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2021年2月の投稿

2021年2月23日 (火)

老眼鏡をかけた後輩

 長いこと、先輩たちに鍛えられ鍛えられ、その背中を追いかけつづけていたのだったが、いつしか、自ら先輩という名の椅子に坐っていた。
 けれど、娘たちよりも若いひとと仕事をするようになっても、日常的な交流を持つようになっても、わたしは少しも貫禄を示せず、誰かを鍛える、などという立場から遠い。
 それはわたしの力不足のせいにあらず(言い訳)。
 年若きひとたちの感性、努力、センスがあまりにも素敵なのだもの。
 これはわたしの今生の幸いなのだ……、佳き年下の仲間、友人知人にめぐまれたという、これは。
 仕事を通じての関わりのみならず、あらゆる分野の後輩たちの発言、表現には驚かされっぱなしである。年齢としては後輩にちがいなくても、わたしの目からは先輩にしか見えないのである。
 老眼鏡をかけた後輩だ、わたしは。

 ところが。
 昨年(2020年)の後半に、老眼鏡をかけた後輩たるわたしの耳は、幾度となく年若き先輩たちから、小さな、しかし切実なつぶやきを聞きとることとなる。

「何をやってもうまくゆかない」

 つぶやきの中身はといえばーー。
「予測不能な未来」と、標語のように云われるようになって久しいが、新型コロナウィルス感染症対策のもと、予測の可能性は黒く塗りつぶされてゆくようであった。そんななか、不安にかられたひとたちが、思いのほかふえていったとしても、それは不思議ではない。

「何をやってもうまくゆかない」

ーーそれは、アナタのものとは思えない、大雑把な感じ方だと思うな。何がうまくゆかない……と思うの?

「一所けん命仕事してるつもりなのに、仕事として成立しないんです。ぶっちゃけ期待する実入りがない。顧客のため家族のためってことも、忘れずにいるつもりなんだけど」

ーーわかるよ。
 自分のため、と、他者のため、ってのが両方きっちり入ってなければ「一所けん命」とは呼べないもんね。だったら、とことん一所けん命ゆくしかないよ。うまくゆかないはずないんだよ。

「うまくゆかないはずない……。そう云われると、実入りのことばっかり気にしてたかもしれないなあ」

ーー実入りは考えてもいいんじゃない? でも「一所けん命」にはちゃんと実入りもついてくるよ。何もやってもうまくゆかない、っていう状態は、たぶん、自分への、他者への愛情不足かもしれないよ。

「愛情不足?」

ーーそう。それね、わたしが20歳のころから、先輩たちに云われつづけたこと。愛情不足だと、仕事も日常もうまくゆかない。愛情不足だと、実入りにもつながらない。

 若き麗しの後輩たちにアドバイスする機会がめぐってきてさえ、老眼鏡をかけた後輩のわたしは、このようにして「受け売り」でございます。

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この季節の大切なお客さまへ
供するためのちっちゃな器。

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お雛さま方へ、

本日は小豆を煮て供しました。
珈琲。うどん。グラタン。
焼き鳥。親子丼。
なんでもありです。

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2021年2月16日 (火)

くり返しくり返し

「この建物の名前の由来はさ……」
 コホン、と咳払いをしてからわたしは云う。
 ならんで立つ、友人ふたりも「うんうん」と、「この建物」を見上げている。
 ここから、わたしの聞きかじり演説がはじまるはずであった。
 ところが、「この建物の名前の由来はさ」のつぎが口から出てこない。……なんだったっけ、わたしは何を云おうとしていたのだったか。
「先週、この建物の番組を観てね、名前の由来がおもしろかったから、いまのいま、ふたりに聞いてもらおうとしたんだけど、おぼえてないの!」
 3人そろってひとしきりあきれたり笑ったりしたあと、
「もの忘れということもあると思うけど、そもそも、ちゃんとおぼえなかった、ってことはないかしら」
 と友だちが分析する。
 そう云えば……と、わたしも番組を観たときのことをふり返る。
「そう云えば、建物におもしろい由来があったということしか記憶しなかったような気がするわ」
「わかる。来週みんなでここを通ることになってるから、ふたりにもおしえたげよう、と、ふんちゃんは思い、それも記憶したのよね。でも内容は……」

