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2020年3月の投稿

2020年3月31日 (火)

よんぴる 〈2〉

 紙が机からひらりと落ちました。
 落ちながら、紙から何かが起き上がりました。そして、はがれてゆきました。
 そうです。何かがはがれて、すっと机の下に吸いこまれていったのです。このことをツカサはまだ知りません。

 その日、パパとぼくがパスタを食べ終え、ぼくが食器を洗い、パパが宿題ドリルの採点をしているところに、ママが帰ってきた。
 ぼくはママの机に向かった。友だちのリュウイチなんだけどリュウイチじゃない、ちびの鬼みたいな男の子の絵をかくさなくちゃ。
 机の上を見ると、平べったいえんぴつが置いてある。
 あれ、絵は? どうしたんだった?
 きょろきょろしているところに、ママがやってきた。
「キミはドリル、ここでやったんだね」
「うん、借りた。それから平べったいえんぴつも借りた」
「あら、なつかしい。それねえ、おばあちゃんから、仕事のお守りにもらったの。ヨン……、ええと、何だったかしら。あ、よんぴる。よんぴるだわ」
「日本のじゃないんだね」
「おばあちゃんに聞いてみて、よくおぼえてない」
 ママが「よんぴる」と呼んだ平べったいえんぴつを持ち上げて3番めのひきだしにしまい、パスタを食べに行ったすきに、机の下をさがした。紙が落ちていた。
 紙には……、紙には絵がなかったんだ。
 いや、ちょっぴりだけど、あるには、あった。
 紙のまんなかあたりに、しっぽがある。先を筆のようにふさふさにした、ぼくが描いたしっぽだけが、残っている。
 あとは、どこへいっちゃったんだろう。消えたのかな。だとすると、どうして消えたんだ?
「おーい、ツカサ。ドリル、ひとつまちがってるぞー」
 パパに呼ばれ、ぼくはしっぽだけになった絵を巻いて、居間のソファの大きなクッションの下につっこんだ。何がなんだかわからないな、と思ったけれど、算数のドリルの問題をやりなおすうちに、わすれてしまった。

 翌朝、ママの叫び声で目がさめた。
「うわー、何これー」
 眠い目をこすって台所に行くと、ママが何かを思いだそうとしている。
「ネズミの仕業?」
 ひとつの答えを出したみたいに、つぶやく。
「ネズミって?」
 パパが聞く。
「昔ね、実家にネズミさわぎがあったのよ。1匹うちのなかに入りこんで、砂糖や塩の袋をかじったり、くだものを食べたりね。吊るしておいたトウガラシも食べちゃったの。だれの仕業かって大さわぎになったんだけど、ご近所さんがネズミが出たって知らせてくれて、それでわかったの」
「え、ここにもネズミがきたの?」
 ぼくにとってネズミとは、絵本や物語のなかの動物だというのに、家のなかにあらわれるなんて信じられなかった。
「でも、ネズミじゃないわね」
 ぼくに向かってヤクルトの容器を差しだしながら、ママが云った。
 ママが云うには、バナナとチョコレートだけだったらともかく、ネズミはヤクルトのふたをあけて、飲んだりはしない、しかも「これ、冷蔵庫に入れてたの」。

 ぼくたちはネズミじゃない誰か、摩訶不思議(まかふしぎ)な侵入者を想像しながら過ごすことになった。侵入者は大胆にも、たなのなかのおやつまで食べたり、電気のかさにフキンをかぶせたり、ひきだしからタオルをひっぱり出したりするようになった。
 いったいだれなんだ?
 パパとママとぼくじゃない、誰かがこの家に住んでいる。相手のことを知りたいような、知りたくないような、何とも云えない感覚だ。ひとりでいるとき、ばったり会ってしまったら……。
 ある日、ひとり、うちのなかで本を読んでいるとき、なんとなくひとの気配を感じた。
 ちっちゃな声がした。
「しっぽは?」
 声はたしかにそう聞こえた。
「しっぽを返しておくれよ」

 しっぽって何だろうと、ツカサは考えました。
 そのとき、ソファのクッションが目に入りました。何日か前、「よんぴる」とママが呼んだ平べったいえんぴつで絵を描いたときのことが浮かんできました。描いたはずの男の子の絵が紙からなくなっていて、しっぽだけが残っていた!
 それをはっと思いだしたとき、ツカサの目の前を、風のように横ぎるかげがありました。
                                      〈3につづく〉

