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2021年1月の投稿

2021年1月26日 (火)

わたしにできること

・「男女二分法」を問う
・「自宅軟禁」母に消された18
・「性犯罪歴教員排除」に壁
・「人種、国境を超え 一緒に進みたい」コロナ禍を生きる日本で暮らす外国人
・「過酷な入管収容の末に」

 午前中のうちに、朝刊をテーブルにひろげて、1面から順に開くことにしている。開いてゆき、さいごのテレビ欄にたどり着いたら、ひとまず新聞のことはひと区切りだ。それで終わることも少なくはなく、これではとてもではないが「新聞を読んでいます」とは云えないことは、自分で承知している。
 新聞をテーブルにひろげるとき、右手にオレンジ色のダーマトグラフ(軸が紙でできている鉛筆)を持ち、どうしても読みたい記事にしるしをつけてゆく。
 こうしておいて、あとからそこだけ読もうというわけだが、読み損なう日もあって、じつに心もとない。ともかく新聞に触り、1面から開いてゆくだけの日がつづいたとしても……、やはり新聞の存在はありがたい。

 ところで、冒頭にならべた5つの項目は、いまのいま、机のひきだしからとり出した「近く書きたい〈資料〉」のファイルから抜きだした、新聞の切り抜きの見出しである。
 オレンジ色のダーマトグラフで囲んだ末、読み損なうことならぬ!という気持ちからとっておいた切り抜きだ。新聞の日付を確かめたら、昨年のクリスマスからことしの1月22日まで、つまりこのひと月のあいだの記事であった。
 記事にある事実とされることを受けとめた上で、そこには知らなければならない背景と、知らなければならない事情と、知らなければならないひとの気持ちがある……とつよく感じた項目だ。
「そうなのか」
「ま、そうなんだけれどもさ」
 と、わたしは新聞を開きながら、つい声に出して云う。

「そうなのか」のときは、あたらしい理解へのタネをもらったわけだけれども、「ま、そうなんだけれどもさ」のときは、ことを起こしたひとの心の有りようを探ろうとする視点が抜けている、法律化する前に研究すべきことがまだまだあるはず、この問題について自分にできることは何であるか、という思いに駆られている。
 問題について誰かと語り合う機会がめぐることも、問題に取り組むひとにささやかな支援を申し出る機会の与えられることもある。が、わたしの場合、団体に属するのが苦手なこともあって、どの問題の研究会、支援グループにも参加しないまま今日に至っている。
 このことが結局、「活動」に結びつくことにならない自分のダメさを物語っているように長年感じてきたように思う。
 しかし、最近、「もしかしたら……」という仮説を立てることに成功した(成功は云い過ぎかもしれないけれども)。
 もしかしたら……、個人でさっさとできることをはじめる方法もわるくないのではないか。これがわたしの立てた仮説である。

 どんなに小さいことでも、自分にできることをはじめる。
 このことが何かにつながる。
 もっと云えば、ひとを集めて議論している間に、ひとりでとっととことを運べることだってある。

Fumiko010
わたしにできることは、
きっとある。

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2021年1月19日 (火)

ステイ・スキップ

 仕事仲間から、年のはじめにおせんべいをもらった。
 その日の仕事を終えたとき、「ことしもよろしくお願いします。これは皆からです」と云って、手渡されたのであった。
 東京新宿区・神楽坂の昔ながらのおせんべいである。
 持ち重りのする紙袋を提げて歩きながら、なんだろうか、この年の啓示を受けとめたように感じた。
 
 帰宅して、夕食の仕度をし、家にいた4人でそれを食べたあと、おもむろに食卓へ黒い角缶を出す。
「これを、きょういただいたの。とんでもないもの」
「おお、これはとんでもないね」
 そう云ったのは誰だったか。
「ふたをあけてもかまわない?」
 と云った誰かが角缶のふたをくわっと、ひらく。
「おせんべい」
「久しぶりに本物のおせんべいに会った感じ」
「お茶淹れるね」
「ぼくは、ほれ、この日本酒で」
「あ、あたしも」

 ばりばり、ぱりんぱりん、かじかじ、音をたててせんべいをかじる。
 硬くて、しっかりした、頑固爺のようなせんべいたちを、そこにいた4人で音をたててかじったのだ。
 味はよく、焦げもよく、かたちもうつくしい。
 それから数日のあいだ、黒い角缶をとり出すたび、そこに集うわたしらは、昔風を噛みしめるのだった。しかし……、しかし、いちばんには音だった。
 ばりばり。ぱりんぱりん。かじかじ。

