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2021年7月の投稿

2021年7月27日 (火)

オーバーオール

 家で過ごす日、たいていオーバーオールを身につけている。
 真夏はノースリーブのインナーにオーバーオールが定番。オーバーオールはわたしの「日常がんばり服」なので、気に入りのものを慎重に選ぶ。生地が厚いと重くなるので、重さも過ぎないように気をつけている。

 ある日。
 コイドさん(熊谷の家のリノベーションの責任者)にとつぜん昼ごはんを誘われ、車に乗りこんだ。
「ここから車で10分ほどのところでお惣菜店を営んでいるお友だちのところで、おいしいもんを食べよう、以降」
 赤いノースリーブのトップスにオーバーオール、頭に黒いバンダナを巻いていたわたしは、オーバーオールはいいが、なかのトップスをちょっとエレガントなブラウスにしたかったな、と車のなかでぼんやり考える。仕方がないので、バンダナをはずし、手櫛で髪をごしごしやって整える。
 オーバーオールというのは不思議で、なかに着るものでがらりと雰囲気が変わる。かちっとしたカッターシャツ、レースのブラウスなんかもうまくひき受けてくれるのだ。この懐の深さこそ、わたしがオーバーオールを好きになった原点だろう。
 コイドさんが連れて行ってくれたお店のひとたちは明るくて、そろっておしゃれ。色づかいが個性的で、好きな服をつくるために「自分たちで染めちゃうかな」「そうね、染めちゃうわね」なんて云い合っている。なんでも、店は週4日開いて、あとはそれぞれ音楽、舞踏の活動をしているらしい。
 やけにおいしいおみおつけをすすりながら、わたしはどこかでちょっぴりもじもじしている。オーバーオールのなかにブラウスを着ていたかったな、と思ってもじもじするのである。
 いいふりをしたいのではない。
 ムードなんである。

「たのしみにしてきました」
 というムード。
「これからよろしくお願いします」
 というムード。
「なんだか、ここはとってもおもしろい」
 というムード。

 こういうムードをつくるためにわたしは装っているのです。

 ムードについて初めて考えたのは、2011年の東日本大震災のときだった。
 東京から離れた東北地方の受けた被害を思って、オロオロした。オロオロしているだけの自分を情けなく思い、さらにオロオロ……。
 そんななか、遠く離れていてもこの事態となったこの国のムードは、わたしもたしかにつくっているのだという、つよい実感が生まれた。
 まず、祈った。
 祈っているうち、この祈りはきっと被災地に届くだろうと信じられるようになっていった(信じなければやっていられなかったような気もする)。
 そうしてオロオロを断ち切るために、白いバンドカラーシャツ(帯状の立ちえり)にアイロンをかけ、それを着て毎日原稿を書いた。そのときの東京での毎日は記録として残っており、その後のわたし自身に影響を与えている。

 遠くの誰かにしたいことをとなりの誰かにすればいい。
 その時代のムードは、自分もつくっている。

 さて今朝もオーバーオール姿で、これを書いています。
 ふわふわの袖の白いブラウスをなかに着こんで。

 今週もいい日日になりますように。

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2021年7月20日 (火)

思いこみ

「わたしがいなくなったあと、わたしの使っていた香水の香りをなつかしんだりするかな、あなたは」
 家を訪ねてくれていた二女の梢に、訊く。

「どうしてそんなこと訊くの?」
 梢は、笑いながらわたしの目をじっと見る。

 ずいぶん長いことわたしは、同じ香水(オールドパルファム)を使いつづけている。出かけるとき、お守りみたいな気持ちで、つけるのだ。
 いま使っている瓶のなかみが少なくなって、そろそろつぎを求めておこうと思っていたとき、ははが残したふたつの香水の瓶のことを思いだしたのだ。熊谷の家を片づけていたとき出てきたそれは、ははのお友だちの海外旅行のお土産だったのだろう。

 シャネルN°5(パーススプレイ/香水)
 ゲラン MITSUKO(香水)