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東京の桜が満開になり、
そんなときに雪が降って少し積もりました。
写真は、雪が降りだす直前の桜の姿です。
桜の不思議。
雪の不思議。
ひとが手出しのできない事ごとを悟らされているようで、
この春、分厚いなあと感じています。

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2020年3月24日 (火)

よんぴる 〈1〉

 平べったくて長い、木の棒。
 一見積み木のようでも、チョコバーのようでもあるそれは、えんぴつでした。
 いつからこの家にあるのでしょう。それはわからないけれど、お母さんの机のひきだしの奥深く、たくさんのえんぴつに混ざって横たわっていました。
 9歳のツカサ少年は、もうすぐこの平べったいえんぴつと出合います。

 ママもパパも仕事に出かけて、ぼくは退屈している。
 時計を見ると午後3時だ。
 ママとの約束の地図パズル遊びを2回して、昼ごはんを食べ、パパとの約束の宿題ドリルを合計8パージして、公園に行こう、と思って運動靴をはいたら、雨が降ってきたんだ。
 得体の知れないウィルスがひろまって、3月のはじめ学校はいきなり休みになった。宿題がいっぱい出ている上、友だちとも会えなくなって、たよりない毎日。こんな日がもう3週間つづいている。
 きょうこそ遊ぼうと思って、運動靴をはいたのに、雨が降った。公園で会えそうな友だちの顔も、たぶんすることになる「ドロケイ」も雨に流れて、消えていった。
「ちぇっ」
 と云ってしまってから、肩をすくめ、もっと悪いことばをつづけるかわりに、ちょっぴり悪っぽいことをしてやろうと決めた。すごく悪いことだと、あとが大変だから、ちょっぴり。
「うーんと」
 ぼくは居間のなかをぐるりと見わたした。
 居間の奥には、ママの机のコーナーがあり、ぼくはここが大好きだ。もっとうんと小さいころから、ママが仕事をする足元で、遊んだり、ときには眠ったりした。絵を描く仕事をしているママの机のあたりには、不思議な道具がひしめいている。
 前に学校で博物館に見学に行ったとき、展示というものは、ママの机に似ているなと思った。インクのつぼがたくさん、ペンがたくさん、紙もたくさん、ならんでいる。さわったってしかられはしないが、さわったことはすぐばれてしまう。
「ツカサ、このペン使ったの? これはキミの手には負えないよ。こっちがおすすめ」
 なんて云われる。
「どうしてわかるの? ただ持ってみて、もどしたんだよ」
 こういうとき、ママはふふふと笑う。
 きょうだって、何かさわったらばれるだろう。
 そう思いながら、机のひきだしの、上から3番めをそーっとひっぱり出してみた。1番めと2番めには、あたりまえの文房具がおさまっていて、そこのはぼくも使っていいことになっている。
「3番めから下は、さわってはだめ。ここの道具はへんくつだから、噛みつかれちゃうよ」
 ママは自分が噛みつかれたことを思いだすように、右手を軽くふってみせたっけ。
 だけどだけど。ちょっぴり悪いことをしようと決めているぼくは、3番めのひきだしをひっぱり出して……、そうして、じーっとなかを見た。
 噛みつかれそうなものなんかは見当たらない。
 大工道具に近いようなもの、目打ちというのだったか、尖(とが)ったものや、小刀や、あとは長方形の皿の上に、風変わりなペン類がならんでいる。太ったペン、筆のようなペン、それから黄色い棒みたいなものが目に入った。
「これなんだ?」
 持ちあげてみたら、えんぴつみたいだ。
 平べったくて、細い板みたいなえんぴつ。
 これを使ってみることがどのくらい悪いことかわからないけど、使うよ、ぼくは。

 机の2番めのひきだしのうら紙の束から1枚もらって、ぼくはこの、へんてこなえんぴつで、絵を描いた。
 ええとと、考えて、きょういっしょに遊びそこなったリュウイチを、耳から描きはじめた。リュウイチの耳は先っぽが少しとがっていて、髪はちぢれている。リュウイチを思いだし思いだし描いていると、なんだか、ちびの鬼みたいな男の子ができあがった。
 鬼というより、絵本に出てくる子どもの悪魔みたいだ。
 そういうことならしっぽを描いてやろう。
 ぼくは、半ズボンのお尻から、長いしっぽを描く。先を筆のようにふさふささせて、と。くつもはかせてやろう。先のとがったかたち。笑った口のなかに、歯をならべて描きこんだ。
「ただいま。早いだろう。美術館はきょうも早じまい。ママはまだだな。ツカサ、男ふたりで何かつくろう。パスタとかパスタとか……、パスタなんかを」
「なんだよ、全部パスタじゃないか。ぼく、ひき肉とねぎのがいい」
「塩味か?」