 この音を自らの口元で起こしながら、わたしはよろこびに弾んでいる。
 ばりばり。ぱりんぱりん。かじかじ。
 音というのは、こんなにも、ひとを弾ませるのだな。
 だからと云って、のべつせんべいを噛むわけにもゆかないので、わたしは、最近、家のなかを走って、ぱたぱたと音をたてることにした。
 年じゅう、素足に布ぞうりを履いているわたしの足元は、いい具合に音を立てる。
 ……ぱたぱたぱたぱた、ぱたぱたぱたぱた。
 スキップはどうかと、やってみる。
 ……ぱったぱった、ぱったぱった、ぱったぱ……。
 これはいい。

 ゴミ箱のもとにぱたぱた。
 呼び鈴に応えるため玄関までぱったぱった。
 家人たちを呼ぶため階段下までぱったぱった。
 
 音をたてながら、弾む。
 弾んで暮らす。

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友だちからポン菓子をもらいました。
うれしいなあ、なつかしいなあ。
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このままちょっとつまんだあと、
軽く「おこし風」にしてみました。
材料はバターと砂糖と牛乳(少し)。
美味しい!
子ども時代のわたしにも食べさせてやりたいような……。

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2021年1月12日 (火)

なんでもないけどなんでもなくない

 2021年がはじまった日、寝坊をした。
 近年すっかり宵っ張りになったわたしだが、年が明けても眠るのがもったいないような気分になり、明け方まで起きていた。
 それで、午前9時ごろごそごそ起きだした。

 玄関の棚の上の重箱と、台所のガス台の上の鍋。
 おせち料理と、雑煮の支度をすませてあるのを見て、しみじみしあわせを感じる。20201231日に、自分で、できるだけの支度をしたのに過ぎず、なんでもないこと……と、思いかけて、「それはちがうね」と口に出して云ったのだ。
「それはちがうね……、なんでもないけどなんでもなくない」
 若いころ編みだしたこのことばが、ぽんと、口をついたのだった。
「なんでもないけどなんでもなくない」
 これを思いついた瞬間、当時の自分の考えをすっかり掬いとったもののように感じて、気が跳ねたのをおぼえている。

 あのころからわたしは、目の前に置かれたものと、向き合い、組み合い、語り合ってきた。ただそれだけの道だったが、道の上では戦う場面も少なくなかったため、いつしか「なんでもないけどなんでもなくない」を忘れた。
 そのスローガンにはやさしさがあり、戦う身からそっと離れていったようだ。戦うと云っても、わたしの場合、相手はつねに自分だったのだけれども。

「うちのおせち料理、鶏の唐揚げが入ってるところが好き」
「かまぼこ、ものすごく上等。こころして食べたまえ」
「お餅いくつ食べる?」
「きなこ餅食べたい」
「それはあとで」
「お屠蘇、甘みがちょっと足りないね」
「そうか、味醂を、あんまり入れなかった」

 そうそう、こういうのこういうの。
「なんでもないけどなんでもなくない」は、こういうの。

「ね、おかあぴー、午後何するの?」
 と誰かが云う。
「仕事する」
「元旦から?」
「そ。元旦から」
 そう云いながら、ひらめいた。
 ことしは元旦だから仕事はしない、とか、夜は早く寝たほうがいい、とか、韓国語の練習は無理かもしれない、とか、いろいろ決めつけずに、ちょっぴり強気でいこうという考えが、おでこのあたりにぴかっと。

「なんでもないけどなんでもなくない」
「強気」

 これがわたしの2021年のめあてです。

Fumiko007
2021年がはじまりました。
ことしもよろしくお願い申し上げます。
「慎重」と「思いやり」がことさら求められる時代ですが、
こんなふうに、こころは跳ねたい!
(海老みたいに)。

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2021年1月 3日 (日)

2021年がはじまりました。

2021年がはじまりました。
本年もよろしくお願い申し上げます。
きよらかな魂。やさしい気持ち。思いやりのあることば。
おもしろがる精神。許し合う日常。
こんなことが際立つ年になるでしょう。
そういうことなしに、どんな行動も意味がなくなる。
……というくらいの意識を持って、ことしをはじめたいと、思います。
                     
                          山本ふみこ
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