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2021年8月の投稿

2021年8月31日 (火)

くまがや日記(13)

8月△日
 家の前の畑を抜けた先に、ブルーベリー畑はある。
 鳥や小動物から実を守るため、毎年6月になるとネットをかける。このなかに、30本のブルーベリーの木が行列している。
 夫が、東京にいながら自分たちにできる農作業をつくるため、苗木を植えたのが10年前。最近聞いたのだが、ちちとともに作業する時間を持ちたいとも思っていたという。
 ……ふーん、そうだったのか。
 ブルーベリーの木の種類は2種類。30本のなかには、太った大きな実をつけつづける木もあれば、ちょっと頼りない木もあるけれど、ことしは豊作で、おいしい実を長期間つけてくれている。
 熊谷の家の工事の監督コイドさんが紹介してくれた惣菜店に今夏、10パック、20パックと摘めた分を卸している。おいしいと褒められるのが励みになって、夫は2日おきに摘んでいる。わたしも、ときどき手伝う。
 きょう、空のバケツをぶらぶら下げて畑に行き、ネットをくぐるとき、ネットに引っかかって耳のピアスがポーンとはずれて飛んだ。
 はっとして探すが、みつからない。
「なんてこと? ことしつくったばかりのアコヤ真珠の……」
 と思いかけたが、首を振る。
「いやいや、こういうものをなくすときは、命拾い命拾い」


8月△日
 8月が終わりに近づいている。
 この8月をどう受けとめていたかといえば……。

 人騒がせな8月。

 そう思いついて呼んだところで、8月に責任があるわけではなく、多くはヒトが他者を……、いや地球全体を騒がせ迷惑をかけているのだが。
 だからこそ、そっと静かに見送りたくて、何か8月に捧げたくなる。
 何かとは何だろうか。
 と思うや、パソコンの根方に立てかけている「紫成寮歌」の歌詞カードと目が合う。これは、わたしの若き友人が高校時代自ら暮らした京都府立盲学校の寄宿舎のために作詞作曲した寮歌である(現在は大学生)。
 ……これだ。
 これを8月に捧げよう。
(友人の母上を介して許しを得、ここに歌詞を置きます)。
 声に出して読むと、自分のなかみが入れ替わるような気がする。

 紫成寮歌   作詞作曲 大野圭吾


古都の景色背にして
日日通うとおり
厳しい気候に負けぬ
健やかな暮らし

夢に向かう力 築く学友と
ともに住まう中で
新たに見える

助け合いの心 素晴らしき心
絆育む 紫成寮


志を忘れず 日日努力重ね
よぎる不安にも負けぬ
暖かな自信

紫野の自然
ときに浴びながら
思い描く未来 実を結ぶまで

成せば成ると信じ
道を切り開く
開くは我らが 紫成寮


8月△日
 三女が韓国留学からもどる日。
 コロナ禍の約束として、成田国際空港に到着しても、公共交通をつかうことができないため、夫とクルマで迎えに行く。
 三女がいろいろな不都合を跳ね除けて出発したのが202011月末だから、9か月がたっている。長いようで短く、短いようで長い9か月だ。その間、母船は移住を果たし、娘は他国で暮らしてことばを習得したのである。ともに挑戦の9か月ということになる。
 9か月のあいだ、娘を通して隣国から学んだことは、いろいろあるが、もっとも衝撃的だったのはスピードだ。決めたらとにかく動く。するべきことにすぐ着手する。韓国のひとたちは、動きながら決めたり、調整したりして進んでゆくのが得意だ。
 スピード感をすこおし身につけて戻った三女に触発されて、わたしの机上に重なっている、ぐずぐず案件に着手。こんなに溜めこんでいたのかと、ショックを受ける。

 久しぶりの家のごはん。
 しらす干しがいちばんウケる。

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漬けたはいいけれど、土用干しを
しないままの梅干しを干しました。

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2021年8月24日 (火)

くまがや日記(12)