 パパとツカサ少年が台所へと行ってしまったあと、紙が机の上からひらりと落ちました。それは、まるで絵のなかのちびの鬼が、机から飛び降りたみたいでした。ちびの鬼を描いた平べったいえんぴつは、どこへいったんでしょう。
 台所からは、ふたりの笑う声と、にんにくを炒めるいいにおいがしています。
                                         〈つづく〉

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学校がお休みになった子どもたちへ、という
気持ちで、おはなしを書いてみました。
自分でも、愉快な気持ちになりたかったからかも
しれません。
どうぞ、声に出して読んでみてください。
つづきもまた、書きます。
愉快なことと思って、
デコポン・ジャムと、デコポン・ピールを
つくりました。
夫の実家の畑にあるデコポン。
あまり甘くなかったので、
ジャムとピールに。
こういうしごとは、機嫌づくりに役立ちます。
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2020年3月17日 (火)

冬眠

 もし、わたしたちに冬眠の習慣があったなら、そろそろ目を覚ますころだろうか。
「新型コロナウィルス感染症対策」があたりを覆いはじめたとき、「冬眠」を思った。冬眠したいなあ、と思った。
 わたしに「冬眠」をおしえたのは、ムーミン一家の皆さんである。『ムーミン谷の11月』を開くと、スナフキンが旅に出るところから物語がはじまる。

 ある朝早く、スナフキンは、ムーミン谷のテントの中で、目がさめました。あたりは、ひっそりしずまりかえっていました。しんみりとした秋のけはいがします。旅に出たいなあ。
 ほんとにふいに、どこもここも、しんみりしてきたのです。あたりのようすは、もう、なにもかも、いままでとは、がらっとかわっていました。旅に出ようと思いたった人には。いっときいっときが、身のちぢむ思いでした。

 たまらない気持ちになる。
 いまのわたしたちも同じだわ。と、思った。
 何もかもが、いままでとは、がらっと変わった感じ。
 秋になると、スナフキンのように旅に出る者と、残って冬眠する者とに分かれる。ただ……、どちらにするか決めなければならないというのが、約束なのだ。ぐずぐずしているととりかえしがつかなくなる、と、トーベ・ヤンソンは綴っている。
『ムーミン谷の11月』(トーベ•ヤンソン 山室静訳/講談社)は最後に書かれたムーミンの小説。ムーミンママも、ムーミンパパも、ムーミントロールも、ちびのミイも不在の物語である。
 いつもなら冬眠の準備を終えている11月、ムーミン一家は灯台の島に出かけてムーミンやしきはからっぽだ。
 そこへホムサ、ヘムレンさん、フィリフヨンカ、ミムラねえさんがやってくる。それぞれ、いろいろの事情を抱え、止むに止まれぬ思いでムーミンやしきに集まったのだ。あたらしい歌の音色を置き忘れたことに気づいて、スナフキンまで戻ってくる……。
 この物語のあちらこちらに、生きるための知恵がまるでかくれんぼをするかのように潜んでいて、読むたびにはっとさせられる。わたしにしたら、冬眠するか、そのかわりにこれを読むか、というくらいの読書世界だ。
 そうそう、冬眠を描く作品としたら『ムーミン谷の冬』(トーベ•ヤンソン 山室静訳/講談社)がある。

 いつでもみんなは、十一月から四月まで、冬眠するのです。なにしろ、そうするのが先祖からのならわしで、ムーミンたちは、とてもしきたりをおもんじたからです。
 みんなは、おなかの中に、彼らの先祖がそうしてきたように、どっさりと松葉をつめこんでいました。それからまた、みんなのねどこのそばには、春になったときにいりそうなものが、すっかりそろえて、おいてありました。

