くまがや日記(17)
9月∈日
東京での仕事に向かう。
熊谷駅の売店のガラス戸に写る、湘南新宿ライン(高崎線)の車窓に写る自分の姿になんとはなしに違和感をおぼえながら、その感覚がどこからくるものなのか、わからないままでいる。
新宿駅に近づき、立ち上がろうとしたときだ。
「Vネック!」
この日は気温が高く、わたしは黒い袖なしのブラウスに白いレースのタイトスカートを合わせている。黒カーディガンを肩羽織りにしているのはいいとして、そうだ、違和感の原因はVネック。
丸顔であるせいかVネックが似合わず、丸首を通してきた。
それがどうしたことか、この日Vネックを着ているのである。
朝、寝ぼけてブラウスをうしろ前に着たものらしい。どちらが前でもかまわないデザインだが、わたしはVをうしろ側にして着なければならない。
新宿駅で洗面所の個室に飛びこみ、着直す。
一瞬にして違和感は消え去った。
9月∈日
このところ、夜なべ仕事がつづいている。
熊谷の夜は深く、真っ黒だ。
深みにはまり、黒く沈むひとりきりのこの時間は、外から流れこむものを遮(さえぎ)る。もしかしたら、もっともわたしに必要なひとときであるのかもしれない。
とっとと仕事を進めればいいのだが、夜に誘われて、気が揺らぐ。
ことばを手に入れたいと焦りながらも、わざとゆっくりハーブティーを淹れたりしているうち、夜は更けてゆく。
9月∈日
庭をデザインする仕事をしているササキさんがバイクでやってきてくれた。
待っていました、ササキさん。
自作の天然酵母のパンと、これまた自作の味噌をお土産にいただく。このひとの佇まいは……、不死身の魔法使いだ。
この日はこれから庭を、畑をどうしてゆくかを相談することになっていたのだが、庭を眺めるなり、茂みのなかからスズメバチの巣をみつけ出したのにはおどろく。
わたしよりスズメバチたちがおどろいたのにはちがいないが。
殺虫剤を噴霧し、着火ライターを使って火を点けて、その即席火炎放射器で巣を焼く様子は、さながらファイヤーショーだ。スズメバチたちは、なぜだろう、はじめからから戦意を失っており、あっけなく落ちてゆく。
熊谷に住むようになってから、ヒト以外の生物との折り合いについて考える機会がふえている。
スズメバチに向かっても、すまない気持ちになるのだった。せめて、ここに生前の様子をとどめておこう。
巣の立派なこと。蜂たちの勤勉。
9月∈日
市役所に出かける。
ほんとうは市役所への用事はおまけであり、本筋は、市役所近くの古い中華料理店での昼ごはんである。
「天津丼をお願いします」
天津丼を外で注文するというのは、人生初のことだ。
いつか食べてみたいと思うのに、結局五目焼きそば、麻婆豆腐、レバニラ炒めを頼んでしまうわたしだ。夏は冷やし中華ね。ラーメンはいわゆるラーメン店で食べることにしているから、頼まない。
盆の上に天津丼、わかめとねぎの味噌汁、漬物がならんでいる。600円也。
ふわふわでなく、とろみもついていないし、ご飯の上に山吹色の座布団がのっているような見かけなのだが、そこに滋味がある。人生初の注文として、忘れがたい天津丼となる。
「おいしゅうございました」
「そりゃよかった」と白髪頭の親父さんが云い、夫人が「うれしいわねえ」と笑った。
ああ、この店やっぱり好きだ。
いま、いちばんしたいのは、
手紙書きです。
父の絵でつくった
絵はがき(1985年/城ヶ崎海岸)で、
ことばが届けられますように。
〈公式HP〉
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