もの想い
秋の虫が鳴いている。
晩夏のころ虫が合奏をはじめると、こちらの胸のなかでは、もの想いがはじまる。このもの想いによって、わたしは季節のうつろいを噛みしめる。
昨夜も、机の前に坐って、庭でおこなわれている虫たちのコンサートに耳を傾けていた。関東地方、ことに千葉県に襲いかかるようにして通過し北上していった台風15号の被害を考えながら。富津市金谷で活動する友人たちの顔を思い浮かべながら。ことし知り合った千葉県の皆さんの記憶をたどりながら。
仕事の手を止めると、気にかかる事ごとがこうして、数珠繋ぎになって目の前を行進する。
ワタシニ デキルコトハ。
ワタシニ デキルコトハ。
そんなときだ。
庭の演奏が変わった。オーケストラの編成が変化したものか、天候が変化したものか、わたしの机まわりは今し方より複雑な調べに包まれる。
ふと、虫の演者たちは……と考える。
虫の演者たちは、練習するのだろうか、失敗するのだろうか、仲間同士うまくやれているのだろうか、とね。
コオロギの〈くさお〉はぼーっとしていて、仲間のはなしを聞いていない。
スズムシの〈おとめ〉は敏感すぎて、落ち着きがない。
キリギリスの〈ぐりた〉とクツワムシの〈しゅう〉のあいだには、いざこざがあるようだ。練習中も、すぐ揉める。
マツムシの〈いとこ〉は何でもすぐに忘れてしまう。
……なんてことがあるかどうか。
虫の世界のことはわからないが、人間のなかには、ある。たとえばコンダクターのもとにひとが集まっていたとして(オーケストラや吹奏楽団のはなしではなく、あくまでも比喩。念のため)、集団のなかには、集団に馴染みにくい存在がある。
時として馴染めないことがある、くらいの事態。生まれついた特徴がもとになって馴染めない状況が常にある、という事態。いろいろだ。
「インクルーシブ教育」の意味を正しく捉えたいと考えながら、「特別支援教育」の価値について説明することばを吟味しながら、揺れつづけているわたし。だからこそ、虫の合奏を聴いていても、「この集団には、異質な存在を排除するようなことは起こらないのか」なんて探るような耳になったりする。
どんな存在をも(たとえ、自分とは恐ろしく異なる気質、思想を持つ相手であっても)、わかろうとする、どこまでもわかろうとするわたしでありたい、ということだけが……、そうしてそんな存在とわたしが組み合わさった際には、一緒に困ろう、どこまでも一緒に困ろうというわたしでなければいけない、ということを軸としたい。
虫たちの演奏が聴こえなくなり、窓を開けたら、雨が降っていた。
「お願いします。雨はここで引き受けますから、いまは、千葉県ではあんまり降らないでください」
と、祈る。ヘンテコで、勝手な祈り。
けれど祈りは、わたしにできることのひとつだ。
このように、
もの想いをしているところへ、
友人ぴかりんから本が送られてきました。
ぴかりんが企画・構成を担当したこと本を読んで、
目からウロコのようなものがぽろぽろ落ちました。
子どもたちの「未来」を考える大人の存在の仕方、
これは大事だー、とあらためて思わされています。
親でもない、友だちでもない、
せんせいでもない、「そこ」にいるおばちゃんの
存在価値について、学ばせてもらいました。
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