 ところがところが。
 冬眠中にムーミンは目を覚ましてしまうのだ。 
 たったひとりの冒険。「お客さん」たちとの生活。孤独や不安を抱えて、ムーミントロールは「初めて冬を生き抜くムーミン」になるのだった。
 久しぶりにこれを読んで、ああ、ひとは誰も、もっと好きなようにやっていいんだなあと思った。
 家人たちにも、友人知人にも、仕事仲間にも、云っちゃおうかなあ。
「ねえ、好きにやっていいよー」と。

 自分にも、云っちゃおう。
「もっともっと、好きにやっていいよー」
(自分ばっかり、もっともっととはずみをつける)。

 ところで冬眠についてだが、残念ながら、わたしたちは松葉をお腹に詰めることもできず、5か月眠りつづけることもかなわない。毎日睡眠をとりながら、日中は起きていて、あまり見たくないものを見たり、聞きたくないことを聞いたりしなければならない。そうやって修行を積んでゆくわけだ。
 しかしね、自分のしあわせに気がつくために修行しているのだと思う。それを忘れないように、「たのしい」やら「うれしい」やらを、ひとつひとつ数えあげながら、修行。

 本日の「うれしい」
①『ムーミン谷の11月』を読む。
②『ムーミン谷の冬』を読む。 
③近所の文具店(つつみ)でボールペンを買う。
④近所の和菓子店(伊勢屋)で桜餅と草餅を買う。
⑤公園で遊ぶ小学生を眺める。
⑥仕事をふたつ片付ける。
⑦かんたんちらし寿司をつくる。
⑧でこぽん18個分のピールをつくる。
⑨新聞で会ってみたかったひと(パズル作家西尾徹也氏)に会う。
⑩夜更かしをする。

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書棚をさぐっていたとき、
これをみつけました。
なんだかわかりますか?
雪だるまセットです。
直径10cmのちっちゃなバケツですが、
これは雪だるまの帽子。
白い珊瑚は、雪だるまの鼻。
黒豆ふたつは、雪だるまの目。
でも……この冬は雪がほとんど降りませんでした。
雪だるまに会えなかったのです。
またつぎの冬に、会いましょう。

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2020年3月10日 (火)

忘れていたこと

 2階の仕事場(ここには主に長女が通ってきて仕事をする)には、でんと、2段ベットが置いてあり、泊まりたいひとは誰でも泊まれるようになっている。
 ひきだし付きの収納ベッドと、ロフトベッドを組み合わせ、うまい具合に実現した2段ベッドだ。
 季節外の寝具がしまえるほか、着物、布類、ナイトウエア、ゲーム類が納まっている。

 このたびの話題は、ゲームのひきだし。
 ここには花札、百人一首、カルタ、ジェンガ、オセロゲーム、ダイヤモンドゲーム、トランプ、UNOが出番を待っている。
 このひきだしのなかで、いちばん古いのは、わたしが子どものころ大好きだった、雑誌の付録のボール紙製のカルタだ。ということは、56年ほども前のものということになり、小樽からやってきたのだなあ。
 絵札は分厚いボール紙、読み札は薄いボール紙。絵も愛らしいが、読み札のことばが……、わたしを泣かせる。
「あかいぼうしのらいおんたろう」
「たんぼでたにしがたんころりん」
「わらったわらったちいちゃんが」
 これを見ると、自分の本質がたいして変わっていないことが確かめられる思いがする。しかしもしかしたら、このカルタに夢中になっていたころのわたしに見えていて、いまのわたしには見えなくなったものもありそうで、恐ろしい。

 さて、このたびの主人公はカルタではない。同じゲームのひきだしのなかのダイヤモンドゲームである。
 ちょっと整理しようとこのひきだしを開けて、カルタを見て懐かしがったわたしだったが、なぜか手はダイヤモンドゲームの箱を掴(つか)んでいた。
 おおっ。
「新型コロナウィルス感染症対策」一色に染め上げられそうないま、こんな存在に救いを求めてもいいかもしれない。と、思ったのだ。
「ダイヤモンドゲームするひと!」
 日曜日の午後、女ばかり4人がそれぞれの作業に精出す居間のまんなかで、恐る恐る声をあげる。
「何、ダイヤモンドゲームって」
 と云ったのは三女だった。
 ああ、このひととはダイヤモンドゲームをあまりしないできたかもしれないなあ。
「やったことないの? ダイヤモンドゲーム」
 と、姉たちが云い、おしえたげるからやろう、ということになった。
「あ、やるのね」
 持ってきて誘ったくせにわたしは驚き、まずは3人のゲームを見守ることにする。
 自分の陣地のコマ(15コマ)を、向かいにある同じ色の陣地にいちばん早く移動させたひとの勝ち。移動の仕方に決まりがあり、コマの上を飛び越せるルールもあるが、王様コマ(頭の上にでっぱりのあるコマをひとつずつ持っている)の上は飛び越せない。
 気がつくと熱中していた。
 忘れていたことを思いだしたような気持ちになり、愉快愉快。

