よんぴる 〈2〉
紙が机からひらりと落ちました。
落ちながら、紙から何かが起き上がりました。そして、はがれてゆきました。
そうです。何かがはがれて、すっと机の下に吸いこまれていったのです。このことをツカサはまだ知りません。
その日、パパとぼくがパスタを食べ終え、ぼくが食器を洗い、パパが宿題ドリルの採点をしているところに、ママが帰ってきた。
ぼくはママの机に向かった。友だちのリュウイチなんだけどリュウイチじゃない、ちびの鬼みたいな男の子の絵をかくさなくちゃ。
机の上を見ると、平べったいえんぴつが置いてある。
あれ、絵は? どうしたんだった?
きょろきょろしているところに、ママがやってきた。
「キミはドリル、ここでやったんだね」
「うん、借りた。それから平べったいえんぴつも借りた」
「あら、なつかしい。それねえ、おばあちゃんから、仕事のお守りにもらったの。ヨン……、ええと、何だったかしら。あ、よんぴる。よんぴるだわ」
「日本のじゃないんだね」
「おばあちゃんに聞いてみて、よくおぼえてない」
ママが「よんぴる」と呼んだ平べったいえんぴつを持ち上げて3番めのひきだしにしまい、パスタを食べに行ったすきに、机の下をさがした。紙が落ちていた。
紙には……、紙には絵がなかったんだ。
いや、ちょっぴりだけど、あるには、あった。
紙のまんなかあたりに、しっぽがある。先を筆のようにふさふさにした、ぼくが描いたしっぽだけが、残っている。
あとは、どこへいっちゃったんだろう。消えたのかな。だとすると、どうして消えたんだ?
「おーい、ツカサ。ドリル、ひとつまちがってるぞー」
パパに呼ばれ、ぼくはしっぽだけになった絵を巻いて、居間のソファの大きなクッションの下につっこんだ。何がなんだかわからないな、と思ったけれど、算数のドリルの問題をやりなおすうちに、わすれてしまった。
翌朝、ママの叫び声で目がさめた。
「うわー、何これー」
眠い目をこすって台所に行くと、ママが何かを思いだそうとしている。
「ネズミの仕業?」
ひとつの答えを出したみたいに、つぶやく。
「ネズミって?」
パパが聞く。
「昔ね、実家にネズミさわぎがあったのよ。1匹うちのなかに入りこんで、砂糖や塩の袋をかじったり、くだものを食べたりね。吊るしておいたトウガラシも食べちゃったの。だれの仕業かって大さわぎになったんだけど、ご近所さんがネズミが出たって知らせてくれて、それでわかったの」
「え、ここにもネズミがきたの?」
ぼくにとってネズミとは、絵本や物語のなかの動物だというのに、家のなかにあらわれるなんて信じられなかった。
「でも、ネズミじゃないわね」
ぼくに向かってヤクルトの容器を差しだしながら、ママが云った。
ママが云うには、バナナとチョコレートだけだったらともかく、ネズミはヤクルトのふたをあけて、飲んだりはしない、しかも「これ、冷蔵庫に入れてたの」。
ぼくたちはネズミじゃない誰か、摩訶不思議(まかふしぎ)な侵入者を想像しながら過ごすことになった。侵入者は大胆にも、たなのなかのおやつまで食べたり、電気のかさにフキンをかぶせたり、ひきだしからタオルをひっぱり出したりするようになった。
いったいだれなんだ?
パパとママとぼくじゃない、誰かがこの家に住んでいる。相手のことを知りたいような、知りたくないような、何とも云えない感覚だ。ひとりでいるとき、ばったり会ってしまったら……。
ある日、ひとり、うちのなかで本を読んでいるとき、なんとなくひとの気配を感じた。
ちっちゃな声がした。
「しっぽは?」
声はたしかにそう聞こえた。
「しっぽを返しておくれよ」
しっぽって何だろうと、ツカサは考えました。
そのとき、ソファのクッションが目に入りました。何日か前、「よんぴる」とママが呼んだ平べったいえんぴつで絵を描いたときのことが浮かんできました。描いたはずの男の子の絵が紙からなくなっていて、しっぽだけが残っていた!
それをはっと思いだしたとき、ツカサの目の前を、風のように横ぎるかげがありました。
〈3につづく〉
東京の桜が満開になり、
そんなときに雪が降って少し積もりました。
写真は、雪が降りだす直前の桜の姿です。
桜の不思議。
雪の不思議。
ひとが手出しのできない事ごとを悟らされているようで、
この春、分厚いなあと感じています。
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