 8月□日
 母屋の工事がおおむね終わったことを悟ったと同時に、波のように寄せてくるものがあった。ひたひたと。
 寄せてきたもののなかには、引越しの最終章も含まれていた。工事が終わるまで運びこむことができず、長屋門の部屋で待っていた段ボール箱のもとへゆく。
「待たせたね」

 わたしのバッグたち。
 夫の仕事の資料。
 三女の荷物。
 二女から預かった本。

 これらは波のうちでもはっきりとしたモノたちで、運んできて開けてやればよかった。
 しかし、もっとも大きさを感じさせた波は、「日常」であった。
 これに気がついたとき、5月8日にこの家に入ったときからずっと、「非日常」を生きていたことを知った。大波となってもどってきた「日常」はといえば、家計簿、日めくり、読書……。
 書きだしてみれば些細なことでもあるのだが、わたしの支柱ともいえる事柄である。

 たとえば家計簿。
 毎日、数字を記入することだけは何とかつづけていた。移住に伴う「特別費」はつけておかなければ、惜しかったとあとから悔やむ決算となるだろうと必死で項目と数字を書いたのだ。
 だが、5月から本日まで、ヨコもタテもたし算をしないままできた。ヨコというのはその日の支出合計、タテは項目別の支出合計だ。計算機を出してきて、どのくらいパチパチやらなければならないことか。

 たとえば日めくり。
 これほど気に入りで、しかも毎年大好きな友人から贈られる日めくりなのに、めくらずに過ごして、ときどきはっとして10枚くらいまとめてめくる。たまった日にちをめくるときには、日毎のやさしいことばを読みながら、自分で時を止めていたような気がして、なんとも云えない焦りが胸のなかにひろがる。

「非日常」を生きていたことに気がついたわたしは、熊谷での暮らしがはじまったころ書いた日記を思いだしていた。

                      *

 わたしのなかに芽生えて、育ったものがある。このたびの移住のテーマと云ってもよいかと思う。

「何事も大げさにとらえ過ぎない」

(中略) まわりに移住を打ち明けたはじめたのは、引っ越しまでひと月を切ったころのだったが、伝えた友人知人からは、「引っ越しを軽く考えないほうがいいですよ」ということばを少なからず受けとった。親身なアドバイスである。
 これをありがたく受けとめながら、ゆったりかまえ、失敗もまた、よしとしようと、考えることとした。するべきことのいくつかが抜け落ちたって、追いかければたいてい間に合うのではないか。失敗にしても……、これはあとから笑い話にしてたのしめるはず。

                     *

 たしかに引越しは軽くなかった。
 しかしそれを重荷にしないため、「何事も大げさにとらえ過ぎない」と決めたことは、やはりわるくなかったように思う。
 ほんとうのところ、ずっと移住にかかる作業と、仕事と、ぎりぎりのルーティーンしかしていなかったようだ。
 大げさに考えなかったからこそ、3か月半が過ぎたいまになってそのことに気がつき、「非日常」と対面して、あらま、なんて思っているのである。ぼんやりと。

8月□日
 読書。
 仕事上の「読む」はくり返してきたが、布団の上で寝転がって本を開くとか、待ち時間をみつけて鞄から読みさしの本をとり出すとか、そんなことはしなかった。転がればたちまち眠ってしまったし、待ち時間にも仕事をしないと約束の期日まで間に合わなかった。
 でも本日、読みました。