 封は切っていないものの、かなり前のもののようだけれども、ちょっと使ってみようかな、ははのかわりに……と思う。
 そう思ったとき、ふと胸に灯ったのが「わたしがいなくなったあと、わたしの使っていた香水の香りをなつかしんだりするかな、娘たちは」という思いだった。
 そうして二女の梢は云うのである。
「香りでお母さんをしみじみ思いだすってことはないような気がするな。もっと別のことで……思いだすのじゃないかな。だから、シャネルでもゲランでも、使ってみたかったら使ったらどう? お母さんのしたいようにしたらいいわよ」
「あらそう」
 そう云われて、そんなものか、と思うわたしだ。
 長女や三女に聞いてみたい気もしたけれど、どちらも、やはり同じことを云うのではないか。
「お母さんのしたいようにしたらいいわよ」
 とね。

 このやりとりは、わたしに自分の「思いこみ」を意識させた。
 あははは。
 そう云えば、娘たちや若い友人たちと、思い出話をするとき、誰も彼も、わたしが覚えていてほしいことを語ったりしない。
 いや、思い出の肝はそこじゃない、ということばかりが話題に上って、がっかりさせられる。もっとうつくしいこと、もっと感動的なこと、そうしてもっとわたしが気を入れて準備したあれやこれやがあったでしょうよ! 
 しかし、たいてい失敗談や滑稽な事ごとが、目の前にならぶのだ。

 自分の思いこみなんかは、この際片づけてしまおう。
 いま使っているオールドパルファムがなくなったら、つぎはシャネルN°5をつけてみる……。
 マリリン・モンローのように「眠るときはシャネルN°5を数滴」なんて云ったところで誰も相手にしてくれないだろうから、出かけるときのお守りとしてスプレイをひと吹き。

Photo_20210720074901
熊谷日記は休みました。
8月に、また再開いたします。

写真は、大工さんの手になる
書棚です。
さあ、ここに本を……。
大工さんのおかげで、とうとう、
本との生活がもどります。
およそ4か月ぶりのことです。

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2021年7月13日 (火)

くまがや日記⑩

7月★日
 夫の実家である熊谷の家のひととなってふた月が過ぎた。
 昔から、皿まわし人生を送ってきたわたしだが、このたびの皿まわしは、大掛かりなものとなった。

 皿まわし。
 それは曲芸である。
 細い棒状のものの上に皿を置き、これをまわして魅せる大道芸、あるいは演芸。しくじれば皿は落ち、割れるというわけだから、見る側ははらはらどきどき手に汗握ることとなる。
 母親業と仕事の兼業をスタートさせた若き日、わたしは自分の生活を「皿まわし」だと感じた。目の前に、何本も棒が立ち、その上に皿をおいてはまわす。置いても頃合いを見て、また手で皿をまわさないと、皿は動きを止め、落ちてしまう。
 つまるところ、皿はわたしの任務だ。
 朝から皿をどんどんまわさなければならなかった。
 料理。洗濯。片づけ。ちょっと掃除。保育園の送り。仕事(取材と原稿書き、雑用、会議ほか)。保育園の迎え。子どもたちとのあれやこれや。家のしごと。翌日の仕度……。
 調子よくまわりつづけるなんてことは稀であり、何かの拍子にリズムが乱れると、たちまち皿のまわりは覚束(おぼつか)なくなってきて、落ちる、落ちる。そも、皿まわしの芸をできはしないのだから、比喩として皿まわしと云ったところで、うまくゆかないのかもしれなかった。

 ずいぶん長いこと、皿まわしを思わないできたが、熊谷での生活がはじまって、コイドさん(このたびの家のリノベーションの設計者で、現場責任者)に呼ばれ、机に向かい、大工さんに呼ばれ、10時と3時のお茶をいそいそ準備し、また机に向かい、料理したり洗濯したりしているなか、なつかしい皿まわしの感覚がもどってきた。
 若いころとちがうのは、皿のまわりがわるくなると、皿に向かって「自分でも、まわろうとしてごらん」などと平気で云うところだ。それに皿が落ちたって、「あら」ってなもんである。
 しかしそれでも……、皿をまわし、それがいっぱい目の前でまわっている日日はかなりせわしない。ということを、自覚しようと思っている。

