっちゃき。仕事をしてはっちゃき。台所に立って、はっちゃき。
 そうしてわたしは、そんな日常のあれやこれやに優先順位をつけられない。どれも愛しくて、大事。

 眠るのも、日常の大事なので、そろそろ寝ます。

2019w
そしてきょうは朝いちばんで、
台所ではっちゃき、になりました。
大阪府八尾市に住む友人が、「若ごぼう」を
たくさん送ってくれました。
長い長い蕗みたいな茎に、短いごぼうみたいな
根がついています。
葉っぱも立派です。
「若ごぼう」の好きなところは、
葉も茎も根も、すっかり食べられるところ。
きんぴらは、茎と根でつくりました。
蕗とごぼうをいっしょに味わえる感じでしょうか。
えも云われぬ美味しさです。
「若ごぼう」大好き!
明日はかき揚げと、葉の煮びたしをつくります。

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2019年4月 2日 (火)

霊性

 ICICTAIと聞くたび、頭のなかにたよりなくこんな思いが立ち上がる。よろっと。

 ……じゃ、そういうことで。

 これはICICTAIの皆さんに対する思いなのだ。
「今後わたしたちの生活に、ますます影響を与えるコンピュータの原理を学び、あなた方に振りまわされたり、支配されたりすることなく、うまくつきあえるように努力しますよ」

 こんなふうに呟いてわたしは、「しかしね、」とつづける。
 そういうことであるとしても、しかし、である。
 あなた方を認める一方で、ひととして深まってゆかなければならない、という思いが「しかしね、」には、こめられている。
 ごく簡単に説明するならば、「学校で使う電子黒板はなかなかいい具合だけれども、ぼくは(わたしは)せんせいの板書のうつくしさに憧れます」というようなことである。
 ICTを使う道と、ICTに頼らない道が並行してあるということが必要になる。

 このあたりから、しきりにわたしは「霊性」について考えはじめる。
 宗教を超えた「霊性」はひとのなかに存在し、日常のなかに置かれるもののように思えてくる。神の問題か、と訊(き)かれれば、そうではない、とは云えないけれども、少しちがう。ひとのなかに存在する「霊性」を神と呼んでもかまわないかもしれない……、と答えるとしようかしら。
 ICICTAIの世界も「霊性」の世界も、等しく、ひとの目には見えないものだが、見えないそこへ向けてじっと目を凝らすときの有りようは異なる。

 たとえば、誰も見ていないから、インチキをする、というようなのは、霊性を意識して深まろうとするこころを踏みにじる。ちょっと複雑にこんがらかっているようだが、この宿題は大切も大切なのだ。こんがらかりつづけることにしたいと思う。

Ningyou01
Ninngyou02
寝室の書架の隅っこに、これが置いてあります。
長女、二女、三女が遊んだおもちゃです。
これを眺めては、しみじみします。
こんな感じ方が、わたしには霊性を考えようとするときの
(こんがらかってゆこうとするときの)入口だったりするのです。

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