赤いワンピースを赤く染める
したいこと。
しなければならないこと。
したほうがいいこと。
これが頭のなかでごちゃ混ぜになって、整理がつかなくなってくると、わたしは……「忙しくてやんなっちゃう」になる。
やんなっちゃうのは事態に、ではなく、自分の不整理に対して、である。こういうこと、いったいどのくらい積み重ねてきたことだろう。思えば、小学校のわたしも、まったく同じ理由で、すぐに「忙しくてやんなっちゃう」になっていた。本を読みたい。本を読みたい。宿題をしなければ。お手伝いもしたほうがいい。こうして、たちまち「忙しくてやんなっちゃう」だ。
中学、高校、短大時代も同じだ。
本が読みたい。昼寝したい。映画を観たい。宿題や小論文を片づけなければならない。(川崎のおじいちゃんとおばあちゃんの家に逃げちゃおうか)。学校行事の準備に参加したほうがいい……。こうしてまたしても「忙しくてやんなっちゃう」だ。
社会人になったら、結婚したら、母ちゃんになったら、本格的なる「忙しい」になる、とは覚悟していた。どう考えても自力で解決することがふえるからだ。自力ではどうにもならない事ごとに関しては、ひとに援けを求めたり、相談したり、そうして力を合わせて動くのには面倒が付きものであることだって、知ってはいた。しかも、気が向いたときに動けばいいという話ではなく、ひとと時間を合わせるのは、けっこう大変だ。これも、なんとなくわかっていた。
社会人になったわたしは……、主婦になったわたしは……、母親になったわたしは……、精神的にも能力的にも成熟して、ことの割り振りなんか御手のものだ。そう簡単には「忙しくてやんなっちゃう」なんてことにはならない。と、想像していた。
まさか、自分がいつまでもたっても、〈したいこと〉、〈しなければならないこと〉、〈したほうがいいこと〉と押しくら饅頭をつづけることになろうとは、その上始終「忙しくてやんなっちゃう」なんて呟いて嘆息したり、焦ってじたばたするなんていう有様は想像もしなかった。
だってそれじゃ、子どものころのまんまじゃん!
……失礼いたしました。
ええと、さて。
こうして今週もたっぷり「忙しくてやんなっちゃう」を経験するなかで、こんなふうに自分に云い聞かせたのだった。
「おふみ姐さん(亡き父が、わたしをときどきこう呼んだのだ)、こうなったら、ひとつずつ、順繰りにおやりよ。まず〈したいこと〉。2番目に〈しなければならないこと〉。3番目に〈したほうがいいこと〉。という具合にさ。で、また頭にもどって〈したいこと〉をするのさ」
それで、今週はこんなふうに日を過ごしてみている。
赤いワンピースを淡く染める〈したいこと〉 →原稿書き〈しなければならないこと〉 →買い出し〈したほうがいいこと〉 濃紺のシャツを濃紺に染める〈したいこと〉 →会議録を読む〈しなければならないこと〉 →礼状書き〈したほうがいいこと〉 →黒いシャツを黒く染める〈したいこと〉 →エッセイ講座の仕事〈しなければならないこと〉 →梅しごと〈したほうがいいこと〉。
長年の癖で「忙しくてやんなっちゃう」にはなりかかるのだ。口に出しても云っている。
「ああ、ああ、もう、忙しくてやんなっちゃう」
しかし、順繰りにしてゆくと、ひとつ終わったときにリレー競技のバトンのようなものが頭のなかに浮かんできて、ほい、とつぎの走者に渡すのだ。
つぎの走者と云ったって、おんなじわたしが走るわけだけれども、それでも、少しちがうのだ。
走っているあいだにつくづく気づかされたことがある。わたしには、〈したいこと〉、〈しなければならないこと〉、〈したほうがいいこと〉のあいだに、好き嫌いも、達成感のちがいもないということ。
はじめるまでにやけに時間がかかる、という共通性にも、驚かされる。
タイトルと文中の「赤い服を赤く染める」は、これです。
赤いワンピースの「赤」がどうもしっくりこなくなり、
黄みを消すため、深紅(しんく)の染め粉で染めました。
ついでにブラウス、ボレロ、スカーフも染めました。
「濃紺」のブラウスや「黒」のシャツ。
こちらは、もともとの色が褪(さ)めてきたなと
感じるたび、染め返すしごとです。
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