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そうしてこの時期、
花をあちらこちらに飾っています。
玄関の白百合は定番ですが、
居間にも、洗面所にも飾っています。
写真はラナンキュラス。
大好きな花店に立ち寄るのも、
わたしには安らぎのひとときです。

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2020年3月 3日 (火)

笑い声

 通りをてくてくゆく。
 電車に乗る。
 バスに乗る。
 スーパーマーケットや店の客になる。
 家で、仕事の打ち合わせをする。

 日頃何でもなくしてきたことだ。いま、同じことをしながら、自分のなかにいつのまにか埋めこまれたセンサー(感知器)がジジジと音を立てそうにする。いまだ一度も鳴らないが、鳴る一歩手前、ああ、このままだとジジジとくるかもしれないという気配が、何とは無しに伝わるというか。

「新型コロナウィルス感染症対策」という旗印のもと、何もかもが中止になり、わたしの3月の予定表には、バッテンがならぶ。年度末であったため、児童生徒表彰、市民ロードレース(マラソンと駅伝)などが並んでいたのであるが。
 そんななか、主催者が開催を決めたイベントに出かけてゆくと、マスクをした人びとが、ぞろぞろ列を成している。思いきった決断をしたのは主催者だけでなく、出かけてゆくわたしたちもそれなりに思いきっている。
「ともかく、この2時間をともに」という共通の精神が生まれていて、その場の空気はシャキッとして立っている。
 その日の帰り道、通りをてくてく歩き、電車に乗り、スーパーマーケットに寄り、家にたどり着いた。センサーは鳴らなかったが、センサー付きで出かけていることがそも、重たい。この重たさは、緊張を強いるものだ。

 保育園や学校、学童クラブに子どもたちがお世話になっている時代だったら、センサーは鳴っていただろう。さあ、どうする、ジジジ、と。

「ね、どうする? 学童クラブを卒所して、初めての夏休みがくるよ」
 末娘が小学4年生になった初夏のこと。わたしは、三女の同級生なっちゃん(保育園の0歳保育からの幼馴染だ)のお母さんと、額を寄せている。
「5年生になったら、きっと自分たちで何とか過ごせるようになるかもしれないけど、ことしは……」
 と、なっちゃんのお母さんは心配顔だ。
「なっちゃん、うちで過ごしたらどうかな。わたしたちはたいていうちで仕事しているし、そうでないときだって、ふたりなら寂しくないでしょ」
「ありがたいな。じゃ、お弁当持って行かせてもらうね」
 いまから12年ほども前のことになるけれど、あの夏はおもしろかった。なっちゃんは朝8時半にはうちにやってきて、ふたりはそれぞれに宿題をしたり、遊んだり、読書したりして過ごしていた。小学4年生につられて、わたしも仕事に励んだのだったなあ。
 手が空いているときは、わたしがふたりを連れて買いものに出たり、夫も何かを一緒につくったり、遊びに連れだしたりした。
 なっちゃんの両親が休みをとって、散歩や冒険に出かけることもあった。家のなかに、家のまわりに、笑い声が響いていた、夏。ちっちゃなたのしみが、散らばっていた。
 どうしてだか、とつぜん、あの年の笑い声がよみがえってきた。

「新型コロナウィルス感染症」を、恐れなければいけないのだと思う。対策も真面目にしなければいけないのだと思う。
 だけどだけど、こういう時期だからこそ、おもしろいことをしたい。笑いたい。きょうは、夜、娘たちと4人で、気に入りの海外ドラマ(レンタルビデオ店で借りてきました)を観た。うん、こういうの、いい。
 明日は何をするかな。いちごを買ってきて、パフェをつくろう。美味しい紅茶を淹れよう。 

Dsc_0228
大阪府八尾市の友だちから、
春が届きました。
若ごぼう。
パスタ、煮物、サラダ、天ぷら。
ことしもたのしませてもらっています。
ことさらに、こんな事ごとが
ありがたい春です。

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