7月★日
 長野県上田へ。
 ここにはわたしの師であり、恩人でもある恵子ママが住んでいる。
 長く東京で暮らし、仕事をしてきた恵子ママが4年前故郷の上田市に居を移してから、会いたかったが会いに行けなかった。
 ところがところが、熊谷に住んでみると、どうだろう。上田は隣町と呼んでしまおうか、というほど、近くなった。北陸新幹線に乗れば、熊谷→ 本庄早稲田→ 高崎→ 安中榛名→ 軽井沢→ 佐久平→ 上田と運ばれる(所要時間約50分)。
 上田に折りよく仕事と用事ができたので、行く。

 ところで恵子ママがどんな縁(えにし)でわたしの師となり、どんな経緯(いきさつ)で恩人になったかというと、こういうことである。
 短大を卒業し20歳で就職した出版社の営業部に恵子ママは仕事をしていた。わたしは編集部勤務だったし、ひとまわりの年齢差があったものの、家の最寄駅が同じであったことも手伝ってすぐと親しくなった(しかしほんとうは変人同士だったことが、親しくなった理由だと思っている)。
 親しくなっただけではない。
 ひとづきあいの奥義(おうぎ)やら、うつくしいものとの出合い方、着こなしやら、暮らし方やら何もかもをおそわった。そうそう、旅についても。若き日、恵子ママとふたり旅をした。
 ここに恩人の領域が加わったのは、わたしに子どもができてからだ。とくに上ふたりの娘は、たびたび恵子ママに預かってもらった。恵子ママの「ママ」の部分はこの時代、子どもたちがそう云って親しんでからの、呼び名である。

 恵子ママと上田の町を歩いた。
 歩きながら、こころが整理されていった。
 胸に納めにくい事ごとに整理がつき、押し並(な)べて記憶として仕舞われてゆくのだった。
 驚くほどたくさんある書店や古書店をめぐり、上田城址(真田氏の居城)を歩き、上田映劇を訪れた。映画館上田映劇はあまりにも素敵(素敵なのは建物もだが、じつはそこで活動するひとたちである)で、今後映画は新幹線に乗ってここで観ようか、と思うほどだ。
 恵子ママの雅なる家に泊めてもらい、朝、周辺の散策ののち帰途につく。
「何もかも、必然としてそこにあるよね」
 恵子ママは、何度もそうつぶやいていたなあ。

7月★日
 家のなかは治ってきたが、2階への階段がまだつかない。
 長いはしごを使って上らなければならない。その昔、お蚕の家だった2階は広くて、がらんとしている。そこに窓をつけ、床を貼って、何かに用いようということになっているけれど、さて、何に用いられるようになるのだろう。
 ひとりでここに上がり、大の字になって、しばらく午睡。
 蚕のひとりになったようだ。
 蚕が生糸を吐くように、わたしもうつくしいものが吐けたならうれしい。

7月★日
 朝、庭を見ると、長女の梓がラジオ体操をしている。
 二女の梢は、いまだ夢のなか。
 前日の夕方、ふたり別別にやってきたのだ。

Hoshina
恵子ママの庭から、
ミントをもらってきて、飾りました。
飾りながら、ミントティーをたのしもうと
思います。

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2021年7月 6日 (火)

くまがや日記⑨

6月∵日
 台所がついた1週間後、わたしの机(夫の伯母が使っていた裁ち台)を居間に置く。
 坐ると、土間のむこうに台所が見える。
 台所の囲い壁はほんのわずか。カウンターをつけたから、台所は額縁のなかの絵のようでもある。反対に台所から仕事場のわたしを眺めるとすると、茂みに隠れてもぞもぞ何かやっている怪しいひと、ということになるだろうか。