「保存しなかった」

 このたびは、「もの忘れ」と「認知度」のはなしはひきだしにしまい、「記憶の保存」について書いておきたいと思います。

 テレビの番組で見聞きしたものばかりでなく、ひとから聞いたはなしも、本から得た情報や知識も、そう簡単には記憶されず、記憶したつもりになっていてさえ、失われやすいのではないだろうか。
 一度聞いたり見たり、聞いたり、読んだりしたくらいでは、おぼえられない。
 くり返しくり返し見たり、聞いたり、読んだりすることに、もっと価値を見出さないといけないのではあるまいか。

 昨年のはじめ、中学生と読書についてはなしをする機会があった。
 おもしろかったのは、彼らはまわりの大人に「読め読め」とすすめられ、自分がその期待に応えられないことに、罪悪感を持っているのだった。その強弱、持ち方はそれぞれである。

「ちっちゃいころ、お母さんに読み聞かせをしてもらったのに、自立読書が身につかなかった」
「好きな本しか読めず、めんどうな本は、さいごまで読めない」
「父ちゃんも母ちゃんも読書をすすめてくるけど、ふたりが何か読んでるのを見たことない。自分ができないからすすめてくるんだろうか」「やっぱり、たくさん読んだほうがいいんですか?」

 中学生たちが「読書」に対してとくべつな感覚を持っていること、予想はしていたけれど心底驚いた。そうして、それは大人が刷りこんだ結果だと思い、(大人を代表して)「ごめんね」と胸のなかであやまった。
 まず、読書を好きなひとも、そうでないひともあること、得意なひともそうでないひともあることを話した。あたりまえのことなのに、中学生たちの顔がこれで緩(ゆる)んだ。

「君がいま、一所けん命やっているサッカーと読書を同じように考えていいと思うよ」
「え? ほんとに?」
「うん。わたしが中学時代、サッカーを好きで、夢中になったら、本は読まなかっただろうね。少しは読んだかもしれないけど、それにしたって、サッカーの本を読んだんじゃないかな。……と思う」
「でも、山本さんは本が好きだったんでしょう?」
「そうなの。だけど、本ばかり読んでいないで、少しはサッカーもしなさい、とは云われなかったのよね」
「ほおお。考えてもみなかったけど、そうだろうね。ぼくはサッカーに打ち込んで、結果出しても、勉強はともかく、読書読書と云われてる」
「本を好きになったこと、いまよかったと思ってるけど……、子どもにもどったらサッカーとかバスケとか、将棋とかしたいです」

 こんなやりとりをしたあとで、「まわりの大人はあまりすすめないかもしれないけれど」と断って、中学生たちに3つの読み方を提案した。

1) 好きになった本をくり返しくり返し読む。
2) 途中で読むのをやめた本も「読んだ本」にカウントしていいよ。
3) わかりにくいところにさしかかったら音読する。新聞の音読もおすすめ。
4) 漫画も大事な大事な読書世界。誰がなんと云おうと大切に考えること。
5) 読書感想文は、印象に残ったところだけをぎゅっと書いたら?

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ヒヤシンスの花が咲きそうです。
かわいい声が聞こえてくるよう……。
コンニチハ。
コンニチハ。
コンニチハ。
ナニシテンノ?
アソボ!

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2021年2月 9日 (火)

アンニョン

 2020年の半年をかけて本の整理をし、全体として4分の1まで減らすことになった。整理をすすめるなか、いつどんなかたちでわたしのもとにやってきてくれたものか、思いだせない本が1冊もなかったことには、救われた。読まないままぎゅっと本棚に押しこんだ本も、なかった。
 というわけだから、旅立たせると決めるときには、ちくりちくりと胸が痛んだのも、また事実である。

「안녕」

「アンニョン」という韓国語の挨拶を、古書店へと向かってゆく本に向かって何度も何度も投げかけた。
「アンニョンハセヨ」を短くし、親しい友だちや年下のひとたちに語りかける、こんにちは、またね、バイバイ、の意味で使われる「アンニョン」。
 このことばに、無事を祈る、という相手への思いやりがこめられていると知って、いちいち本に「アンニョン」と声をかけたのだ。

