干し芋讃歌
1月21日
その昔、冬になると、母はガス台の上に網をのせて、平べったいものを焼いた。
「それはなあに?」
と、わたしは訊いたのだろう。「ほしいも」と発音するときの、母のうれしそうな顔が、いまも浮かぶ。
子どものころ、「ほしいも」がさつまいもを蒸して(煮たり茹でたりする工程のものもあるようだ)乾燥させた「干し芋」だとは思わなかった。
「食べてみる?」
と母に云われて、網にのせてあぶったそれを、食べてみたことがあったが、子どものわたしに「干しいも」の滋味も、おいしさもわからない。母がうれしそうに食べている「ほしいも」がさつまいもの変身だと知ってからはなおのことで、「さつまいものほうが、好き」と思っていた。
大人になってからも、「干し芋」との縁(えにし)は結ばれなかった。
長女の梓が「干し芋、干し芋」と云って、よく食べているのを見て、母の「干し芋」はここへつながったのだな、と思った。
茨城県に通う仕事ができて、定期的に通うようになった梓が、数年前から、口で云うだけでなく、「干し芋」をあぶってわたしの前に置くようになった。
「ほら、茨城の干し芋は、ほんとうに美味しいのよ」
食べない道はない、と云わんばかりだ。
こうしてだんだん馴染んでゆき、気がつけば「干し芋」を贔屓(ひいき)するわたしになっている。
昨年の暮れに梓から分けてもらった大量の茨城県産「干し芋」を、わたしは小分けにして冷凍した。
きょうもきょうとて、この甘み、滋養に励ましてもらいながら、仕事している。これがあるのとないのとでは、仕事の進捗(しんちょく)もちがうと思う。灯油ストーブの上に小さなフライパンを置き、そこで、軽くあぶって食べる。
1月22日
日当たりのいい廊下に、熊谷の家の蔵でみつけた長細い台をふたつ重ねて置いている。多肉植物さん方をならべたかったのだ。
東京に住んでいるとき、家にきてくれる宅配業者のオオタサンが、自宅で育てている多肉植物の赤ちゃんを運んできてくれるよういなったのが、はじまりだ。
なんでもオオタサンは、自分で育てた多肉植物がふえ過ぎて、「妻にふやし過ぎ!と叱られるようになった」そうだ。スーパーマーケットでよくみかける惣菜容器に、ぎっしりあれこれ多肉植物の赤ちゃんがならでいる様子は、あまりにもかわいかった。
「うわあ」
と歓声をあげたからだろうか、それから、オオタサンの赤ちゃんは、ときどきうちに届けられたのである。ふやし方、育て方、夏越しのこと、ときどきは水をやらなくてはいけないことなんかを、オオタサンは、玄関先でよくおしえてくれた。
家の近くの通りを歩いているとき、
「山本さーん」と声をかけてくれることもあった。
ズボンのポケットから、仕事用のじゃなく、自分用の携帯電話をひっぱり出して、「ほら、これにこんな花が咲いたのですよ」と云って、写真を見せてくれたりした。
「いつか、山本さんの家でも花を咲かせますよ」
いま、わたしは多肉植物のはなしを書こうとしているのだけれども、オオタサンがなつかしくてたまらなくなった。宅配の皆さんといえば、ほかにコンドウサン、ヤマモトサンにお世話になった。
親戚ではない、友だちというわけでもない、けれども確かに袖振りあって、縁を結んだひとびとによって、人生は案外力強くいろどられている。
多肉植物のはなしにもどるが、熊谷に越してきてから、一昨年の夏、油断して、大事な多肉さんの一部を、わたしは枯らした。東京育ちの皆さんに、熊谷の暑さは信じ難いものだったのかもしれない。
もう少し水を与えるべきところ、それをしなかったのが、わたしの油断である。
以来、気をつけて多肉さんたちと向きあっている(つもりだ)。
〈公式HP〉
https://www.fumimushi.com/
〈公式ブログ〉
http://fumimushi.cocolog-nifty.com/fumimushi/
〈公式Instagram〉
https://instagram.com/y_fumimushi
最近のコメント