 岩手県盛岡市に住む友人が、8月のはじめに送ってくれた本は『デフ・ヴォイス——法廷の手話通訳士』(丸山正樹/文春文庫)。
 春ごろ、「おすすめです」とメールをもらったけれど、予定意を書きこむ小型カレンダーの隅に書名だけ記して忘れていた。
 物書きであるこの友人は、「おすすめです」を超えて「ふみこさんよ、読んだほうがいいよ」というとき、現物(本)を送ってくれる。「はいはい、読みます」と云っておいて、結局読んでいないことが伝わるのだろうと思う。
 友人が隣にいるような心持ちで読み進め、「ふみこさんよ、読んだほうがいいよ」はここだな、と思わせるところにさしかかるたび、「ほんとうだ、ありがとう」とわたしは声に出して云わずにはいられない。
 耳が聞こえない両親と兄を持つ耳が聞こえる主人公。
 読みはじめて20ページほどのところで、つぎのくだりに出合い、長いこと揺さぶられつづけていたことを、こんなに鮮やかに……と感激する。
                      *
 話しながら荒井は、この青年に好感を抱き始めていた。田淵が最初から、「聴覚障害者・健常者」という言葉を使わず、「ろう者・聴者」という表現をしているからだ。
                      *
 健常者ということばが、わたしにはわからない。
 それらしく生きているが、ほんとうにそうなのか。無理なくできることがいまのところいくつもあるが、そうでないひとを援けようというときならいざ知らず、自分を健常者と位置付けることを「どうかしている」と思わされるようになっている。
 それにだんだん年をとり、ゆっくり脱皮して、ほんとうのほんとうに健常者でなくなってゆくではないか。

 さて物語は過去に起きた殺人事件を軸に展開してゆく。その意味でサスペンスドラマであり、ぐんぐん引きこまれる。だが何より、知っていたつもりでいたことをほんとうは知らないままだったことを突きつけられるのだ。
 障害をもつひとの声だけでなく、世に問いたいことを持ちながら、いまのところそれがかなわないひとの声についてもおおいに考えさせられる。

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これはわたしの計算機です。
竹製なんですよ。
これからパチパチやって、
家計簿の5月、6月、7月の
決算をします。

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2021年8月17日 (火)

くまがや日記(11)

8月◯日
 工事の責任者であるコイドさんと、その相棒といえる大工のテバカさんが、1日がかりで、2階に上がる鋼鉄の階段に木の踏板をとりつける作業をつづける。高校野球の放送を流したりして、大型の扇風機をびゅんびゅんまわしたりして、おやつにみんなでアイスクリームを齧ったりして……、夏らしい日だった。
 2階は半世紀前までお蚕の家だった。そこに床を貼り、奥にひとつ部屋をつくってもらったのだが、このただ広い板の間を何に使うかは、これから考える……というより、運ばれてゆくだろうと思う。
 工事ちゅう、はしごをよじ登るようにして2階に上がっていたのが、きょうからはすたすたゆける。
 夕方、コイドさんとテバカさんが、にこにこ顔で云う。
「きょうまでほんとうにたのしい仕事でした。どうもありがとうございました」
「……」
「また、いつでも声をかけてください」
「……」

 このとき、母屋の工事がおおむね終わったことを知ったのだった。

8月◯日
 思えば5月のはじめに引っ越してきたとき、わたしたちの居住スペースはほんのわずかで、風呂もなければ、台所もないという半分キャンプ生活だった。毎日大工さんが午前8時半に通勤するほか、多岐にわたる職人さんたちがやってきて、さかんに音がたったり、「山本さん」「ふみこさーん」(奥さんと呼ばれてもぽかんとしているので、このどちらかで)と呼ばれたり、「お10時」と「お3時」の仕度にのぼせあがったり。

 職人さんたちの苦労を知っているから、住んでいたって、気の抜けないところがあり、壁に絵を掛けようというときでも、簡単に釘を打ったりできやしない。
 もともと、ある流れのなか、この家を預かって暮らそうとこころに決めている上に、大工さん職人さんの仕事を思いながら(この家の半分は、そういうひとたちのものでもある、という思いがあるんです)、わたしはゆこうとしている。この気持ちがあるかぎり、きっと守られて、ふさわしい暮らしびとに近づけるのではないかしら。

 ところで、職人さんたちへの観察のなかで、もっとも感慨深いのは、慎みである。施主とのあいだにきっちり縄を張り(比喩であります)、それをまたいでこちらへ踏みこまない。過ぎるのではないかと思えるほどの慎みは、長く受け継がれてきた伝統でもあろうけれど、たまには縄をゆるめてほしいなあと思うこともあったのだ。
 しかし、ひとりの職人でありたいと希いつづけてきたわたしには、慎みが不足しているとも省みられ、複雑。

