あれれ?
自分のことを「弱っちい」と思っていた。
打たれ強いということばがあるが、わたしは全然そうじゃない、打たれ弱い!と思っていた。
勇敢は持ち合わせておらず、弱虫だ、と思っていた。
子どものころからずっと……。
強いもの、逞(たくま)しい存在にあこがれながら、そういうのは自分には無縁だと決めていたのである。
「とつぜんですが、この場で解説をおねがいします」
ふ)「わかりました。……まかせて」
「では、会をはじめます」
ふ)「皆さんごめんなさい。大事な資料をごっそり忘れました。でも大丈夫。いつもよりおもしろくやります」
「△×■∈∂⁂×××!!!」
ふ)「ご指摘、もっともです。ありがとうございます」
60歳を過ぎたころ(あとひと月で61歳であります)だ。
あれれ?と思うようになった。
いろんなことがあっても、あまり揺れない、平気でいる自分に気がつくのだった。
自分をずっと「弱っちい」と思いつづけてきたけれど、経験のなか、少しずつ強さを身につけてきたのかもしれない。強さというより、「平気でいる」感覚だ。もちろんびっくりもするし、ドキリともする。「ごめんなさい」の気持ちも湧き、「以後気をつけよう」という心構えも持つ。
だが、気持ちは平らで、どうということもない。
あれれ? である。
「あわてようよ、うろたえようよ、傷つこうよ、落ちこもうよ」と勧めにかかるのは、かつてのわたし自身だ。「だって、ずっとそうやって揺れてきたじゃあないの」とばかりに。
けれど、その誘いにはのらない。
いつ、わたしはかつてのようには弱っちくなくなったか。
それは、自分に云い聞かせるようになったからではないか、と思う。
「あわてるな」
「うろたえるな」
「傷つくな」
「落ちこむな」
あわてず、うろたえず、傷つかず、落ちこまず……、できるだけおもしろがって生き抜こう。とね。
じつは一昨日も、出先で不都合が生じ、あわてそうになったのだが、やめた。導かれた事態(まあ、4分の3は自分のしくじりのせいだったのだが)を、目をつぶって味わおうと決め、ちょっと笑ってみた。
「平気だい、」
うっかり者だからだろう、しくじりが少なくなく不都合にも始終陥る。そのたび「平気だい、」とつぶやいてから、細部(details)に気持ちを持ってゆくようにしている。
大枠(outline)でつまずいたら、細部に駆けこむ。揺れそうなこころをちんまりした手仕事に向けるのだ。
一昨日のしくじりのあとも、わたしは切手の整理をしたり、古雑誌や刷出し(本や雑誌の印刷前の調整のための試し刷り)をちぎって、ハガキに貼りつけたり。集中して2時間ほども机に向かっていた。
あれれ? と自分を見直したとき、人生の細部を愛するようになっていたことに気がついたのである。
大枠で失敗してもダイジョウブ、細部がわたしを抱きとめてくれる。
そうして、
夕方いつも白い百合を買う花屋に出かけ、
百合のほかに紅いバラを買いました。
こういうのは、細部の彩りです。
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