 怪しくても何でも、仕事場ができ、台所がつき、わたしの軸は救われている。どこでどんな過ごし方をしようと、軸はなんとか立てられる。決してぶれない、なんていう強固な軸でなく、わたしのはそよぐような、すぐ揺れる軸だからだ。
 それでも、モノの置き場所が定まらない状態は、云い換えるなら、モノを探す日日だった。モノたちにも、そろそろ疲れがあらわれてきていて、先週爪楊枝が、わたしをにらんでこう云ったのだ。
「これまで、住所を持たない暮らしなんかしたことがないんだよ」
「ごめんなさいまし。もうちょっとお待ちください。ほんとうに、もうちょっと」
 爪楊枝立ても、祖母の嫁入り道具の下駄箱あらため食器棚の、上の引き戸のなかにおさまった。入りきらぬ在庫の爪楊枝は、台所奥の納屋の「在庫のひきだし」へ。
 納屋と呼んでいる部屋は元浴室で、頑丈な壁を有している。
 工事がはじまったころ、「壊すの大変だな」とつぶやきながらこの壁を叩いたコイドさん(このたびの工事の設計担当で、現場責任者)の横顔を見て、壁を壊さずひと部屋として残すことにした場所だ。
 しゃれて云うなら「パントリー」だろうが、この家には「納屋」がふさわしい。

7月∵日
 ははの命日。
 昨年のきょう、はははこの世から旅立った。
 朝から仕事をしたり、仕事場まわりを片づけたり、せわしなく過ごしていたが、雨が上がったのを見て、お墓へ。
 白い百合と、おいしそうな菊を抱えてゆく。農協の店で買った百合もうつくしいが、菊はしゃんとして只者でない風情をかもしている。それをおいしそう、と思うあたりが「ずれている」かもしれないが、わたしのそういうところも、ははには認めてもらっていたな、と思う。
 それに、ははとわたしは、どこか少し似ていたのだ。このあたりで云うところの「がしょうき」な気質である。
 漢字で書くとすると、「我生気」になるのか。
 がむしゃらというのか、夫に云わせると、「自我がはりきり過ぎている」ということになる。

(ねえ、おかあちゃん、なんだ、自我がはりきりすぎるって云うのは、さ)

 お墓の前で手を合わせたとき、ははが亡くなって1年たったいま、熊谷の家に棲んでいるのだなあとしみじみする。

(自分の家とは思わず、古い大事な家の管理人のような気持ちで暮らしてゆきたいと思います)

7月∵日
 ひとりで土曜日を過ごしている。
 昼ごはんに、おむすびをかじろうとして、とつぜん気持ちがわるくなる。くたんと坐る。こういうことは初めてのことで、これも体験、これも体験、と自らに云い聞かせる。

 自分で握ったおむすびだが、わるくなっていたか。
 芳(かんば)しからぬ霊に、やられたか。
 胃が疲れたか。

 いろいろ考えているうち、おさまり、しかし、食べるのだけは夜まで休むこととする。

 昼過ぎ、クロス貼りの職人のイソガイさんがくる。
 午前中の、本庄での仕事からここへ向かう途中、岡部の「道の駅」に寄り、とうもろこしともやしを買って持ってきてくれた。
 岡部のとうもろこしは、おいしい。
 生産者が「たまげた!」と仰天するおいしさ。
 もやしは、ぎゅっと固めたように袋に詰まっている。これが人気で、たちまち売り切れるという。
「ナムルにするといいですよ。味つけ? にんにくのすりおろし、砂糖、ごま油。もやしを塩で茹でるから、塩は入れないの」
 そう云いながら、大黒柱のある梁と天井の梁のあいだの崩れた壁をきれいにしてくれる。
 イソガイさんはわたしの少し先輩という年齢の女性。壁の下地をつくるのにコテをふるう姿も、クロスをシャッシャッと貼ってゆく動作にもうっとりする。
 だんな様が40歳代後半で亡くなったとき、この先どうする!と思ったという。
「だけど、あたりまえのように仕事が入って、何も変わらなかったの。ずーっとこの道でやってきました」
 4人の子どもを育てながら、職人生活をつづけてきた。
 わたしも自分を職人と思っている(思いたい)けれども、まだまだだという気がしてくる。

 コイドさんが寄って、様子を見てくれる。
 3人でお茶をしながら、「浄化」を思う。
 気持ちがわるくなったところへ、このひとたちがきてくれて、ほっとする。

「明日の日曜日。雨降らねえといいなあ」
 と帰りがけ、コイドさんが云う。
「何されるんですか?」
「土と遊ぶの」

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先週のブログを見た友人が、
「梓さんから譲り受けたコンポスト、
どんなのか、見せて」
と云うので、ここに。
住人がたくさんですから、そっと見てくださいまし。

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