雪が降りました
……静かだ。
という感覚とともに目覚めた。
窓から外を見ると、何もかもが白色で、ものの輪郭は無いのに等しかった。庭の樹樹も、草も、ゼラニウムもかくれんぼをしている。土や草木は雪を存在全体で受けとめるが、人工物はそうはゆかぬ。クルマなぞはかくれんぼが下手くそだ。屋根には分厚い白色をかぶっているが、側面はボデイそのままだから、ありゃ、真っ先にオニにみつかるな。
いやちがう。
真っ先にみつかるのはわたし、ひと、じゃないかな。
ひとのかたちは、雪のなかでもそのままだもの。蓑笠(みのかさ)をつけていれば隠れられるだろうけれど。
雪を眺めるわたしときたら……「あー、あー」としか声が出ない。
「あー」と歌っては昔を思い、「あー」と云っては昨日を思い、「あー」と唸ってはきょうこれからを思うのだ。限りなく雪に弱い東京に住んでいるから、気の揉めるのは習い症。地域の学校は通常の登校だろうか、交通はどうなっているか、いまのいまとて気にしている。
だが、どこかできょうのわたしはこんなふうに感じている。
雪を、困ると云いたくない。
雪を、怖れたくない。
困ることが起こったなら、そのときただ、困ろう。
怖れることが起こったなら、あたりまえにただ、怖れよう。
こうして昼過ぎ、わたしは長靴を履いて、隣町まで出かけたのだ。
ひとの足は、長靴7割、どこかしら雪対策のある履きもの1割、いつもどおりの靴2割、というのがわたしの観察。
雪は……、天が降らせた雪なのだ。
わたしの前に本日置かれた雪を、ただただ受けとめたい。
あたりまえに受けとめたい。
帰り道、家に近づくなか、わたしは路地を選んで歩いている。
細長いパン、えのき茸、クレソン、根三つ葉、豆乳という持ちもの。それを揺らし揺らし歩きながら、自分が何かを探していることに心づく。
見上げると夕焼け。
夕焼けが雲の底部を染めている。
天上から誰かが、贈ってくれた雪景色(ゆきげしき)。昨年旅立ったフジモトマサルくんだわ、きっと。
それから。
小学1年生くらいだろうか(なんとなく)、おかっぱの女の子。家の前でひとり、かわいらしい雪だるまをつくっている。
そうだ、わたしが探していたのはこれだった。
天から友が手紙のように降らせる雪。
地にあって、雪をよろこぶ子どものつくる雪だるま。
ことしはこの帖面に、1年を記録します。
昨年12月、友人の悦子さんが、
イタリア旅行のお土産にくれた帖面です。
「1時間」をともに過ごすため出かけた羽田空港で
これを手渡されたとき、驚きました。
この10年使いつづけている帖面と、
まったく同じサイズだったからです。
友だちというのは、そういうものなのかもしれません。
どこかが、ぎゅっとつかまれている……。