お金さん方、ありがとうございます
財布を開いて、なかを確かめる。
紙幣は、福沢諭吉、樋口一葉、野口英世のお顔が下向きになるように、それぞれ揃えて納める。
一方小銭は、五百円硬貨、百円硬貨、五十円硬貨の場所、それから五円玉、一円玉の場所を分けて入れている。
こうして夜寝る前に財布を整理し、かんたん家計簿をつけるのが日課である。お金を使い過ぎたような日も、まるで使わなかった日もあるけれど、どちらもうれしい。お金というものはじつにおもしろく……、大好きだ。
と、こんなふうに云えるようになったのはごく最近のことだ。
かつて、お金を怖がってでもいるかのような歳月が、わたしにはあった。
実入りが不安定だった時代もあったが、そんなときでも、すぐとお金を使いきってしまう。それを、自分で「お金を怖がっていた時代」とふり返っている。怖くて、手元に残しておけないというような。怖くて蓄えておけないというような。おかしなはなしだが、そんなことが確かにあったのだ。
お金、大好きだ、と思えるようになったきっかけは、「ありがとう」と思いながらそれを使い、「ありがとう」と思いながらそれを受けとる習慣を身につけたこと。お金と仲よしの友人がおしえてくれたのだった。
「お金をもらうときだけでなく、出すときも、ありがとうと云うこと。ふんちゃん、買いものをするときお店のひとにはありがとうと云うてるだろうけど、自分が出したお金にもありがとう、と云うといいよ」
それから「ありがとう」を守ってきたら、少しずつお金と仲よくなった。
さて、財布を開いて、なかを確かめていたとき、野口英世さんがこちらを見上げて、苦い顔をつくった(ように見えた)。
え、どうした、どうした。
引きだしてみると、下部が一部ちぎれていて、そればかりか、切れ目も入っている……。
これは困った。
この紙幣を、なんとかしなくては。こうなるともう、気になって仕方なくなる。翌朝、急ぎ気を入れて仕事を片付けるや、運動靴を履いた。近くの郵便局(本局)に出かけてゆき、ATM(現金自動預入れ支払機)で入金を試みるも、受けつけられない。
そうか、やっぱりね。
案内係に紙幣を見せて相談すると、「だいじょうぶ、お取替えできます」と請け合ってくれたので、番号札をとって、窓口前で順番を待つこととする。
30分も待ったろうか。
「この紙幣をATMで入金しようとしたけれども、受けつけてもらえませんでした。入金をお願いできますでしょうか」
通帳とともに、千切れて破けてもいる千円札をそっと差しだす。
若い女性行員は、紙幣をじっと見る。
「ちぎれた部分はお持ちでないですか?」
「いつの間にか、これを持っていたので、それはないのです」
それから数分待ったのち、「お預り金額」の欄に1,000と刻印された通帳を見せてもらい、一件落着。
ほっとした。
友だちの怪我の治療が済み、心配ないことがわかったというような気持ちだろうか。
晴れた気持ちで、ちょっと足をのばして、最近歩いていなかった商店街を歩く。いつも間にできたのものだろう、一軒の中華料理店の客となる。ここで食べた塩ラーメンとミニ麻婆豆腐丼のおいしかったこと。おいしいだけでなく、盛りつけもうつくしく、うっとりする。……ごちそうさま。
10年ほど前には日常的に通っていたなつかしい店で買いもの。
文具店でボールペンの替え芯を求めながら、「文房具の種類が増えに増え、在庫を持つのに苦労する」というはなしを聞く。なるほど、店内を見渡せば博物館にも見えてくる。よし、また、ここへ紙でもペンでも買いに来よう。
和菓子店では自分の分の大福と、家で仕事をしている長女にきんつばを求める。それと切り餅。
紙幣復活のおかげでかなった、思いがけない散歩。
散歩というよりも、それは小さな旅のようでもあり、財布をひきだしに戻しながら、「お金さん方、ありがとうございます」と云わずにはいられない。
小さな旅から戻って庭を見ると、
梅の花がいっぱい咲きはじめていました。
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