わたしにできること
・「男女二分法」を問う
・「自宅軟禁」母に消された18年
・「性犯罪歴教員排除」に壁
・「人種、国境を超え 一緒に進みたい」コロナ禍を生きる日本で暮らす外国人
・「過酷な入管収容の末に」
午前中のうちに、朝刊をテーブルにひろげて、1面から順に開くことにしている。開いてゆき、さいごのテレビ欄にたどり着いたら、ひとまず新聞のことはひと区切りだ。それで終わることも少なくはなく、これではとてもではないが「新聞を読んでいます」とは云えないことは、自分で承知している。
新聞をテーブルにひろげるとき、右手にオレンジ色のダーマトグラフ(軸が紙でできている鉛筆)を持ち、どうしても読みたい記事にしるしをつけてゆく。
こうしておいて、あとからそこだけ読もうというわけだが、読み損なう日もあって、じつに心もとない。ともかく新聞に触り、1面から開いてゆくだけの日がつづいたとしても……、やはり新聞の存在はありがたい。
ところで、冒頭にならべた5つの項目は、いまのいま、机のひきだしからとり出した「近く書きたい〈資料〉」のファイルから抜きだした、新聞の切り抜きの見出しである。
オレンジ色のダーマトグラフで囲んだ末、読み損なうことならぬ!という気持ちからとっておいた切り抜きだ。新聞の日付を確かめたら、昨年のクリスマスからことしの1月22日まで、つまりこのひと月のあいだの記事であった。
記事にある事実とされることを受けとめた上で、そこには知らなければならない背景と、知らなければならない事情と、知らなければならないひとの気持ちがある……とつよく感じた項目だ。
「そうなのか」
「ま、そうなんだけれどもさ」
と、わたしは新聞を開きながら、つい声に出して云う。
「そうなのか」のときは、あたらしい理解へのタネをもらったわけだけれども、「ま、そうなんだけれどもさ」のときは、ことを起こしたひとの心の有りようを探ろうとする視点が抜けている、法律化する前に研究すべきことがまだまだあるはず、この問題について自分にできることは何であるか、という思いに駆られている。
問題について誰かと語り合う機会がめぐることも、問題に取り組むひとにささやかな支援を申し出る機会の与えられることもある。が、わたしの場合、団体に属するのが苦手なこともあって、どの問題の研究会、支援グループにも参加しないまま今日に至っている。
このことが結局、「活動」に結びつくことにならない自分のダメさを物語っているように長年感じてきたように思う。
しかし、最近、「もしかしたら……」という仮説を立てることに成功した(成功は云い過ぎかもしれないけれども)。
もしかしたら……、個人でさっさとできることをはじめる方法もわるくないのではないか。これがわたしの立てた仮説である。
どんなに小さいことでも、自分にできることをはじめる。
このことが何かにつながる。
もっと云えば、ひとを集めて議論している間に、ひとりでとっととことを運べることだってある。
わたしにできることは、
きっとある。
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