8月◯日
 台所、食堂、わたしの仕事場は土間の上にひろがっている。
 土間と云っても、昔ながらの土間ではなく、打ちっぱなしのコンクリートである。呼吸のない床は、埃が立ちやすい。
 その現代土間の上で、わたしは下駄を履いている。
 カランコロンと音を立てながら、日がないちにち過ごしている。
「お母ぴー、何かあったの?」
 泊まりにきて、夜中に下駄の音を聞きつけた長女が座敷から飛びだしてきたことがある。カラコロカラコロと走っていたのが響いたのだろう。
「ごめんごめん、何もないのよ。ちょっと走っちゃった。えへへー」

8月◯日
 迎え盆。盆提灯を灯してお墓からご先祖さまがたをお迎えし、きょうは中日。
 朝目覚めると、亡きははが胸のあたりで何かささやいている。
「ふんちゃん」
「は?」
「ふんちゃん、みそはぎ!」
 ああ!
 1週間前に園芸店で求めて、鉢に植えておいたのに、「切って、水を張った皿に寝かせて置く」を忘れていた。
 そうだった、そうだった。

 2018年のお盆、杖をつきながらもははは気丈に仕度をすすめていた。
 あのとき、ははにくっついて、ご近所の庭にみそはぎを分けてもらいに行ったのだ。みそはぎは精霊花とも呼ばれていて、なんでも、この花の露をご先祖さまがたは好んで摂られるのだということを、このとき、おしえられた。

 忘れていることは、きっとほかにもあると思うけれども、ことしはこれで精一杯。たのしゅうございました。16日にはお送りします(送り盆)。

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盆提灯のろうそくをともすほか、
お墓で長い線香に火をつけ、
それを持って大急ぎで家に帰ります。
これを仏壇の香炉に立てて、
家でのお盆がはじまります。

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5月に越してきてから、
夫とふたりで考えて設えた仏壇です。

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2021年8月10日 (火)

鳴く

 8月8日の夕方、机をはなれようとするわたしの耳に、なつかしい音がするりと入りこんできた。
 音と呼んでいいものか。
 いや、それは声である。その主とわたしは声を持つ同じ生きもの。

「鈴虫」 
 疑ってみるも、それはどうしても鈴虫の声だ。
 昼間さんざんセミが鳴き、それは大合唱だったのが、午後5時ごろぴたりとやんだと思っているところに、リーリーと異なる演奏がはじまった。セミのを大合唱と云い、鈴虫のを合奏と云ってみるのは、単にわたしの癖である。
 そうではあるけれども、セミは腹部にしくみによって鳴いているから合唱、鈴虫は羽を立ててこすり合わせるから演奏、と云い分けるのはまちがいではないかもしれない。

 ともかく、暑いさなかに鈴虫が鳴きはじめた(以下、みんな鳴く)。
 秋が、夏の背中に追い迫ってきている証しだろうか。

 この夏、大切なひとを失うという経験をした友がある。
 友の、年若き肉親とのとつぜんの別れを知って、呆然とわたしはセミの鳴くのを聞き、鈴虫の鳴くのを聴いていたのだった。
 虫たちの鳴くなか、わたしも鳴いている。
 ミーンミーン、ジージー、リーンリーンという響きのおかげで、ひとりこころを決めて鳴くことができ。

 残された者たちの悲しみは深く、そこから立ち上がる力が与えられるのか、与えられるとしてもいったい何時(いつ)、どこから与えられるのか、知らされないまま時を過ごすこととなる。

 しかし……、旅立ったひとたちは、誰も彼もなつかしい絶対的な「場」に帰ってゆくのだ。
 ということを、虫たちに混ざって鳴きながら知る。

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夕方、門を閉めます。
このとき、わたしの内部の何かも
こそっと閉まります。