 ところでわたしに、大掛かりな本の整理をさせたのは、「本を読め、本を読めと云うけれど……」という、わたしのなかに、かなりつよく立つ考え方であったようだ。
 ことわっておくけれども、わたしは本好きである。
 読むのが、好きでたまらない。
 だが、それは、わたしのなかで歩くのが好きだ、とか、料理が好きだ、というのと同じ意味を持っている。本を読まなければ賢くならないとは考えていない。賢くなる・ならないの問題を超えて、読書をすすめる意見のなかに、「テロリストや犯罪者には、子ども時代の乏しい読書経験が窺えるケースが少なくない」という指標があらわれることがある。こういうのに出くわすたび、わたしは歯を食いしばって、小さく叫ぶのだ。
「読書家の悪党だって存在するではないか!」
(どうして大きく叫ばないかというと、わたしにはこころから尊敬する読書推進の活動者もあるからだ)。

 あまり読書をすすめなかったからだろうか、わたしの3人の娘には、いわゆる読書家が存在しない。そうしてわたしは、それを残念だとは考えていない。
 フリーランスの編集者、インタビュアーを仕事にしている長女は近年、「もっと読めばよかった」とか、「読む力がない」と、ちょっぴり悩んでいる模様。
「読めないときは、途中でやめてもいいんじゃない? どこかの章だけ読みこむという読書法もあるよ」
「むずかしいものを読むときは、音読に限る。おすすめします」
 と、励まして(?)いる。
 姉妹のなかでもっとも「読まない」のは二女だが、ムーミンを研究しているので、ときどきその方面について考えを聞かせてもらう。それから漫画に明るく、彼女にすすめられるままに読んでいるおかげで、わたしの脳内にはその世界観がほのかに灯っている。 
 三女。このひとのブックスタートは痛快だった。
 ブックスタートと云っても、わたしが読み聞かせをしていた時代のスタートではなく、自らの力で読みはじめた地点である。
 ひとつの作品のなかで何万人ものひとが死んだり、死に至らしめられる本をつづけざまに読み、「お母さんも読んでみて」と云って持ってくる。小説としてはよくできているけれども、あまりにもつぎつぎにひとが死ぬので、何冊目かのときに、おずおずと尋ねる。
「ね、この本でも、また大量にひとが死ぬ?」
「ううん。この本はたったの6人」

                    〈読書論について、来週につづく〉

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机の後方にならんでいた、
天井まで突っ張って立っていた
2架の書棚が、こんなふうに
変わりました。
もとの棚は友人宅へ。

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2021年2月 2日 (火)

「ひしめく」を漢字で書くと……。

 2021年ひと月め。
 机に向かって仕事をしていると、あたりの空気がやわらかくなっているのが感じられる。ことに背後の変化が大きく、わたしはときどきふり返る。
 2020 年後半、本の整理をした。
 持ちものは多くないほうだと思うが、本だけはそうでなかった。机のうしろには天井に突っ張る書棚が2本、居間のガラス扉付きの飾り戸棚にぎっしり本が詰まっていた。その上、階上の部屋にも書棚を持っていて、そこには絵本や映画、演劇のパンフレットを中心に大型本をおさめていた。

 ひしめく。
 そうだ、本がひしめいている。 
 ひしめくって、どんな状態を云うのだろうかと思って広辞苑にあたると、これはこれは……。「ひしめく」は「犇く」と書くことがわかった。
 2頭の上に1頭が乗り、サーカスみたいに牛3頭が立っている。漢字を見るだけで、ひしめく様子が伝わる。……なぜ、牛。
 ①ひしひしと音がする。
 ②大勢が押し合って騒ぎ立てる。

 2020年のある日、わたしは「犇めく」環境を変える決心をした。
 喧騒のなかにうっかり巻きとられ、もがく自分の姿を想像して、ぞっとしたのである。じれてあせって手足をばたつかせるなんて、とてもじゃない。
「半分に減らそう」
 と決心す。
 それからもうひとつ、
「捨てない」
 と約束。
 本と対面する自分は無法者である。湧き上がる情を無視し、ぶった切り、古書店に運ぶ箱に本をどんどん納めてゆく。古書店は、障害を持つひとたちが仕事をする場で、寄付というかたちで受けとってもらっている。ほんの少しだが、応援のニュアンスが混じる分、堂堂と無法者になれる(何云ってるんだか)。
 たちまち本は半分になった。
 机のうしろの2本の書棚のうちの1本が空っぽになり、飾り棚のなかもがらんとしたから、半分は、ほんとうだ。

 このときわたしはもう少しゆける、と考えていた。
「よし、4分の1まで減らそう」

                       無法者のはなしは来週につづく

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スノードロップが咲きました。

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