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2021年8月 3日 (火)

夏の祈り

 セミの大合唱。
 降るように、湧くように鳴いている。
 わたしには、これが読経のように聞こえる。
 夏は立ちどまり、静かに胸のあたりを耕して、祈る季節だからかもしれない。
 ことしは熊谷のセミの大合唱のなかにあって、それは力づよく、休まず、耳ばかりではなく、このからだのすべての機能から染みてくる。

『最後の空襲 熊谷(814 15日戦禍の記録と継承)』という本を手にとって、セミの大合唱のなかで開く。「熊谷空襲を忘れない市民の会」が編んだ本である。 
 1945年(昭和20年)814日午後1130分焼夷弾投下。
 これは終戦の815日に行われたさいごの空襲であり、埼玉県下最大のものだった。熊谷市は戦後、県内唯一の戦災復興都市の指定を受けている。
 ははから聞いたことがある
 熊谷市の中心市街地にある姉の嫁ぎ先で空襲に遭ったははは、深夜空襲を受けて、姉妹で当時田園地帯であった肥塚(こえづか)に走って逃げたのだ。
「とにかく、走って走って逃げたのよ」
 と云うときのははの声は、いつもかすれる。
 恐ろしい記憶と闘いながら、しぼり出すように語っては、ふう、と息をつく。5人きょうだいの末っ子のははは、当時12、3歳だった。
『最後の空襲 熊谷』には熊谷出身の作家森村誠一が「熊谷大空襲」という一文を寄せている。
 ここには、夜、父親に枕を蹴飛ばされて起き上がると、周辺が真昼のように明るくなっていたこと、家族5人で近くの星川という小川に逃げたこと、父親の判断で市外へ逃げたことが記されている。
 市内の中央部を流れる星川に逃れた人びとは、皆、熱波に焼かれたという。

 いつ、どんな形かわからないが、書いて、それを発表したいという突き上げるような衝動であった。この経験が、私がものを書く方面を志した原体験と言えよう。

 このように、森村誠一の「熊谷大空襲」は結ばれている。

 さてなぜ、熊谷空襲は起きたのか。
 熊谷市の中心市街地には、現在の太田市にあった軍需工場・中島飛行機株式会社の下請け工場があった。そこでは戦闘機の給油タンクの部品やネジを製作し、トラックで太田まで運んだのであった。
 この空襲は、熊谷に移住するまで長年暮らした東京都武蔵野市にも、つながりがある。1944年(昭和19年)1124日、武蔵野市に起きた初空襲も、中島飛行機武蔵製作所への爆撃だった。
 つながりと云ってもこれは悲劇であるけれど、このことは、わたしに戦争について学びつづけることを促してもいる。過去の出来事をなかったことすることはできない。いや、そのやり方を選ぶ道もあるのかもしれないけれど、過去の出来事をこころに刻み、学ぶことによってなら、過去を変えることができるのではないか。過去を変えるというのは云い過ぎかもしれないが、それは現在と未来のための礎(いしずえ)をつくるという意味だ。
 そういえば『最後の空襲 熊谷』も、未来にどうつなげてゆくかという視点で編まれていたな。高校生による熊谷空襲体験者へのインタビューが柱として立っている。

「きょう初めてホーシンツクツクが鳴いてた」
 と、おもてから戻った夫が云う。
「ホウシン、ツクツク? そりゃなんじゃ?」
「ふんちゃんは、そうか、ツクツクボウシって呼ぶんだね」
「こっちのひと、っていうか、お母ちゃんなんかはホーシンツクツクって云っていたんだよな」

 アブラゼミ、ニイニイゼミの大合唱。
 降るように、湧くように鳴いている。
 わたしには、これが読経のように聞こえる。
 ホーシンツクツクも鳴いて、ものを思わせる。
 夏の祈りを思いださせてくれるのだ。
 そのうち、ヒグラシ(カナカナ)も鳴くだろう。

Azami
あぜ道にあざみをみつけました。
祈るような姿だな、と思いました。

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